2013年6月26日水曜日

第19回勉強会のお知らせ


下記の日程で、第19回の勉強会を開催いたします。
御多忙のところと存じますが、ご参加をお待ちしております。

日時:2013年7月28日(日) 14:00~17:00
会場:京都商工会議所 第二会議室
 ※いつもの第一会議室とは異なり、3階です。ご注意ください。
 
発表者およびタイトルについては、決まり次第追記いたします。
→決まりました。以下の通りです(6/29)


テキスト
図書館を育てた人々. 日本編 1 / 石井敦. -- 日本図書館協会, 1983.6
http://opac.ndl.go.jp/recordid/000001644230/jpn
http://webcat.nii.ac.jp/cgi-bin/shsproc?id=BN01584842

から、「鈴木賢祐」を取り上げます。
発表者:服部 智


また、終了後は、懇親会を予定しております。

おおよその人数を把握したいので、参加ご希望の方は
会合の一週間前までを目安に、
事務局<toshokanshi.kansai @ gmail.com(@は半角)>までご一報ください。
twitterアカウント@k_context宛にご連絡いただいても構いません。
どうぞよろしくお願いいたします。

2013年3月15日金曜日

第18回勉強会(2013年3月9日)報告

「図書館“展示”の歴史について」
日時:2013年3月9日(土) 14:00-17:00
会場:京都商工会議所 第一会議室
発表者:長尾 宗典氏

 当日の出席者によるtwitter上のつぶやきをまとめたものはこちら 

はじめに

 今月で関西文脈の会が発足して3周年。本報告では図書館展示の「歴史的意味」について検討し、その現在の位置付けを踏まえた上で、今後の展望を考える。

1.「展示」とは何か-議論の前提として

 NDLでは東京本館に展示企画係を常設しているが、関西館小展示など多くの展示は委員会組織によるプロジェクト方式で企画・実施される。委員会方式は機動力がある代わりに、本務とのバランスの取り方が難しい。しかし、図書館では展示のための常設部署を置かないのはよくあること。
 展示を観る人(利用者)の意識はどうかと考えた場合、博物館・美術館と図書館を区別しないはず。博物館法では公立博物館の入館料等は原則無料としており、「無料」もあまり理由にならない。逆に近年、博物館では撮影可などの新しい試みも行われている。こうした状況を考えると、レベルの低い展示は図書館のイメージダウンになる、といえる。
 翻って博物館史に目を向け、日本の博物館の系譜を概観する。明治期において、日本の博物館には共進会・古社寺保護・教育博物館など複数の源流が存在した。戦後、明治百年事業を契機として博物館の数は大きく増加する。そして博物館の役割として画期となったのが、梅棹忠夫の「博情館」構想である。今日、梅棹の構想を振り返ると、その「博物館」は「図書館」にも置き換え可能であり、この点に図書館と博物館の近縁性を見ることもできる。
 それでは「展示」とは何か。用語としては、古くは「展覧」「陳列」。パリ万博が転回点となり、第二次大戦前夜には「物の観方」を提示する方へ傾いてゆく。

2.図書館″展示″の歴史

図書館学者の意見としては、展示(陳列)について肯定的なものが多い。法規的基礎の問題として考えた場合、改正図書館令(1933)において「附帯施設」条項が追加されたことが一つの画期といえる。この条項は、松尾友雄と中田邦造によるいわゆる「附帯施設論争」で知られるが、その中で「図書館は図書館として発達せしめよ」と論じた中田も、「展示」は図書館業務と考えていた形跡がみられる。そして戦後の図書館法(1950)で、図書館奉仕としての「展示」が位置づけられるに至る。
 戦前~戦後の主な図書館「展示」から指摘できるいくつかの傾向としては、「陳列」から「主題展示」への変遷、会期の長期化、展示資料点数の漸減、展示対象の多様化、が挙げられる。

3.図書館“展示”の意味とは?

 これまでの図書館における展示には貴重書重視の傾向があったが、実際には必ずしも古典籍に限らないニーズがある。また古典籍は資料管理などの点で展示する際のハードルが高く、企画によっては単なる「陳列」になってしまうこともありうる。「とりあえず古典籍」という展示はそろそろ飽きられる。観た人に強い印象を残せるのがいい展示であり、規模はあまりリンクしなくなりつつある。
 職員のスキルアップのみを目標にしていいのか、という点も問題。図書館には資料についての「調査研究」義務はない。また図書館の展示は図書館奉仕であることから、職員以上に来館者の認識を高めることが重要になる。外部有識者に監修を依頼するのも一手ではないか。
 展示を広報戦略としてとらえた場合、どのレベルでの理解を求めるのか。Accountabilityを展示する、というのは一つのスタンス。レファレンスと絡めるのもありうる。
また、「展示」を見てもらう前提として、会場に来てもらわねばならない。遠隔サービスの拠点を謳う関西館で一生懸命「展示」する、というのは矛盾していないか。「集客」という指標の呪縛がある。この点をフォローするには、来場者へのお土産を充実させたり、巡回展示を企画するなど、その場にとどまらない工夫が必要。

おわりに-これからの図書館“展示”は何をするのか?

