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2023年6月7日水曜日

第39回勉強会のお知らせ

下記の日程で、第39回の勉強会を開催いたします。

御多忙のところと存じますが、ご参加をお待ちしております。
日時:2023年7月1日(土) 13:30~17:00
会場:お気軽会議室 京都四条 (https://www.instabase.jp/space/2361271403)
発表者:長尾宗典氏
タイトル:「帝国図書館執筆余話」
(中央公論新社『帝国図書館』を課題図書とします。なるべく読んでご参加ください。)

参加ご希望の方は、会合の一週間前までを目安に、下記のフォームからお申し込みください。
第39回関西文脈の会 申し込み
なお、当日参加費(会場費を参加者数で割ったもの)を申し受けます。
発表者への事前質問もフォームからお受けします。

※対面開催を原則とします。zoomによる同時中継も検討中ですが、当日の会場環境により実施できない場合がありますので、あらかじめご了承ください。

【2023.7.3追記】
当日の録音(発表部分のみ)は、以下からお聴きいただけます。
 #14 『帝国図書館』執筆余話(2023.7.1 at 関西文脈の会)negadaikon

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2019年1月28日月曜日

第33-35回勉強会報告(Twitterまとめ)

ここ数回の勉強会について、報告記事を作成できておりません。ひとえに事務局3号の怠惰によるところで汗顔の至りですが、せめて最低限の情報だけ以下に記録させていただきます。

  • 第33回勉強会
日時:2017年7月30日(日) 14:00~17:00
会場:京都商工会議所 第一会議室
発表者:若林正博氏(伏見城研究会)
参加者:14名
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  • 第34回勉強会
日時:2018年2月4日(日) 14:00~17:00
会場:京都商工会議所 第一会議室
発表者:八尾典明氏
参加者:13名
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  • 第35回勉強会
日時:2018年12月8日(土) 13:30~17:00
会場:お気軽会議室 京都四条
発表者:長尾宗典氏
参加者:6名
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2017年3月2日木曜日

第32回勉強会(2017年2月25日)報告

第32回勉強会(2017年2月25日)報告
「日本の文書館の歴史に関するラフスケッチ~図書館とあわせて」
日時:2017年2月25日(土) 14:00~17:00
会場:京都商工会議所第一会議室
発表者:佐藤明俊氏
参加者数:8名

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はじめに
・発表者の勤務先である奈良県立図書情報館は、条例により「図書館」「電子情報の作成と発信」「公文書等の保存と閲覧」の三つの機能が定められている。
・1つの建物で文書館と図書館の機能を持つ複合施設だが、事務分掌は未分離。職員構成も一体。
・図書館系の職員から、公文書館機能についてのレクチャーを求められて話したことが本日のベース。

1.用語について
・公文書館の業務に関わる用語の説明。公文書、行政文書、ライフサイクル論、古文書、諸家文書、寺社文書、史料、記録、地域資料、郷土史家、MLAなど。

2.日本の図書館・文書館発達略史
・江戸時代以前は図書と文書の境界があいまい。文庫では両方扱っていた。
・明治以降、欧米の図書館・文書館・歴史学等の概念が導入。しかし図書館に比べ、文書館の概念はなかなか根付かなかった。
・日本図書館協会の前身である日本文庫協会の設立は1892年であるのに対し、全国歴史資料保存利用機関連絡協議会は1976年の設立。
・1908年、奈良県立図書情報館の前身である奈良県立戦捷記念図書館が設立。設立目的には「古文書類の保存」も挙げられている。ただし実際に当時どこまで古文書を扱っていたかは不明。
・当時の歴史学の対象は貴族大名クラスが中心。村役場文書などのような庶民の歴史に注目する人は少なかった。昭和初め頃、東京大学助教授の平泉澄は「百姓に歴史なんかない」「過去百年間は歴史学の対象ではない」と発言をしていた程。
・終戦直後、民主化やマルクス主義歴史学の影響等で庶民の歴史にスポットが当たる。一方で農地解放等の影響により諸家文書の散逸が進む。
・史料保存運動により、1951年に文部省史料館設立。のちの国立史料館、現在は国文学研究資料館アーカイブズ部門。
・1948年国立国会図書館が設立。形の上では旧帝国図書館を、小規模だった貴族院衆議院の図書室が吸収する形で作られた。各省庁に支部図書館が設置された。国会の指揮下でシンクタンク的機能を担わせようとする羽仁五郎の構想による。文書館にもつながりうる発想。

3.昭和中期の二つの「議論」
・1959年に日本で初めての公文書館として山口県文書館開館。県立図書館長だった鈴木賢祐(まさち)も関与。国立公文書館は1971年開館。
・1963年、日本図書館協会『中小都市における公共図書館の運営』(以下、「中小レポート」)発行。貸出を重視し、郷土資料の収集を必要としつつも、その定義として「現在出ている資料」を軽視し「殆ど利用されない虫食い本」を重んじる態度を好事家的として強く批判。
・同年『図書館雑誌』57-6掲載の、「中小レポート」作成メンバーの座談会記事。ここでも「虫くい本」を大事にする図書館員への強い批判がある。30年後、メンバーの一人である前川恒雄によって書かれた回顧記事(*1)でも同様の言及。
・1964年『図書館雑誌』58-7には、興風会図書館(野田市立図書館の前身)の佐藤真による批判記事。
・一方で、1964~1965年には史資料センター構想問題。日本学術会議の下のWGによる構想で、自治体古文書館の設置を促進し、地方ブロックごとに設置する国立館は主に複製を集めるとするもの。これに若手中堅歴史家や郷土史家が議論のしかたが非民主的で、実は原文書を旧帝大に集めようとする構想ではないかと反発し、構想は撤回された(*2)。
・中小レポートと史資料センター構想の2つの議論により、図書館と文書館が乖離。いずれも壮若対立の面があり、若の方が勝ってその後の主流となった。
・地域資料保存機能を市町村立図書館に担わせる路線は「中小レポート路線」に圧倒された。ただし1965年岡村一郎の論(*3)など、まったく無くなったわけではない。地域資料の保存は、図書館ではなく県史編纂事業、博物館、教育委員会等が担うことになる。

4.その後の展開
・昭和後期から1989年までの間、高度経済成長等の影響で県レベルの文書館設置が進む。
・市町村史編纂事業が進む。史料蓄積と、ハード面での整備も進むことに。
・1987年、公文書館法成立。
・平成期に入って、情報公開制度が普及。もともと公文書館は、作成後30年経てば歴史的な文書として公開しようという考え方。情報公開制度はこれより一歩踏み込み、プライバシー等の問題がなければ現用文書も公開すべきという考え方。
欧米では前者(公文書館)が普及した上で後者が導入されたが、日本は同時並行。

5.奈良県立図書情報館「公文書館機能」の現状について
・県の学事文書課が公文書館法を受けて公文書館を構想。
これに加え、かつて県立奈良図書館が諸家文書や戦前の公文書を閲覧に供していた実績があった。
この二つが背景。
・制度上は県総務課が県や出先機関の公文書を集中管理する強い権限を持つことになっているが、人員的な裏付けはない。
・館における公文書選別。保存年限経過文書リスト等から選ぶが、簿冊名が必ずしも内容を反映していないのが難しい。