「図書館の展示を企画すること」は「新たな文脈を作ること」。


主な質疑は以下のとおり

・博物館でしているのは「展示のための研究」ではない。研究しているから展示をする。
 図書館で外部から人を呼んでまで展示をする意味は何か。
   →少なくともNDL、大学図書館は意味があるはず。
    図書館も諸館種ある中で、「展示」の在り方・意味を一律に規定する
    のは難しい。が、少なくとも学術情報支援を目的としている図書館は、
    職員がもっと資料研究すべき。

・「博物館」とは何か、という合意は博物館関係者の間でも取れていない
 =議論の基盤がない。では「図書館」はどうか?
   →「文化資源を見せる」ということから機能を再定義する、のもありでは
    ないか。

・図書館展示の特徴として、「無料」であることがよく挙げられる。
 しかしあまり認識されていないが、展示にかけるコストの問題がある。
   →コストを抑えるためにもコンテンツの蓄積が必要
    (使いまわせるものは使いまわす)

・常設の展示スペースを設けてはどうか。
   →情報提供目的。(@滋賀県の図書館)
    現実的には利用者の導線設定が課題だが、これは提供側の意識。
    利用者側からみるとどうか?

・誰と、どういう関係を結びたいか、によって展示コンセプトは決まるはず
   →一例としてはベタな資料をうまく展示することで、日頃そういった
    資料に触れる機会のない人に働きかけるアプローチが考えられる。
   →「広報としての展示」と考えるなら、しっかりマーケティングすべき。
  また単発で終わらせてはいけない。

・デジタルの展示について。正直見にくい。
 ←多くのデジタルコンテンツの主たる利点は検索できることなので、
  見やすさは第一優先ではないのでは?

・デジタル展示先行型としては、NDLの「本の万華鏡」がある。
 コストを下げる&ロングテールを狙う。
 近代デジタルライブラリーのPRという目的も。
  ※著作権が存続している資料は著作権の問題がネックになり、古い資料に
   流れがち。(現物の展示はできるが、ネットに上げられない)
 →Webとリアルの展示手法組み合わせ  
  *図書館(文字情報)のほうが博物館(立体)よりアドバンテージが
   あるかもしれない。

・展示のノウハウの蓄積が必要。
 →展示リストの記録・公開
 →図書館「展示」の理論化 *大学図書館で2000年以降活性化
  ※博物館でもあまり理論化されているわけではない。しかし近年、
  学芸員資格のための科目において、展示について多くのページを
  割いた教科書が出てきている。

そのほか、展示のあり方・方向性について、活発な意見交換がなされた。
終了後は懇親会が催された。

2013年2月14日木曜日

第18回勉強会のお知らせ


下記の日程で、第18回の勉強会を開催いたします。
御多忙のところと存じますが、ご参加をお待ちしております。

今回は長尾が、日本の図書館の展示について、明治以来のあゆみを振り返りつつ、取り上げます。発表者自身が担当した展示会経験を踏まえて、図書館の「展示」活動というのはどういう風にしたらよいだろうということをみなさまと共有させていただけたらと思っております。


日時:2013年3月9日(土) 14:00~17:00
会場:京都商工会議所 第一会議室

発表者:長尾 宗典(国立国会図書館関西館)
タイトル:「図書館“展示”の歴史について」

また、終了後は、懇親会を予定しております。

おおよその人数を把握したいので、参加ご希望の方は
会合の一週間前までを目安に、
事務局<toshokanshi.kansai @ gmail.com(@は半角)>までご一報ください。
twitterアカウント@k_context宛にご連絡いただいても構いません。
どうぞよろしくお願いいたします。

2013/3/6 追記 ***************************************

当日資料をこちらに掲載しました。

なお、当日の発表部分の配信は終了しました。
ご覧頂き、ありがとうございました。

2012年12月17日月曜日

第17回勉強会(2012年12月16日)報告

「長田史料について」
日時:2012年12月16日(日) 14:00-17:00
会場:京都商工会議所 第一会議室
発表者:門上 光夫氏
出席者:15名

 当日の出席者によるtwitter上のつぶやきをまとめたものはこちら

 今回は、十五年戦争期に大阪府立図書館長だった長田富作(おさだ・とみさく)が遺した図書館活動に関する史料を紹介していただいた。長田は広島高等師範学校卒業後、大阪府視学、大阪府立夕陽丘高等女学校長等を歴任した後昭和3年に大阪府立図書館司書となった。書誌学者で図書館学に関する著作はなく、また田島清『回想のなかの図書館』での評価も芳しくない。
 同史料群は長らく大阪府立中之島図書館に置かれていたが、発表者の門上氏が関わっていた『中之島百年』編纂時に使用された。書簡と文書に分かれ、文書については一通り整理が完了し、今回の報告となった。書簡については今後整理を進める予定だという。
 史料群は大阪府立図書館の庶務・展示会・貸出文庫関係、また大阪や近畿地方の連絡組織関係、日本図書館協会関係、中央図書館長協会関係のものが全480点存在している。
 報告では史料群のなかから、府立図書館出納手講習用に用いられた「図書館概論」や青年層のための国民精神総動員文庫関連の史料、戦地への「貸出」記録、読書会の史料、大阪文化施設協会の史料、日本図書館協会や中央図書館長協会関係の議事次第や名簿などがあることが紹介された。
 また、門上氏から、戦時期の図書館活動に関する一次史料の発掘をこれから進めていく必要があること、並びに戦時期の図書館活動を日本の近代の歴史の中にどう位置づけて行くかという点について問題提起がなされた。

主な質疑は以下のとおり。

  • 大阪の公文書が焼けてしまっている中で貴重なものと考えられるが、残存している分の公文書(起案文書等)とこの長田史料の文書は連動しているか。→公文書についてはいつどのようなものが作成されたか、年表も作って調査してみたが、長田史料に残っているものと時期的にズレており、府が発信して図書館で受信した(あるいはその逆)のような関連性は長田史料のなかからは認められないように思う。なお庶務関係文書は人事や給与、施設などお金が絡むものが中心で、これで全部というわけではない。
  • この史料群を、長田「史料」として命名してよいか。出所などはどうなっているか。→命名は『中之島百年』編纂以来のもの。元々長田の退任後に風呂敷包にくるんで別置してあったものなので、他のグループからの混入はなく、比較的まとまった塊だと考える。
  • 未整理の書簡の点数は何点くらい?→残念ながらまだ確定できていないが、段ボール何箱というような量の多さではない。
  • 読書会の例で山田村が挙げられているが、ここは戦前争議が多かった地域で、『吹田市史』にも数多く史料発掘されているはず。見ると関連のものが出てくるかもしれない。
  • 戦時期の「発明文献」展示会は、前回阪大の田中敬についての報告でも似た話が出てきた。阪大と何か連動した企画などはあるのか。→今のところわからない。
  • 大阪市が作った『町会文庫』が入っている。この頃の府と市の関係は?また文化施設の連絡という点で、前任の今井館長は退任した後美術館長になっていたと思うが、何か長田さん以外の人の動きが見えてくる史料はあるか。→府市の連絡は不明。中央図書館に指定されたあとも各館にどういうことをやっていたか具体的にわかるものは発見できていない。今井貫一はこの当時亡くなっているので今井さんが動いたということはないが、今後も調べてみる。
  • 文化施設の連絡というのは、あまり聞いたことが無い、東京や京都のような大都市ではやっていないと思う。大阪独自という可能性もあるので、史料的な価値は高そう。
  • 大阪文化施設協会が面白い。文化講演会のお知らせ(プログラム?)があるようだが、どんな人が呼ばれていたのか。それによって同会の性格付けはできるか?→大阪商科大学長で経済学者の本庄栄治郎などを呼んでいる。地元の人を招いている。
  • 戦時下の巡回文庫に独自性があるとしたら、従来来なかった層に閲覧させていたということになると思うが、在郷軍人会とか、そういうところに本が行っていたのか。→来館出来ない層に届けるという面は確かにあり。戦時下はとくに就労すべき「青年層」の補修機能を強調している。
そのほか、こういった史料を書庫で見つけたらどうしたらよいかについて、様々な意見交換がなされた。
終了後は忘年会が催された。

2012年11月30日金曜日

文脈の会 東西合同合宿(2012年11月3日~4日)報告

日時:2012年11月3日(土)~4日(日)
会場:金沢文圃閣(石川県金沢市)
出席者:16名(東京11名、関西5名)

東京と関西に拠点をもちそれぞれ活動している文脈の会メンバーの親睦と研鑽を目的として、初の合宿を開催した。場所は図書館史・出版史・書誌学に関する精力的な出版を行なっている金沢文圃閣・田川氏のご厚意により、同店内の一角をお借りして実施した。
東西文脈の会から報告者を選び、以下に掲載する4本の報告が行われた。


◎徳川頼倫の人間関係(長坂和茂氏)