6.質疑(主なもののみ、適宜まとめている)
  • 高度経済成長期やバブル期に市町村史編纂が進んだ理由。バブル期と、市政○周年が重なったことや横並び意識。ブームが終了した90年代以降については、参照すべき基本文献が見当たらないという問題がある。
  • 近世の藩文書がそのまま市町村立図書館に引き継がれたケースはあるか?→八戸の市立図書館は、八戸藩が持っていた資料を八戸書籍縦覧所として閲覧させたのが始まり。珍しい例。
  • 「中小レポート」の時代背景。その少し前に、年配の図書館員により図書館法改正運動が行われた。戦前の中央図書館制度の復活を目指したものと考えられ、それへの反発が若手から出てきたもの。ただし郷土資料自体よりも、それを重視する好事家的図書館員の方が批判の対象だった。
  • 「郷土史家」という語のイメージについて。郷土史家の主流層は教員だったが、昔の教員の資格は師範学校という中等教育機関でとるもの。学問的な訓練はあまり受けず、我流での研究をしている人もいたためか。著作や本人の経歴についても不正確な情報が残っている場合があり、確認の余地がある。

懇親会は、参加者が集まらなかったため省略となった。

・参考リンク:本テーマと関連し、以下の本について著者によるメルマガでの書評あり。
高山正也著『歴史に見る日本の図書館 : 知的精華の受容と伝承』勁草書房 2016.3

(*1) オーラルヒストリー研究会『中小都市における公共図書館の運営の成立とその時代』所収。日本図書館協会、1998
(*2) 経緯や反対論は、当該期の『地方史研究』『歴史学研究』による。
(*3) 『地方史研究』15-2

2016年7月31日日曜日

第31回勉強会(2016年7月30日)報告

「近代日本の目録史~欧米の目録規則の受容という観点から~」
日時:2016年7月30日(土) 14:00~17:00
会場:京都商工会議所第一会議室
発表者:今野創祐氏
参加者数:7名
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今回は今野氏から近代日本の目録史について発表いただいた。
今野氏が目録史に関心を持ったのは、当会で天野敬太郎を取り上げたことがきっかけ。その後目録の歴史に関心を広げて調べていくうちに、目録の翻訳の問題点をきちんと押さえる必要があるのではないか?と思うようになったとのこと。

江戸時代にも本を分類したものはあるが、標準化をはかるような目録はなかった。明治になって洋書も流入してくるようになって書籍を適切に管理するために、目録への志向が生まれたといえる。この問題に関する先行研究として、志保田務先生の博士論文がある。日本の標準目録規則の発展史を扱っているが、欧米の目録規則の翻訳・受容の具体像はまだ検討の余地がある。

欧米では、革命後のフランスにおけるフレンチ・コード、イギリスのパニッツィの91カ条目録規則など標準化の動きが生まれてきたが、世界的な影響を与えたのは19世紀に登場したアメリカのカッターの辞書体目録である。こうした発展を受けて、20世紀になると英米で合同で目録規則を策定しようという機運が出てきた。

こうした流れを受けて日本でも東京書籍館などで目録標準化への動きが起こる。西村竹間『図書館管理法』(1892)で紹介された目録編纂法、1897年に和田万吉が翻訳した東京帝国大学付属図書館の「洋書著者書名目録編纂略則」、日本文庫協会の「和漢図書目録編纂規則」(1893、1900年の図書館管理法に掲載)、1910年の日本図書館協会の「和漢図書目録編纂概則」、1926年の鞠谷安太郎、中島猶次郎『目録編成法』(間宮商店刊行)、1932年に日図協の「和漢図書目録法」、1942年の青年図書館員聯盟『日本目録規則1942年版』などを取り上げて比較し、それぞれの特徴が紹介された。

発表のなかでは、和田万吉の図書館用語の翻訳の問題点や日図協の和漢図書目録法では書名記入か著者主記入かをめぐる主記入論争という激しい論争を呼び起こしたことも紹介された。

主な質疑は以下のとおり。

  • 目録の先行研究のほか、分類に関する先行研究にはどのようなものがあるのか。
  • 昔の図書館雑誌の論争的性格について
  • 大橋図書館で行われた図書館事項講習会では目録法は誰が担当したのか?その影響は大きいのではないか(→確認したところ、和田万吉が講師と判明)
  • 間宮商店について
  • 目録史において、ドイツの影響はあったのか。
  • 目録をとるときの情報源については、変化が見られるのか。


終了後は、懇親会が開かれた。

『図書館を育てた人々』読書会記録まとめ

事務局2号です。
テキストである『図書館を育てた人々』について、すでに取り上げた人の一覧があるとわかりやすいというご要望があったので作成しました。
リンクをクリックすると、勉強会報告のページに飛ぶようになっています。

こちらの発表希望もお待ちしています。




2016年2月29日月曜日

第29回勉強会(2016年2月28日)報告


「田中稲城の夢:帝国図書館構想をめぐって」
日時:2016年2月28日(日)
会場:京都商工会議所
発表者:長尾宗典
参加者数:11名
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【発表者による要旨】

 田中稲城は、日本で自覚的に「国立図書館」の果たすべき役割について自覚的に語った最初期の人物の一人である。今回の発表では、彼の図書館構想の特徴は何であり、とくに明治期の文教政策とのような関係にあったかについて、同志社大学竹林文庫中に含まれる田中の意見書草稿類の検討を通して解明することを試みた。
 明治10年以前、田中が登場するよりはるか前からNational Libraryや国立図書館に関する調査や意見は表明されていた。しかし、そこでは一般の利用といった点はあまり考えられておらず、文部省の図書館政策にも直接的な影響は与えていなかった。文部省が所管していた東京書籍館では、“Free Public Library”として、つまり無料原則に立つ公立図書館としての自己規定を持ち業務を行っていた。文部大輔の田中不二麿は、公立図書館の重要性を訴えた一人だが、それは公立小学校等学校教育を補完する機関としての図書館が必要なのだという考え方に立つものであった。
 こうした事態が大きく変化するのは、明治15年の『文部省示諭』以降である。当時すでに田中不二麿は文部省を去っていたが、同示諭では、図書館に特殊の種類があり、それに応じた施策を講じることの必要性が説かれていた。つまりこの段階に至って、田中不二麿以来の、図書館といえばすなわち公立図書館を意味する状況に変化が生じ、「館種」を意識した図書館論が模索されるようになったのである。田中稲城を抜擢した東京図書館主幹・手島精一は、この考え方に沿って参考図書館と通俗図書館を区分して捉え、東京図書館を参考図書館としていく方向性を目指した。田中稲城はさらに、森有礼文部大臣の国家主義教育や帝国大学令以下の学校令に適合させる形で、東京図書館は参考図書館であると同時に国立図書館として独自の機能を持たせるべきだと主張し、様々な意見書を著していことになる。そのなかには、太政官文庫(内閣文庫)との合併や、上野から霞が関・日比谷近辺への図書館移転などといった主張が含まれていた。
 明治21年に留学に出発した田中は、米国の図書館で実務に従事し、国立図書館とは何かの理解を深め、更に図書館を一般人民の大学とする考え方、レファレンスサービスへの理解を身につけて帰朝した。その後東京図書館長となって様々な提案を繰り返していくなかでもこれらの視点は維持された。彼の構想はなかなか実現を見なかったが、明治29年の帝国図書館設立案などでは、あくまでも調査研究目的に限られるものの、学生が「一般人民の大学」であるところの図書館を卒業し、社会に出ていくことについて、田中は積極的に捉えていた。田中構想の特徴的な点は、このような利用者像の設定にも現れているといえるが、そのような人たちが使いやすい図書館として、求める書籍が得られるよう整備していき、東洋第一の図書館とすること――それが帝国図書館開館式式辞にも書き込まれた田中稲城の“夢”であった。