 紀州徳川家第15代当主・徳川頼倫(1872-1925)の人間関係について、図書館界との関わりを中心に報告がなされた。

頼倫は田安徳川家に生まれ、1880年に紀州徳川家当主・徳川茂承の養子となり、1890年に茂承の長女久子と結婚した。その後英国留学を経験し、1906年に茂承が亡くなると紀州徳川家当主となった。紀州徳川家当主となる前に南葵文庫を建設、当主となってからは史蹟名勝天然紀念物保存協会会長、日本図書館協会総裁、聖徳太子一千三百年遠忌奉賛会会長等を務め、様々な団体の設立・運営に携わった。

 頼倫は自らが南葵文庫を設立する一方、日本文庫協会の協会基金に寄附をしたり、全国図書館大会を南葵文庫で開催するなど、草創期の日本文庫協会(日本図書館協会)の有力な協力者であった。1923年に起きた関東大震災で東京帝大図書館の蔵書が焼失すると、頼倫は南葵文庫の蔵書を帝大図書館に寄贈し、文庫を閉館する。また同年12月に頼倫は5万円を日本図書館協会に拠出し、協会は毎年3千円の利子を受け取る約束を結んだ。

1925年に頼倫が亡くなった後、協会と紀州徳川家との関係は微妙なものになってゆく。紀州徳川家は震災の影響による地代収入の減少と1927年に十五銀行が破綻したこと等により、家の財政が窮迫していた。1931年に協会は社団法人に改組し、その際頼倫より寄附された5万円を基本財産として取り込む。ところが徳川家よりこの5万円の引き上げと利子給付打ち切りの申し出があり、この件は以後解決まで9年を要する争いとなった。

【質疑等】
  • 紀州徳川家顧問団の共通点は何か。 →上田貞次郎、小泉信三は父が紀州藩士。なお、1925年に徳川家家令鎌田正憲から日本図書館協会に対して上田、小泉を理事に加えるよう要求が出るが、小泉は慶應義塾大学図書館長を務めており図書館について全くの門外漢ではない。上田も東京商科大学教授であり、図書館と何らかの関係があった可能性あり。
  • 十五銀行は華族の叛乱防止を目的として華族から出資させていた銀行。その破綻は華族界全体にダメージを与え、松方巌はその責任を取らされた形となった。
  • 南方熊楠との関係 … 南方は頼倫に対して否定的評価をしている。
  • 史蹟名勝天然紀念物保存協会について→頼倫、達孝、戸川安宅、橘井清五郎など内務省関係者以外には徳川家のメンバーが多い。 丸山宏は、旧幕臣の文化的な復権を目指した、と指摘している。
  • 東京帝大図書館に寄贈された南葵文庫旧蔵書の中には、南葵文庫に寄託されていたものも含まれている可能性がある。
  • 家の跡継ぎが団体の総裁職を引き継ぐケースはあるか →そういった事例は見つけられなかった。その後の調査で聖徳太子奉賛会は総裁が久邇宮、会長が細川家によって引継がれていることが分かった。
  • 芝義太郎とは? →印刷機械製造大手の東京機械製作所社長。高柳との関係は不明。
  • 今後の検討の方向性としては、①頼倫の貢献を日図協の財政状況を追いながら丁寧に調べる、②1925年の状況について和田書簡などを再度精読し明らかにする、の2点が示唆された。

◎金森徳次郎と草創期の国立国会図書館-戦後日本におけるある「ライブラリアンシップ」の誕生-(春山明哲氏)
 国立国会図書館の初代館長を務めた金森徳次郎(1886-1959)を取り上げ、その生涯と業績について報告がなされた。

 金森は名古屋に生まれ愛知一中、第一高等学校を卒業後、1908年に東京帝国大学法科大学英法科に入学。1911年、東京帝大在学中に高等文官試験(行政科)に合格し、翌年東京帝大を卒業すると大蔵省に入省した。1914年に法制局参事官に転じ、以後法制官僚としての経歴を重ね、1934年には岡田啓介内閣の法制局長官に就任する。1935年の「天皇機関説事件」で委員会答弁をきっかけに攻撃され、翌年1月に法制局長官を辞任した。

 その後は終戦まで表舞台に出ることはなかったが、1945年11月に日本自由党の憲法改正特別調査会のメンバーとなり、憲法改正に関わることとなる。1946年、第一次吉田内閣で憲法問題担当の国務大臣に就任。1948年2月、初代国立国会図書館長に就任した。また同年4月には国会議員を中心に反対意見の多かった中井正一の副館長就任に同意し、中井を副館長に任命している。

 1950年1月から約2ヶ月間、金森は国会訪米視察団の一員としてアメリカを訪れ、米国議会図書館を始めとした米国内の図書館を視察している。この時金森はシカゴのアメリカ図書館協会で挨拶をし、その中で1947年に米国図書館使節として来日したヴァーナー・W・クラップ、チャールズ・H・ブラウンやダウンズ報告で知られるロバート・B・ダウンズに対する謝辞を述べている。

 金森は1948年に就任してから1959年に亡くなる直前に辞任するまでの約11年間、国立国会図書館長を務めた。この11年間は1948~1952年を前期、1953~1959年を後期とすることができる。1952年は5月に中井副館長が死去し、12月に建築委員会で新庁舎建築計画が決定した画期となる年であった。

 金森の功績としては(1)文化財・学術資料の保存、(2)調査及び立法考査局の拡充整備、(3)科学技術資料の整備、(4)憲政資料の収集・整備、が挙げられる。(1)は静嘉堂文庫、東洋文庫、大倉山文化科学図書館を「支部図書館」とし、財閥の文庫の支援を嫌うGHQの反対を押し切って文化財と学術資料の保存を図ったものである。(2)は訪米の成果であるが、米国議会図書館が国立国会図書館のモデルである、としてその後の組織整備に道筋を付けた。金森は図書館・書物文化の表現の場として雑誌『読書春秋』の刊行に力を注ぎ、みずから全105冊に随筆等を執筆した。一方では1958年に起きた「春秋会事件」に見られるように、組織運営における諸課題については、問題を指摘される面もあった。

 人事の上では中井正一を副館長としたことは成功として評価されている。また法制局時代から交友関係にあった佐藤達夫は金森の追悼文の中で、点字図書館を支援したこと、受刑者のための愛の図書運動を行ったこと等を挙げて、その「図書館人」としての功績を評価している。なお佐藤は1955年から1962年まで専門調査員として国立国会図書館に勤務しており、その間の最も重要な仕事として『日本国憲法成立史』全4巻の執筆が挙げられている。


【質疑等】
  • 戦後、吉田内閣閣僚としての国会答弁では、図書館使節団の来日前に議会図書館の必要性等を訴えている。
  • 中井正一のNDL副館長就任にはその前歴・思想から反対意見が多かった。金森もその任命に当たっては消極的承諾という態度。

◎竹林熊彦 -五つの論点(よねい・かついちろう氏)


 図書館学・図書館史研究者として知られる竹林熊彦(1888-1960)を取り上げ、その言説について報告がなされた。

 竹林については、関係者による顕彰的なもの、竹林文庫に関するものを除けば専論は少ない。その専論も評伝、あるいは図書館史研究者・史料発掘者としての言及・評価が主となっており、竹林の図書館員の労働問題・戦後の学校図書館運動への関わりなどと彼の主な研究領域であった図書館史研究との連関が明らかにされていない。また図書館史研究についても、その業績の中で「戦後歴史学」的価値観ではマイナスと考えられた点については棚上げした評価となっており、こうした点を含めてトータルとして把握する姿勢に乏しい。

 これらの課題を踏まえて今回の報告では、今後における,竹林が精力的に活動した時代(戦前から戦後初期)の図書館史の見直しを念頭におきつつ,報告者により5つの論点が提示された。なお,発表については,後日,発表者により文章化されると聞いている。

【質疑等】
  • ・戦前来「図書館の大衆化」をあれほど主張した竹林が,戦後,図書館発展の戦略として,地域における比較的少数の読書人を目標とした公共図書館運動を主張することとなった契機は何か。この契機が明らかにならなければ,彼は単に状況にあわせて言を左右したということにしかならないのではないか。 →残念ながら質問の点については,資料的に明らかにすることはできなかった。戦後の彼なりに,戦争を支えた当時の公共圏の流動化に対する反省的な認識があったようにも思えるが発表者の推測の域をでない。今後の重要な課題である。
 
◎中央図書館長協会について(鈴木宏宗氏)


 1931~1943年にかけて存在した中央図書館長協会を取り上げ、改正図書館令(1933年)以後の昭和前期の公共図書館の状況と中央図書館制度を調べる前提として、その事実紹介がなされた。

 1933年の改正図書館令は、日本の図書館史上重要な意味を持っている。特にこの第一条に盛り込まれた文言の解釈をめぐっていわゆる「附帯施設論争」が起こり、中央図書館制度にも言及されることが多い。にもかかわらず、この改正図書館令の実態を解明した研究は少ない。また中央図書館長協会についても、これに焦点を当てたものはほとんどない。