【質疑】(主なもののみ、適宜まとめている)
・田中稲城は教員時代に図書館学を教えていたのか。→日本史など。どのような講義だったかは不明。この頃に帝国大学を卒業した人は特定の専門というより、文系学問はだいたいカバーできるような人が多かった。なお当時の日本には学問分野としての図書館学自体が成立していなかったと思われる。
 ・帝国図書館は、帝国大学の卒業生をターゲットとはしていなかった。特に洋書の所蔵が大学図書館に比べて弱く、大学に属している学生はあまり帝国図書館を使わなかったと思われる。上京してきたがまだ大学に入っていない書生、在野の学者、苦学生などを想定ユーザとしていたか。
 ・帝国図書館の利用者層に、軍人が入っていた可能性。同時代の郷土関係資料で、軍人が地元の歴史等を研究していた痕跡を目にしたことがある。軍隊にそうした資料を備えた設備があったとも思えないので、帝国図書館を利用したかもしれない。
 ・田中稲城と和田万吉は、いずれも「通俗図書館」と「参考図書館」を分ける考え方を唱えているが、時代的な背景の差があるのではないか。和田の頃には地方改良運動の文脈において図書館を利用されてしまうことへの危惧があったのでは。

 終了後、懇親会が行われた。

2015年6月10日水曜日

第26回勉強会(2015年5月9日)報告

 第26回勉強会(2015年5月9日)報告
「衛藤利夫をめぐって」(テキスト輪読)
日時:2015年5月9日(土) 14:00-17:00
会場:京都商工会議所 第三会議室
発表者:佐藤 明俊氏
参加者数:11名
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1.はじめに
・まず、テキストで衛藤利夫の章を担当した田中隆子について。1980年頃、若い図書館員が衛藤を知らないことに驚いて本書を執筆したとある。ちなみにここでいう「若い図書館員」は昭和15(1940)年生まれ位か。立花隆や麻生太郎、津川雅彦と同世代。
・田中隆子は大正3(1914)年に大連で生まれ、昭和23(1948)年に国立国会図書館に入館。昭和35(1960)年には職員組合の委員長となった人物。衛藤の伝記執筆に指名されたのは大陸生まれという共通点によるものとも思われる。ただし小黒浩司論文では(2017.3.2発表者の訂正により修正。この部分の出典は東條文規の著作とのこと)衛藤は「右」寄りの政治スタンスを持つ人物と評されており、思想的には隔たりがあるようにも見える。

2. ~奉天図書館
・衛藤は明治16(1883)年熊本生まれ。旧制第五高等学校に入るが明治41(1908)年に中退。理由を本人の回顧録では「学校生活に飽きた」等とするが、実際は当時五高で起こった教頭排斥運動に関わったためか。この運動の中心は大川周明。
・明治44(1911)年、東大文学部選科美学史専攻卒。その後翻訳などで生計を立てる。大正4(1915)年和田万吉の招きにより東大図書館に就職。当時の衛藤の日記を見ると、サラリーマン根性に堕することを自戒する言葉などが並ぶ。
・なお、この日記は戦後遺族の手元にあり、昭和31(1956)年刊行の『韃靼』編纂時に閲覧を許されたということで言及されている。しかし全文公開はされず、現存しているかどうかも不明。
・大正9(1920)年に奉天簡易図書館に勤め、大正11(1922)年に新築された奉天図書館の館長となる。
・館長時代の衛藤が奉天図書館を大図書館に仕立てたとの評価あり。これに対し小黒論文では衛藤の功績を過大評価することを批判し、当時の満鉄自体の方針が追い風となっていたこと、また衛藤には精神主義的な面が強かったとしている。
・昭和17(1942)年に奉天図書館を退職。直後の本人回顧録では「図書館生活は失敗だった」としているが、そう判断した理由は不明。

3.満鉄の図書館
・南満州鉄道は明治39(1910)年発足の半官半民会社。鉄路に加え、会社の付属地では行政権を持ち、調査業務を多く行った。国策会社として政治の影響を受けやすい。
・調査に力を入れていたので本も蓄積されていく。付属地の住民向け図書館も作られた。
・大正8(1919)年に衛藤と柿沼が満鉄図書館へ引き抜かれる。
・大正9(1920)年、全国図書館大会が満州と朝鮮で開かれる。昭和4(1929)年に満鉄図書館業務研究会発足。
・昭和6(1931)年に満州事変。衛藤は、出征兵士のための「陣中慰問文庫」、関東軍向けの特別閲覧室「時局文庫」など様々な取り組みを行う。一部は衛藤が独断で始め、満鉄が追認したもの。
・在職中には地元新聞、満州教育専門学校、満州国大同学院の講師や顧問を務める。
・昭和11(1936)年に二・二六事件。衛藤瀋吉(衛藤の四男)の回想によると、警察からの尋問を受けたり、手紙の束を焼くなどしていたという。以後は政治活動から距離を置いた模様。また、それ以前から満州国に対して疑問を持つようになっていた。
・昭和12(1937)年の満鉄附属地は満洲国へ移譲される。これに伴い満鉄図書館も、哈爾濱・奉天・大連を除き、満洲国に移譲される。図書館側は移譲に反対していたが押し切られた。
・以後満鉄は調査活動に一層力を入れ、図書館は調査部の付帯施設となっていく。衛藤自身はこの方針に反対で、奉天図書館『収書月報』などで批判。
・昭和15(1940)に衛藤は奉天図書館長を辞任、館長事務嘱託となる。昭和17(1942)年に満鉄東京支社嘱託となり帰国。


4.東亜文献の解題と紹介
・衛藤には、稀覯書や名著の解題・紹介などの著作が多い。図書館学に関する著作は少ない。和漢書と洋書の整理一元化の実践など。
・時局問題を扱った論考は希少、東洋文献研究の著述でもアジア主義等に展開する傾向は見られない。
・衛藤は「右翼」人脈の中にいたことは確か。満洲国建国への協力もしている。しかし協力は図書館や文献を通じたものに限られており、思想家というよりは文献史家であり図書館人というのが本質。あるいは、植民地人のひとりとしての協力。

5.図書館界の指導者として
・昭和17(1942)年に衛藤は帰国、東京に戻る。このころ日本図書館協会(以下、日図協)の理事となっていた。満洲事変の際の衛藤の行動力に期待した中田邦造の説得による。
・同年、小諸会議が開かれる。文部省と日図協で読書会指導要綱案を検討したもの。かつて読書普及活動を愚劣と批判していた衛藤だが、この時は寝食を忘れて取り組む。
・昭和21(1946)年、無給で日図協の理事長兼事務局長に就任。事務局の全面入れ替えを行う。総務部長兼指導部長に有山崧、配給部長に越村捨治郎。越村は大川周明の影響を受け国家主義運動に参加していた人物。
・戦後、衛藤の論考は理事長名の3本のみ。就任時に図書館雑誌に掲載した挨拶では図書館の戦争責任に触れる。東條文則論文ではこの衛藤の姿勢を批判しているが、衛藤にとっては満洲国建国の高揚感と国家再建のそれは通じるものだったのかもしれない。
・衛藤が理事長だった昭和21-24(1946-1949)の日図協は多くの課題に直面。財団法人から社団法人への再改組、戦後復興、引揚図書館員の就職問題、国立国会図書館設立、図書館法など多くの課題に直面。
・しかしこれらの課題に対して、衛藤の活躍はあまり見えない。背景には、衛藤が当時健康を害していたことが考えられる。昭和22(1947)年には病気で辞任を申し出るが理事会で拒まれて再任、昭和24(1949)年に辞任。昭和28(1953)年に没する。
・「衛藤神話」が生まれた理由としては、衛藤に心酔していた有山崧の果たした役割が大きいと思われる。

6.質疑(主なもののみ、適宜まとめている)
・満鉄図書館の蔵書には軟らかい本があったのか。→大連・奉天には小説戯曲はなし。その他の館には通俗小説、児童書、落語講談などの本があった。
・「時局文庫」はどのように実施したのか。→時局文庫と陣中慰問文庫を並行して行っていた。前者がレファレンス、後者がアウトリーチ的なもの。衛藤が独断で始めて、会社に追認させた面もあり。
・衛藤を招いた当時の日図協にはどんな課題があったか。→人間関係のトラブル、戦時体制で文部省の締め付けが厳しくなるなど。当時の社会状況から、「右」人脈を持つ人の方が有利。
・戦後の日図協の、引揚図書館員の就職斡旋とはどのような内容か。→図書館雑誌上でポストの空き情報を知らせてくれるよう呼びかけ、日図協で集約した情報をもとに斡旋。


終了後、懇親会が行われた。

2015年1月26日月曜日

第25回勉強会(2015年1月18日)報告

第25回勉強会(2015年1月18日)報告
「伏見の図書館史」
日時:2015年1月18日(日) 14:00-17:00
会場:京都商工会議所 第一会議室
発表者:小篠景子氏
参加者数:12名
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0.伏見の図書館について
・明治以降の大まかな流れ。伏見集書会社の時代→伏見十六会による図書館経営の時代(伏見文庫→伏見図書館)→京都府立図書館伏見分館の時代。
・京都集書院の設立にかかわった京都集書会社。この支部のような形で、伏見集書会社が明治5年に設立した。開始後5年で解散。
・並松信久氏の論文では、のちの伏見文庫は伏見集書会社を接収してつくられたとしている。ただしこの説の根拠となった史料は不明。


1.人見喜三郎と伏見十六会
・伏見十六会の生みの親が人見喜三郎。兵庫県の出身で、11-12歳頃に伏見に出てきて丁稚奉公。当時から読書家であった。
・明治41年~43年まで伏見町長を務めた。当時の伏見町は、陸軍第十六師団誘致に関わる寄付金の工面など、色々な課題を抱えていたが、これらを解決。本人によると、町長は自分の希望ではなく、十六会の反対勢力による悪意の推薦によりやむなく就任したとしている。
・伏見十六会とは、明治28(1895)年、人見ら16名の青年により設立された社会事業団体。設立の背景として、当時の伏見の衰退がある。
・また、明治25年頃設立の良友倶楽部という団体があった。各種職業の青年が集まって自分の調べてきたことを発表研究する集まりであったが、27年頃には活動が形骸化していた。人見は実業家としての活動ができる団体の必要性を感じ、同じ商店員の村田・安良とともに脱会して伏見十六会を設立。

2.伏見十六会の事業
・貯金部。資金がなくてはどうしようもないということで、明治28(1895)年から貯金部の活動を開始。当初は小口貯金だったが、日清戦争後の恐慌時に、営業資金の貸付や住宅購入補助なども開始。また元々は年一回の抽選で前渡金を受け取る頼母子講方式であったものを、大正3(1914)年の規約改正により貯金のみを目的とする仕組みとした。
・伏見信用組合。伏見十六会を母体として、明治38(1905)年に設立。頼母子講に対する取締まりの強化なども背景にあった。伏見十六会破綻後も営業を続け、伏見信用金庫となり、平成13(2001)年に京都中央信用金庫へ事業譲渡。
・教育部。大正4(1915)~12(1923)年の私立伏見実業補習学校。大正5(1916)年~の伏見商業学校。これは伏見十六会破綻後に京都市へ移管され、現在の京都市立桃山中学校の前身となった。
・救済部。明治40(1907)年創設。奨学金、無料診療所済生園など。
・出版事業。明治39(1906)年、伏見で初めての新聞である『伏見実業新報』創刊。のち十六新聞と改め、明治41(1908)年に『明治新聞』へ号数引継ぎ。大正2(1913)年からは伏見十六会専属の機関誌『十六会報』を創刊。いずれも現存不明。ほか、図書も刊行。

3.国の動きとの関連
・明治40(1907)年、大日本産業組合中央会会頭の平田東助が伏見十六会を視察。これをきっかけに内務省嘱託の留岡幸助、内務参事官井上友一と接触。明治41(1908)年に社団法人化。
・背景には地方改良運動の存在。内務官僚を中心に、大衆みずから地方の自治振興に協力していくことを奨励する動き。全国的に、この気運にのって設立された図書館も多い。
・伏見十六会は地方改良運動を進める立場から見て良いモデルケースであったらしく、多くの視察を受け入れ、『斯民』『産業組合』『社会事業』などの雑誌に掲載されている。

4.伏見十六会の図書館
・明治38(1905)年9月、日露戦争の戦勝記念事業として伏見文庫を設立。
・伏見十六会会員は雇われ人が多く、読書の資金も乏しく、正式な教育を受けていない人も多かったことから、地域への教育機会の提供として行われた。
・伏見文庫には誰でも入会可能。会費制。貸出も行っていた。
・文庫長は尋常小学校長、幹事は教育家と伏見十六会役員が半数ずつ。前者は選書等、後者は庶務会計を担当。
・京都府立図書館からの貸与も受けた。

・大正4(1915)年、新たに建物を作って伏見図書館を設立。設立申請の行政文書が京都府立総合資料館にある。当時の新聞記事によると、開館式には京都府立図書館長の湯浅による講演も行われた。
・伏見図書館は大正11(1922)年に移転。隣接していた商業学校に建物を譲って、十六会事務所の一部に入る。
・館長は伏見町の高等小学校長。幹事は伏見町の小学校教員から嘱託し、選書等。事務は伏見十六会員が行った。
・伏見図書館になって貸出を廃止。理由は閲覧室が整備されたこと。
・文庫時代から図書館基本金を積み立て、この利子を運営資金にあてていた。会合に遅刻した者は図書館に寄付するというルールを設けたりしていた。
・大正10(1921)年文部省による「全国図書館に関する調査」から、私立図書館の平均と伏見図書館を比較。蔵書冊数で5千冊程度、一日閲覧人数で5名程度、費用で300円程度伏見図書館の方が上回っている。なお同調査では伏見図書館の附帯事業として「運動倶楽部」を挙げているが、内容不明。

5.伏見十六会の破綻
・昭和8(1933)年2月、人見死去。
・昭和9(1934)年、伏見十六会が破綻。当時の新聞によると、昭和7(1932)年に貯金事業が銀行法に抵触するとの指摘を受けたことが背景にあり、貸付金の回収が難航したことなどで取り付け騒ぎに至った。
・伏見図書館は昭和9(1934)年6月の京都府広報で廃止認可。その後の消息は不明。
・旧蔵書の行方。京都府立総合資料館、立命館大学図書館の所蔵する資料に「伏見図書館」の印記を持つものがある。また、昭和10年付けで京都府立京都図書館に寄贈された資料に「これと同じ複本を伏見図書館に寄贈した」と著者により書かれているものがある。詳細は不明。

6.戦後の伏見の図書館
・昭和25(1950)年、伏見信用組合の2階に京都府立図書館伏見分館を開館。
・昭和29(1954)年、館舎を新たに建設して伏見分館移転。建設にあたっては土地の寄付など、地域から支援があったとされている。
・昭和62(1987)年、京都市伏見中央図書館が開館。翌年3月に伏見分館が閉館。


7.質疑(主なもののみ、適宜まとめている)
・伏見図書館が設立された当時(大正11年頃)、伏見図書館のような存在は珍しかったか?
→似た活動をしているところはある程度あった。青年団が公民館の一室を図書室として開放していたようなものがこれにあたる。

・伏見図書館に勤めていた書記の月給15円は、給与として高かったのか?
→かなり安かった。同時期の尋常小学校教員の初任給が50円ほどだったことからも、現在のアルバイトもしくはパートのようなもので、書記だけで生活していくことはできなかったと考えられる。