 中央図書館長協会設立の背景を探る際には、1931年に社団法人化した日本図書館協会の状況や当時の図書館界で形成されていた各グループのあり方を考える必要がある。当時既に図書館令改正に向けた活動が行われており、1930年3月には文部省が主催する全国図書館長会議が開かれ、そこで文部大臣から「現行図書館関係法規上ニ於テ改正ヲ要スル事項如何」との諮問がなされている。

 中央図書館長協会が成立したのは、1931年10月に開かれた全国道府県図書館長会議(帝国図書館主催)においてである。当時の帝国図書館長・松本喜一は師範学校長の経験があることから、これは師範学校長協会と文部省の関係を参考にした可能性がある。なお会の構成員は、「官立図書館長」「道府県立図書館長及之ニ準スヘキ公立図書館長」「六大都市ニ於ケル代表図書館長」とされた。

 同会の活動としては、1943年に会が解消するまでに7回協議会が開かれている。このうち、1933年5月の第2回協議会では中央図書館制度の導入が建議され、同年改正図書館令第十条には中央図書館制度を導入する旨が示された。1935年の第3回協議会では、「中央図書館ノ充実ニ関シ最モ適切ナル方策如何」との文部大臣諮問に対して答申している。この協議会と相補うものとして、文部省が主催する中央図書館長会議があった。参加メンバーも両者はほぼ重なるが、協会の協議会が“協議”なのに比べると、後者では訓示、指示事項等の構成となるなどの相違点もあった。

 また同会の機関誌として、『中央図書館長協会誌』が3号まで刊行されている。このうち、1939年に刊行された1号と2号は石川県立図書館長の中田邦造が編集を担当している。中田は翌年5月から『図書館雑誌』の編集となっており、報告者は中田の中央図書館長協会構成員としての経験が1940年8月に『図書館雑誌』に発表された中央図書館制度拡充意見につながっているのではないかとした。

 会の活動内容の究明とその転換点を明らかにすること、また他の協議会・教育関係団体との同時代比較が今後検討を要する点として挙げられた。

【質疑】
  • 改正図書館令は文部省が単独で起案しているのか。 →第三条など図書館行政にとどまらない内容もあるため、起案時に内務省に内々に交渉している。

 ※全ての発表が終了した後、金沢文圃閣さんのバックヤードを見学させていただいた。
 普段は目にすることのない事務スペースや書庫まで通していただき、じっくりと本を探すことができた。

2012年11月17日土曜日

第17回勉強会のお知らせ

下記の日程で、第17回の勉強会を開催いたします。
御多忙のところと存じますが、ご参加をお待ちしております。


今回は門上氏に、大阪府立図書館第二代館長を務めた長田富作氏に関する
関係史料をご紹介いただける予定です。


日時:12月16日(日) 14:00~
会場:京都商工会議所 第一会議室
http://www.kyo.or.jp/kyoto/kyosho/access.html
発表者:門上 光夫氏
タイトル:「長田史料について」


参加ご希望の方は、事務局<toshokanshi.kansai @ gmail.com(@は半角)>までご一報ください。
twitterアカウント@k_context宛にご連絡いただいても構いません。

なお、会終了後は忘年会を兼ねた懇親会を予定しております。
時節柄、会場の混雑が予想されますので、懇親会参加ご希望の方は
できれば今月中にその旨を事務局までお知らせください。

どうぞよろしくお願いいたします。

(2012/11/18 会場確定しました)

2012年10月30日火曜日

第16回勉強会(2012年10月21日)報告

『図書館を育てた人々 日本編I』を読む(8)
岩猿敏雄「幅広い図書館学の研究者:田中敬」

日時:2012年10月21日(日) 14:00-17:00
会場:シェアハウス鍵屋荘
発表者:土出 郁子氏
出席者:11名

今回はテキストから、東北帝国大学附属図書館、大阪帝国大学附属図書館などに勤めた田中敬を取り上げ、輪読を行った。当日のtwitterによるつぶやきをまとめたまとめはこちら


0.田中敬の略歴
・明治13(1880)年、現在の篠山市に生まれる。
・明治44(1911)年、東北帝国大学の図書館に雇用される。
・昭和8(1933)年、大阪帝国大学附属図書館へ移る。
・昭和25(1950)年に京都大学・大阪大学を依頼免職。同年に新制大学として発足した近畿大学図書館に事務嘱託として入る。
・昭和33(1958)年死去。
・テキストによれば、明治以降の図書館関係のうちでも和田万吉、竹林熊彦と並んで論著の多い人物。しかし田中の図書学・図書館学上の業績はあまり中央に評価されてこなかったとする。


1.東北帝大時代
・田中の大学での専攻は中国哲学であった。図書館に関わるきっかけとなったのは、東北帝国大学の初代総長となった澤柳政太郎との出会いと思われる。
・大正7(1918)年、『図書館教育』を著す。図書館の目的は資料の利用増大であり、図書館は社会教育施設であると主張したもの。大正8(1913)年に日本図書館大会で澤柳が行った講演の影響が強く伺われる。
・また『図書館教育』では大量の外国文献が引かれており、猛勉強ぶりが窺える。「開架式(open shelf)」「参考司書(reference librarian)」などの訳語を作っている。我が国において実務からでなくライブラリサイエンスを志向した初めての書と言われる(岩猿)。カード目録を縦書きから横書きにすること、ローマ字表記の採用なども主張していた。
 参考:田中敬「図書館教育
・明治45(1912)頃、狩野亨吉の蔵書(狩野文庫)が東北帝大に受け入れられる。狩野亨吉とは教育者にして蔵書家であった人物。田中敬自身の回顧によると、当時国立の図書館は狩野の希望である全ての蔵書受入が不可能であった中、東北大はできたばかりで蔵書がなかったことに加え、総長の澤柳が狩野と中学で同級であった縁もあり、受け入れることになった。沢柳自身も仙台に国立図書館を作りたいといった希望があったようだ。当時で10万円くらいの額になる蔵書を3万円くらいで譲った。
 参考:狩野文庫画像DB


2.図書学への取り組みと和漢書目録
・東北帝大時代の田中は狩野文庫の整理に尽力。田中の追悼文などの記述からすると10年程かけて仕事をしていたらしい。その中にあった『景徳傳燈録』という書物の由来を調査したことをきっかけに、図書そのものの研究に打ち込んでいくこととなった。
・大正13(1924)年『図書学概論』を上梓。図書学とは「図書に関する一切の事項を研究する学問」と田中は定義。広義のbibliographyを意識しつつ、その範囲に含まれる事象を「学問」として系統立てて網羅的に記述。なお岩猿によればbibliographyは当初「書史学」と称されていた。「書誌学」という言葉になったのは大正末年頃。ちなみに後に長澤規矩也が司書講習の科目で「図書学」という言葉を再度使っている。
・昭和7(1932)年、『粘葉考 : 蝴蝶装と大和綴 上,下』刊行。大和綴と粘葉装は違うものであると主張。両方を体感できるよう、上は大和綴、下は粘葉装で作られている。狩野文庫の『景徳傳燈録』についても触れている。→現物を回覧。
『粘葉考』を出した頃が、田中がもっとも盛んに活動していた時期か。

・この頃、田中は和漢書目録編纂規則にも関わっていた。大正13(1924)年、帝国大学附属図書館協議会が発足。この協議会で和漢書目録編纂概則が議題となり、田中は植松安(当時、東京帝大司書官)とともに原案起草を委嘱された。『図書館雑誌』の記述を追うと、昭和3(1928)の第5回会議で委嘱があり、昭和4(1929)3月の委員会で原案が提示され、寄せられた意見の反映等を経て、第6回の会議で報告された模様。『図書館雑誌』によれば第5回までの会議は公表されなかったらしい。ただし京城帝大からの修正案の提出が遅れたこともあり最終決定に至らず、成案を公表したのは昭和17(1942)年ともいう。
・当時、日図協でも和漢図書目録法改訂事業を行っていた。元になるのは、明治26(1893)年に田中稲城の提議により作られた和漢書目録編纂規則。昭和5(1930)年に日図協内に「目録法調査委員会」が設置され、田中もこれに参加。当時の委員長は今井寛一であった。


3.大阪帝大時代

・昭和8(1933)年、田中は大阪帝国大学附属図書館へ移る。大阪大学五十年史によると、当時の大阪帝大には附属図書館と工学部分室があり、館長1名と司書2名といった少人数で運営。司書以外のスタッフをあわせると両館で14名であったという。
・なお大阪大学附属図書館にはまとまった通史がない。戦前の大阪帝大附属図書館の業績としては『大阪帝国大学雑誌目録』(昭和12(1937)年)、『大阪帝国大学洋書目録』(昭和17-8(1942-3)年、全3篇)、『大阪学術雑誌目録』(昭和19(1944)年)など。
・昭和7(1939)年には『和漢書目録法』を著す。日図協理事長松本喜一からの勧めによる。日図協との関係は常に良好であったようだ。
・戦中・戦後は、図書の形態・活字・版木等に関する執筆がほとんどとなる。その後、昭和23(1948)年には京都大学の講師も兼務。関西圏の大学で、図書館学(主に書誌学)を担任。


4.晩年
・昭和31(1956)年に、東洋大学より文学博士学位授与。その2年後の昭和33(1958)年、78歳で没した。
   参考:田中敬 博士論文「図書形態学と活版印刷発明史研究上へのその応用」