・昭和2(1927)年の金融恐慌と昭和5(1930)年の昭和恐慌の伏見図書館への影響は
→金融恐慌の影響に関しては、否定はできないものの乗り切ることに成功したとみられる。一方の昭和恐慌の影響は大きく、不動産担保貸付金の回収が困難になるなどした。

・十六会が破綻したのちも、伏見信用組合は伏見信用金庫として存続した。信用組合はあくまで十六会を母体として設立されたのであり、十六会が破綻したからといって信用組合も破綻することはなかった。なお、伏見信用金庫は平成13(2001)年まで営業を続け、京都中央信用金庫に事業譲渡した。

・伏見図書館が所蔵していた饗庭篁村『曲亭馬琴』(児童読本第5編、博文館、1912年)は現在立命館大学図書館に入っているがなぜなのか?
→立命館大学には後藤丹治という軍記物語の研究者がおり、この資料の書誌情報にも「後藤蔵書」印がある。そのため、後藤の研究のために立命館大学にはいったのではないか。他の伏見図書館の蔵書も、閉館後は分野ごとに分かれてさまざまな機関に移動していったのではないか。


終了後、懇親会が行われた。

2014年10月9日木曜日

第24回勉強会(2014年9月21日)報告

第24回勉強会(2014年9月21日)報告
「京都府中央図書館における国民精神総動員文庫」
日時:2014年9月21日(日) 14:00-17:00
会場:京都商工会議所 第一会議室
発表者:齊藤涼氏
参加者数:9名
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0.国民精神総動員文庫(以下、精動文庫)とは
・昭和13~15(1938-1940)年ごろ、日米開戦以前に道府県中央図書館や道府県立図書館の主導により行われた。日本精神、中国事情、農業など国策に寄与する資料を重点的に集めたもの。規模や形態は各地により異なる。もっと後の時期になると読書会等を中心とした思想統制が厳しくなっていくが、今回はその前の時期。
・先行研究として、小川剛氏、奥泉和久氏らの論文を参照した。

1.国民精神総動員文庫設置の経緯
・昭和12(1937)年7月に日中戦争開始。同年に国民精神総動員運動が開始される。この時点での図書館の動きは、本の特集を組む程度。
・昭和13(1938)年4月に国家総動員法公布。同年5月の中央図書館長会議で、文部省が巡回文庫のための資金提供を行う準備があると表明。戦争の長期化が見込まれたとが背景にあると思われる。
・同年9月には、購入資金350円と買うべき本の目録が各中央図書館に交付される。この金額は本でいうとだいたい200冊程度と思われ、小規模。

2.京都と大阪における活動の違い
・京都府中央図書館には、以前から貸出文庫が存在した。創設は明治36(1903)年、一回50冊で、府内の図書館、学校教育会、青年団や婦人会などの各種団体を対象。閲覧料は1冊1銭。これが精動文庫の運営モデルになったと考えられる。
・京都府中央図書館に設置された精動文庫は162タイトル。男女青年団の幹部や教職員など、青少年の指導者が対象。貸出文庫と併用も可能で、リクエスト制度や読後の感想文共有なども想定されていた。ただし当時府内の青年学校は400以上あり、数としてはとても足りなかったと思われる。
・一方、大阪府立中央図書館における精動文庫の状況。こちらは郡部町村が中心で、大阪市内は大阪市立図書館がサービスを実施していた。200冊を1単位として4単位、800冊を設置。精動文庫に一般読物を加えた数百冊を、対象地域に巡回させていた。
・京都府と大阪府の計画を比較すると、大阪府の方がより大規模で現実的。

3.京都府における「改良」
・昭和14(1939)年8月に文科省から、精動文庫への奨励金が出された。あわせて、タイトル数や冊数を増やし、広く巡回させるようにという指示も出された。選書の基として文部省編纂の『国民精神総動員巡回文庫目録』が配布される。
・これに基づき、京都府中央図書館では従来の精動文庫を改良。奨励金500円に地方費100円を加えた600円で、243タイトルを購入した。
・文部省の推薦目録と、改良後の京都府中央図書館精動文庫の目録とを比較。改良により、農業、工業、水産などのジャンルが増えている。食糧増産計画の影響とも思われる。項目が細分化され、地域の事情に合わせやすくなっている。
・内容のレベルによって2種類に分け、難解なものは巡回文庫、通俗卑近なものは貸出文庫に配合した。
・実際の利用はどうだったか。『京都府中央図書館報』では昭和15(1940)年6月に、府庁内軍人援護会に図書を貸し出している。文部省には既に巡回文庫に移行する旨の報告をしており、矛盾するとも見える。

4.精動文庫の行き詰まり
・昭和15(1940)年以降、図書館雑誌や京都府中央図書館報で精動文庫の話題が乗らなくなっていく。国民精神総動員運動自体が大政翼賛体制に組み込まれたためか。
・昭和14(1939)年刊行『図書時報』第1輯収録の伊藤治郎「岡山縣下圖書館視察記」では、岡山県の視察先で精動文庫を見て「恒久的なものにしたい」と述べている。もともと常設される想定のものではなかったのかもしれない。
・また同年の北信5県図書館大会における報告では、指定図書が難しすぎるため読書指導が必要であること、情報の陳腐化などの指摘がなされた。

5.まとめ
・国民精神総動員運動に乗じた図書館振興策として実施された。規模はそれほど大きくない。文部省からの推薦目録だけでなく各館で独自に選書された部分もあり、司書はただ指示に従った訳ではなく主体的に取り組んでいた。ただし実際の利用はそれほど盛んでなかったと思われる。
・図書館にとっての精動文庫の意義は、国家からの支援を勝ち得たこと、図書館が外に向けて出ていく機会となったこと、選書による職員のスキルアップなどが考えられるか。

6.質疑(主なもののみ、適宜まとめている)
・リクエスト制度も存在するなど、戦時中に思想統制のため作られた文庫というイメージよりも意外と柔軟だと感じた。
・つぎ込まれた350円という金額は少ないのでは。→規模としては大きくないが、それが全国的に行われたことに意味。
・当時の文部省大臣は荒木貞夫、帝国図書館長は松本喜一、京都府知事は鈴木敬一と赤松小寅。また当時の京都府中央図書館長は北畠貞顯。こうした人々の、個人的な傾向が政策に影響を及ぼしていた可能性も考えられる。
・発表者は350円を小規模としていたが、当時の受入冊数や予算規模の全体と比較するとどうか。→当時、京都府中央図書館の一般の貸出文庫は26000冊ほど。
・文部省編纂の目録を見ると、意外と特定の出版社に偏るようなことがなく、幅広い。一方で、吉川弘文館や法蔵館のような伝統的な出版社が入っていないこともある。
・昭和15年の京都府国民精神総動員文庫目録に含まれる『緋の蜘蛛』という本は現所蔵館が確認できなかったとのことだが、「日本の古本屋」ではヒットあり。15000円くらい。

終了後、懇親会が行われた。

2014年6月24日火曜日

第23回勉強会(2014年6月7日)報告

第23回勉強会(2014年6月7日)報告
「近世伏見学校とは」
日時:2014年6月7日(土) 14:00-17:00
会場:京都商工会議所 第一会議室
発表者:若林正博氏
参加者数:9名
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0.はじめに

・伏見学校は、淡交社『京都大事典』によれば「徳川家康が伏見泰長老に設立した僧俗のための学校。慶長6(1601)年に、もと足利学校第9世校長閑室元佶(かんしつげんけつ)を招いて開校」等と説明されている。
・閑室元佶は家康から与えられた木活字10万本を使い、慶長11年までに8点80万冊の書物を印刷した。閑室元佶のために伏見学校と同時に開かれたとされる円光寺にちなんで円光寺版、あるいは伏見版という。
・ただし本日の話は木活字版のことではなく、伏見学校に近世の図書館としての機能があったかという点を見ていく。

1.伏見について

・伏見の郷土史を研究する立場から、このテーマに興味を持った。
・郷土史研究はどこの図書館でもされている。その場合、教科書に載るメインの日本史に対して、その頃自分たちの地元はどうだったかというスタンスになりがち。しかし伏見の場合には地元の歴史が、まさに秀吉や家康の出てくる日本史と重なっている。
・伏見の地理について。慶長当時は丘の上に城があり、南側には諏訪湖と同じくらいの大きさの巨椋池(おぐらいけ)が広がる。大阪・奈良・京都に通じ、淀川の水運がつながる交通の要衝。
・秀吉はここに城を設けた。秀吉の治世には大阪のイメージがあるが、晩年は伏見で政務を執った。言わば首都。城を中心に、周りに武家屋敷があり、さらに周りに町人が住む街づくりは、伏見が江戸のモデルとなっている。
・慶長3(1598)年の秀吉没後、家康の将軍宣下までに5年間空く。その間形式的には豊臣秀頼が天下人であり、関ヶ原の戦いも形式的には豊臣の家来同士の争い。
・家康の子ども16人のうち、4人が成人として伏見と何らかの関わりを持ち、5人は伏見で生まれている。家康が天下人になる過程でも伏見が重要な場所となっており、天下人になった後も将軍職を退くまでの7年間伏見で政務を執った。実質的には、伏見に幕府ができていたとも言える。
・ちなみに他の時代のことを言うと、室町時代には伏見宮貞成親王が住んでいた。近代の皇族の血統はすべてこの人の系譜。貞成親王の日記『看聞日記』は、当時の出来事が克明に分かる重要な史料。陵墓は伏見の町の真ん中にある。
・また幕末には、鳥羽伏見の戦いのうち、伏見の戦いは伏見市中での市街戦。
・近代に入り、水運よりも鉄道の方が盛んになったことと、遷都により京都が寂れたことで、伏見もいったん衰える。しかし明治天皇陵が桃山に造られたことにより、陵墓巡拝の人々が全国から訪れるようになる。


2.円光寺と円光寺版(伏見版)について

・伏見に政権の中心があった頃に円光寺ができた。言わば政権のお膝元に作られた学術機関。
・近藤重蔵『右文故事』によれば、近世初頭に朝鮮より伝来した銅板活字が大きく影響。銅は鋳造が難しいので木で作るようになり、木活字版がブームを迎える。円光寺で刷られた書物は、木活字という当時最新の技術を使っていた。
・ただし後の時代を見ると、木活字版は長続きしない。江戸時代には読者が爆発的に増加したが、木活字は大量反復の印刷に適さないため、板木を使った印刷が盛んになっていく。
・円光寺の跡は不明。碑なども無い。現在の桃山町立売、桃山町鍋島付近にあったと言われている。
・円光寺を作った閑室元佶は、足利学校の第9世庠主。足利学校は北条氏が庇護者となっていた学校で、蔵書を多く持っていた。1590年、小田原の北条氏滅亡により庇護者がいなくなる。足利学校の蔵書は豊臣秀次により京都へ持ち去られ、閑室元佶も一緒に京都に来た。蔵書はのちに家康の仲介で足利に戻されるが、元佶自身は家康の学術顧問となる。
・秀吉の死後、家康が元佶に10万個の活字を与え、伏見で木活字印刷を始めさせる。関ヶ原の合戦以後に、伏見に円光寺が創建される。
・伏見版については、川瀬一馬『古活字版之研究』に詳しい。木活字の起源を朝鮮と断定。
・元佶が与えられた活字のうち、912個を京都府立総合資料館で所蔵している(参考文献:「円光寺所蔵伏見版木活字関係歴史資料調査報告書」)。
・伏見版で出版された書物は兵法書や歴史関係が多い。『東鑑』はかな文字入り。
・1607年に家康が拠点を駿河に移すと、伏見版の刊行もなくなり駿河版に移行。このことからも、元佶が勝手にやっていたことではなく、家康のお膝元ならではの事業だったと言える。


3.円光寺は学校だったか

・篭谷真智子「円光寺学校の研究」によると、「鹿苑日録」などの日記に登場する「学校」という呼称は、閑室元佶本人を指すことが多い。つまり元佶個人を指す「学校」という呼称が円光寺=近世の学校と理解され、誤った解釈がされたのではないか。一方で円光寺の日記を見ると、常設の教育機関というよりは色々な知識人が出入りするサロン的空間だったと考えられる。
(以下は発表者私見)
・では円光寺は図書館だったのか。円光寺については、出版記録はあっても、どんな本を持っていたかの記録がない。足利学校から秀次が持ち去った書籍も、後に足利に返されているので円光寺に置かれていた訳ではない。
・実は図書館でも学校でもなかったのではないか。
・一般的な学校と紹介される古記録は、正徳元年の『山州名跡志』。
・「伏見学校」という名前が登場するのは大正4年の『紀伊郡誌』。しかも「足利学校の一部を転移した伏見学校の跡」とはっきり書いている。この記述の派生過程は不詳。

4.新説と通説の関係

・脇にそれるが、京都は文化財が多いため空襲のターゲットから外された、という通説がある。吉田守男『京都に原爆を投下せよ』ではその通説を否定。きちんとした論考であり、妥当だと考える。しかしこの話を知人にした時には、フィクション小説と同列の仮説として受け止められた。
・図書館資料を、NDCではなく利用者に分かりやすい配列で並べようという試みが最近ある。しかし分かりやすい配列とした時に、歴史学と歴史小説とが混配されることにならないか。
・一方でNDCが万能とは言えない。難点を挙げると、NDCは明治あたりで時が止まっている。田中角栄についての本はいつまで3門(社会科学)なのか。現在生きている多くの人にとっては2門(歴史)ではないのか。
・他にも、明らかに怪しげな本が歴史に分類されているケースも見る。本当にカタロガーは専門性を発揮しているのか。


5.結び

・通説を覆すような研究者の論文が広く認知されていくことが望ましい。
・市町村史、特に大正や昭和初期等に書かれたものの中には、記録の典拠明示をせずに伝承と混同して記述しているものがある。批判的検証が必要。
・それでは、図書館史における伏見円光寺とは何だったか。家康が築いた文教政策の産物であり、後の時代のプロトタイプとなった。いわゆる近世以降の図書館の定義にはとうてい達していないが、その前段階で基礎をなしたもの。


質疑

・当時の大名の参勤交代の京都伏見間の交通手段は?→陸路。西日本の大名が参勤交代で江戸に向かう時にも大阪から船で伏見に着き、陸路、京を通らずに醍醐山科から大津へ抜けて東へ向かう。京都に足を踏み入れると朝廷へご機嫌伺いしなくてはならないし、ご機嫌伺いの仕方がまずければ朝廷に接近しすぎているように見えて幕府から睨まれる。
・伏見の酒造業はいつから盛んになったか。→実は江戸時代にはそれほど盛んでなかった。京都に出回っていたのは伊丹の酒が中心。明治になって月桂冠などが近代的な醸造技術を取り入れたこと、深草に陸軍第十六師団部隊が置かれたことにより、伏見の酒が全国に広まった。
・家康が駿府に移ってから駿河版に移行したというが、江戸駿府にも元佶はついて行ったのか。→元佶はついていっていない。
・図書館の分類は、その本が主張することを受け入れるのが基本。歴史本として怪しいものであっても、せいぜいノンフィクションとせざるを得ない。NDCというよりは分類の根本的な問題。
・篭谷論文自体の信頼性は?→発表では紹介できなかったが、論文は当時の信頼に足る「鹿苑日録」や「言経卿記」などの内容を丹念に検証して順序だてて論述されている。近世学校としての要件を持っていたとする記述がある一次史料がみつけられていないことについても言及している。
・円光寺では日頃講義ではなく、本を作っていたのだとしたら、学術機関と言えるのか。→当時の図書出版はまだ商業活動ではなく、学術的な行為と考える。