【質疑・コメント】
  • 27-8歳で東北帝大に行くまでの間の田中の履歴は書き残されていないか? →不明。田中が没した際、図書館雑誌で追悼特集が組まれたが、ここに書いているのも東北帝大の人でありそれ以前のことは分からない。なおそれと別に、平成元(1989)年に近畿大学の図書館報『香散見草』11号で、1987年の私立大学図書館協議会の研究会に田中の娘さんに来ていただいて話をしてもらったという記事があった。
  • 田中の人柄について分かることは? →追悼文によれば真面目で礼儀正しく、夜中の1-2時まで机に向かって仕事をしていた。近畿大学図書館長時代、部下の中に飲み屋に入り浸っている人がいて、大学までツケを取りに来られた。その際田中は「部下の不始末は上司の不始末であるから」と、自分のボーナスでツケを払ったというエピソードがある。
  • 中国哲学専攻だった田中が図書館に関わるきっかけとなった澤柳政太郎について。彼は戦前の教育や大学図書館を考えるのに外せない重要な人物。文部官僚の切れ者で、文化に関わる色々な制度の立ち上げに関わった。40代で東北大総長になり、2年ほどで京大に移ったが、教授を解雇しようとして反発を受けたため、辞めて成城大に行った。以後も影響力は持ち続けた。澤柳の資料は成城学園教育研究所に残されている。田中と親しかったのなら、書簡などもあるかもしれない。
  •    参考:澤柳政太郎について(成城学園教育研究所) 
  •    参考:沢柳政太郎研究 
  •    参考:成城学園沢柳研究会 沢柳研究双書
  • 田中は沢柳とのつながりが強かった当初は教育系の論考を書いているが、やがて図書系の要素が強くなっていく。狩野文庫に出会って変わったのかもしれない。
  •  (会場で回覧された大阪大学附属図書館所蔵の『粘葉考 : 蝴蝶装と大和綴 上,下』について)見返しに波多野重太郎から田中鉄三という人物への謹呈と記されている。波多野はこの本の出版者。田中鉄三は1925年に九州大学の司書であり、1939年に退職して陽明文庫に勤めた人物。この本が阪大に所蔵されるに至った経緯を知りたい。
  •    参考:「九州大学百年の宝物」余話
  • 昭和19(1944)年『大阪学術雑誌目録』について。これは大阪帝国大学と、阪神地区書大学の間の雑誌の所在を明確化し、特に科学技術資料の相互利用を目指したもの。田中の関与は不明。ただし田中は1948年に『総合目録編纂法覚書』という著作を残しており、総合目録の編纂にも関わっていたかもしれない。
  • 田中の著述は昭和10年代以降、図書学に急速に傾いていったように見えるが、総合目録に関わっていたとすると、そうした形で社会との関わりを持った活動もしていたと言える。1944年には「ソ連出版界の展望」という論文を書いているが、これなどもやや異色。
  • 1940年代、時局を反映して、自然科学系の専門学校や学部増設が増えた。科学系の資料の需要が跳ね上がるいっぽうで、肝心の資料は入ってこない。という状態。こうした資料不足に対応するために、戦後には専門図書館がたくさん立ち上がって協力体制ができた。特に大阪帝大のような理系の大学では厳しい状況だったはず。決裁文書の綴りなどが残っていれば何か分かるかもしれないが。
  • 昭和初期に大阪図書館に勤めていた人の自伝で、戦争中の一時期に科学情報の学習や共有を進める動きがあったと触れられていた記憶がある。この件と関係があるかもしれない。
  •    参考:回想のなかの図書館
  • 和漢書目録の原案について、京城大からストップがかかったという話があった。中野三敏『和本のすすめ』によれば台北大学には日本の古典籍がたくさんあるというが、京城にもあったのかもしれない。
  • 田中の著作を見ると、図書館としては思想家というより実務者であったという印象がある。書物展望社とのつながりが気になる。また昭和12(1937)年には台湾愛書会の雑誌『愛書』にも何度か寄稿している。とにかく本が好き、書痴というような人物像だったか。

  • 以前本会で取り上げた植松安が、田中と共に帝大附属図書館協議会の和漢書目録編纂概則の原案起草を委嘱されたのが昭和3(1928)年。その翌年に植松は台北へ渡っている。植松がいなくなったり、田中が所属を変わったりした関係で事業が進まなかったのでは。
  • 石上宅嗣卿顕彰会 編『石上宅嗣卿』で、顕彰碑の設立への寄付者一覧の中に田中の名前が出ていた。
  • 田中は大阪にもいたが、青年図書館員聯盟とのつながりが見られない。田中に限らず大阪帝大自体も青聯に関連して動きが見えないが、日図協とのつながりが強かったためか。


終了後、懇親会が開かれた。