終了後、懇親会が行われた。

2014年4月5日土曜日

第22回勉強会(2014年3月29日)報告

第22回勉強会(2014年3月29日)報告
「公立図書館司書検定試験」
日時:2014年3月29日(土) 14:00-17:00
会場:京都商工会議所 第二会議室
発表者:岡田大輔氏
参加者数:11名
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0.発表のきっかけと目的
・もともとの関心の方向は歴史というより、司書養成のカリキュラムや試験制度。
・国立国会図書館デジタルコレクションで、『全国小学校教員試験問題及解答 尋常科正教員教育科』という明治時代 の資料を見つけた。興味深いのは模範解答が載っている点。解答があることにより出題の意図や、どういう答えが求められているかが分かる。しかしこの中に図書館に関する問題は出てこない。
・では図書館員の採用試験はどうだったのか?ということで、戦前に存在した「公立図書館司書検定試験」 を取り上げた。

1.公立図書館司書検定試験の概要
・採用試験ではなく資格試験。文部大臣の命ずる検定試験委員が実施し、願書は文部省に提出する。
・昭和12(1937)年2月から毎年1回、おそらく7回実施された。
・合格のメリットは試験規程や要項に明記されていないが、奏任官(管理職のようなもの)待遇の司書になる一つの方法であった 。
・1941年の公共図書館員の待遇を見ると奏任官で年俸1343円、判任官で月給72円、書記で月給48円。奏任官の待遇が特別良いわけではないが、ステータスは高いと考えられる。
・試験手数料は5円。先の待遇から見ても5円はそれほど気軽な金額ではない。
・学歴などの受験資格は定めず、誰でも受けることができた。合格者には小学校卒の人も、いわゆる外地出身者も、女性もいた。
・昭和12(1937)年に行われた第1回試験の内容。筆記試験が2月22日~2月25日、出題科目は国民道徳要領、国語・漢文、国史、外国語、図書館管理法、図書目録法、図書分類法、社会教育概説。筆記試験合格者に対して実地試験が課された。出願が32名、合格が18名。
・穴埋めや選択式はなく、ほとんどすべて論述問題。試験時間2-3 時間に対して3-4問といった分量。
・国語や漢文は現在の大学受験レベル、歴史は範囲が広くやや難しい。国民道徳要領は教育勅語等を丸暗記すれば答えられそう。実地試験では「ある地方の小図書館があり、時局柄予算も人員も減っているが、戦捷記念の館であるため閉館もできない。あなたならどう経営するか」といった口頭質問など。

2.試験問題についての考察
・戦前の図書館については、中央図書館制度導入による中央集権化、思想善導、読書会や読書指導といったイメージで従来は語られてきた。
・実際の試験問題について、「戦中」度数、「思想善導」度数を自分の感覚で採点し、グラフにしてみた。7回の試験を通じて、「戦中」度数は特に変化していない。
・しかし、この度数の定義はあいまいで、感覚の域を出ない。
・実際に試験内容を見ると、思想的に極端な偏りはあまり感じない。特に図書館の専門科目については、現代の採用試験で出てきても違和感のないようなものも多い 。


3.受験体験記
・青年図書館員聯盟『図書館研究』に掲載された司書検定試験学習法の記事がある。タイトルは『司書検定試験受験ノ栞』。のちに単行本化された。
・著者は山下栄。1907年、愛媛県今治市の生まれ。18歳で図書館での勤務をスタート。その後文部省図書館講習所を卒業し、24歳で大阪帝国大学付属図書館に勤務。31歳で公立図書館司書検定試験に合格。34歳で阪大を退職、日本貿易振興会付設日本貿易研究所に勤務。戦後は神戸市立図書館、尼崎市立図書館などに勤務し、60歳の時に武庫川女子大学教授となる。72歳で没。
・なお山下が阪大を退職した理由は、上司であった田中敬との衝突が原因とされる。目録の取り方等で対立した結果、田中の自宅に押し掛けて、自分の書いた論文の抜き刷りに辞表を挟んで「ぶち投げた」というエピソードが残る。
・「受験ノ栞」によれば、専門科目の検定委員:図書館管理法は今澤慈海、松本喜一、中田邦造。図書館目録法は太田栄次郎、田中敬。図書館分類法は加藤宗厚、田中敬。社会教育概説は不破祐俊。
・合格者はほぼ図書館講習所の出身者。しかも現役がほとんど。講習所を卒業しただけでは法律上「奏任官待遇の司書」にはなれなかったため、講習所の卒業試験のような意味合いもあったのかもしれない。ただし検定試験自体にそれほど魅力があったかは不明。
・なお『図書館雑誌』などの2次資料では、合格者に関する記述に矛盾が多く注意が必要。

4.司書検定試験が与えた影響
・試験合格によって奏任官待遇の司書になれる可能性があるという触れ込みだったが、実際に図書館雑誌等 に合格者が奏任待遇を得た等の記事は見当たらない。
・また検定試験が行われていた時期において、講習所修了/非修了、検定合格/非合格というグループに分けて、1955年の図書館員の名簿に載っている(=15年後にも図書館で働いている)人の割合を調査した 。結果としては、外部からの合格者に比べ講習所修了者の存率は高い傾向があるが、検定の合格有無には有意差なし。
・現行の図書館法により、公立図書館司書検定試験は廃止。すべての司書資格はいったんリセット。ただし現職者には5年間の猶予期間が設けられ、この間に司書講習を受けなければ失効。山下栄は1951年に司書講習を受けて資格を維持した。なお山下は同じ年に司書講習の講師も担当している。

5.質疑
・図書館講習所のカリキュラムと、この試験内容はどの程度合っていたのか。 →調べきれていない。当時の講習所での教科書の内容との関係を調べることなどが考えられる。
・講習所修了者の就職先を見ると、いわゆる公立図書館は少ない。公立図書館司書検定と銘打っていたが、実態は異なっていたものか。→ただし当時の「公立図書館」が現在の自治体立図書館と同じ概念であるかどうかは不明。
・試験規程では、対象者をどのように想定しているのか。→規程は官報に載っているが、費用や申込み方法など手続き的なことしか書いていない。
・試験問題から「思想善導」の意図を読み解くといったことは、厳密な言説分析が必要になるため非常に難しい。制度史や教育史、あるいは合格者ひとりひとりの人生を追うといった形の方が良いのでは。 →その通りだと思う。同時代の教員採用試験などさえもまだ見ていないので、いろいろ見てきちんとした指標が作れる可能性があるかから考えたい。
・青年図書館員聯盟は、この試験制度にはどう反応したのか。→非常に多く言及し、受験を勧めている。批判的ではない。
・当時の図書館員の採用試験に、そもそもペーパーテストはあったのか?→京都府の採用では何か書かせる試験があったはず。

当日の資料は、下記URLからダウンロード可能。(クリックするとダウンロードが行われます)
http://researchmap.jp/?action=cv_download_main&upload_id=100056

終了後、懇親会が行われた。

2014年2月14日金曜日

第21回勉強会(2014年1月18日)報告



21回勉強会(2014118)報告
「先輩司書について語る!~天野敬太郎の人生~」
日時:2014118日(土) 14:00-17:00
会場:京都商工会議所 第三会議室
発表者:今野 創祐氏
参加者数:8
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0.天野敬太郎の略歴
1901年、京都市に生まれる。
19143月、京都帝国大学附属図書館に就職。(附属図書館見習)
1924年、京都帝国大学司書となる。附属図書館勤務。京都帝国大学書記を兼任し、こちらは経済学部・法学部勤務。
19483月、京都大学附属図書館を退職し、関西大学図書課長となる。
19673月、関西大学を退職。翌4月、東洋大学社会学部教授に就任。
19723月、東洋大学を退職。
19928月 死去。

1.京都帝大時代
・小学校卒業と同時に京都帝大に就職。その頃、附属図書館の館長は新村出だったが、初代館長の島文次郎はよく図書館に顔を出し、天野を可愛がっていた。島は天野に切手蒐集の楽しみを教え、これは天野の趣味となった。
1925年に天野が初めて雑誌(週刊朝日)に発表した文章は「切手に現はれた人物」。
19273月、初めての編書『法政経済社会論文総覧』を刊行。京都帝大教授の宮本英雄、本庄榮治郎が序文を寄せる。この本の内容については、竹林熊彦が批判している。
19311月、初めて図書関係の雑誌に論文(?)を発表
 「維新以来本邦書目ノ書目」→『日本書誌の書誌』の原型
 これ以降、雑誌上に目録、論文を多数発表し、単行書としても多くの目録類を出版する。
 論文の内容としては、各種目録や書誌に関するエッセイ・評論が多い。
Ex) 「改題・転載・剽窃物語」(『書物展望』511))
「剽窃される恐れあるもの特に編纂物は、読者の迷惑にならぬ程度で、わざと覚えの    誤りを作つて置くに限る。剽窃者は必ず誤りのまゝ剽窃するのであるから。」
1935年、文部省主催図書館学講習会の『図書目録法』講師を担当。以降、目録関連の講義を多数行い、論文も多く執筆。
1937年、「日本図書目録法案」についての論評を発表

2.関西大学時代
19483月、関西大学図書課長に就任。
 →戦後混乱期の関西大学図書館立て直しのために招聘された
・関西大学図書館での天野の業績:新分類法による図書整理を完成、開架閲覧室を開設
※ただし、天野の著作には直接的利用者サービスについての言及は見られない。上記の「業績」は第2代関西大学図書館長を務めた森川太郎の回想から。
19514月、日本図書館研究会理事長に就任。(19536月まで)
・この時期、天野は多くの大学で図書館学の講義を担当。著書も目録の採り方に関する教科書的な内容のものが増える。一方で河上肇の著作を編集したものや、関西大学の資料に関する目録類の出版も多い。『日本古書通信』に433回寄稿。
19597月、ロンドンで開催されたIFLA主催国際目録会議予備会議に日本図書館協会代表として出席。天野はNCR1952年版の現状について報告し、参考資料としてWorking Paperを提出。
 →実際には、この会議で取り立てて新しい進歩、新規な方法などはなかった。会議終了後、天野はヨーロッパ各国(イギリス、フランス、ドイツ、スイス、イタリア)の図書館を見学して帰国。
・国会図書館の雑誌記事索引を批判(『京都図書館協会会報』751965年)

2.東洋大学時代~晩年
1967年、関西大学を退職後、東洋大学社会学部教授に就任。
 時期的に鈴木賢祐の後任か。 →図書目録法、分類法、参考資料論、図書館史を担当
・同年10月、日本図書館協会分類委員会委員長に就任(1971年まで)。NDC7版の見直しを主導。
1973年から1983年にかけて『日本書誌の書誌』を刊行。これは当初国立国会図書館が出版を計画し、天野に資料援助を依頼していたが、物別れに。前出の雑索批判の背景の一つか。

◆質疑
・天野自身の著作には私生活のことが全く出てこない。弟子の回想等からようやく判明する程度。
・天野の職歴は一般的なものだったのか?
 →当時尋常小学校卒で働くこと自体は、よくあること。しかしそこから27歳で編書を出すに至る過程は不明。
・天野のNDL雑索批判について。当時(1965年頃)の雑索は試行錯誤を重ねていた。その試行錯誤を「一貫性がない」とされた面もある。

終了後、懇親会が行われた。

2013年11月22日金曜日

第2回東西合同合宿(2013年11月2日~3日)報告

日時:2013年11月2日(土)~3日(日)
会場:シェアハウス鍵屋荘(京都府京都市)
出席者:22名(東京8名、関西14名、※一日のみ参加も含む)


昨年に続き、東京と関西に拠点をもちそれぞれ活動している文脈の会メンバーの親睦と研鑽を目的とし、京都を会場として第二回目の合宿を開催した。
東西文脈の会から報告者を選び、以下に掲載する報告が行われた。


●「滋賀県における文化行政と図書館整備」(中込栞氏)


 1970~80年代の滋賀県の文化行政と図書館振興政策の関わりについての報告。報告者の卒業論文を元にした内容である。

 滋賀県の図書館振興政策について論じた先行研究は、滋賀県を見習う「べき」、という振興策ありきの論調であり、そもそも振興策がなぜ作られたのか、という点への問いかけが少なかった。そこで行政全体に関わる広義の「文化行政」に焦点を当てることで、教育委員会所管の事業にとどまらず、行政全般と図書館振興策との関連を検討した。

 1974年12月から1986年にかけて、滋賀県知事を務めたのが武村正義氏である。武村知事は琵琶湖の富栄養化の防止に関する条例等に代表される「草の根県政」を標榜。文化行政の面では、「県政に文化の屋根をかける」をスローガンとして、県教育委員会に文化部を設置。その中の文化振興課が中心となって、1979年から「文化の屋根事業」が始まる。武村氏が知事に就任する以前の1970年ころから県立図書館の新館建設要望は出ていたが、1979年に新館建設起工。工事と並行して文化振興課による館長探しが行われ、日野市立図書館長などの経験を持つ前川恒雄氏に依頼し、図書館運営を任せた。(1)貸出中心(2)県立図書館による市町村立図書館のバックアップ(3)専門職重視、という理念に基づく運営で、滋賀県の図書館は大きく前進した。

 1980年に、①住民の図書館欲求の育成、②市町村立図書館整備策の二つを柱とする『図書館振興に関する提言』がまとめられた。これらのうち、①は「草の根図書館」として、②は資料費補助を伴った図書館整備補助として実現する。この『図書館振興に関する提言』は単なる図書館整のための提言ではなく、知事の目指す草の根県政の実現の手段としての図書館像を描いている。またその後整備状況によって、効果的に改訂が加えられていった。
 
 武村知事にとって、図書館振興は「草の根県政」実現のための手段であり、図書館の振興は政策的に有効と判断されるものであった。時代的背景や、行政・現場双方からの図書館に期待する役割像が一致していたなど、図書館の世界だけに留まらない行政全体としての様々な要因が加わった結果、滋賀県の振興策は成功したのだと考えられる。

◆質疑
  • 滋賀県立図書館長時代の前川氏にインタビューを行ったことがある。行政担当者としての手腕や、先進的にコンピュータを導入したことなど、図書館経営者としてマネジメント能力のある人だという印象をもった。
  • 新館建設前の県立図書館を使ったことがある。武村県政と西武グループの滋賀県への進出とが歩を合わせている様に見受けられる。  →その通り。プリンスホテルの進出、西武百貨店の誘致etc...
  • 県立図書館論について調べたことがあるが、武村知事、前川氏による滋賀県の図書館振興への意向・意志を詳しく書き残したものはほとんどない。何故か。かなり後の岸本岳文氏による記述しかまとまったものがないのが不思議。
  • 滋賀は元々、近江商人の地として、近世から書籍や情報にあふれていた印象がある。その意味で、図書館という輸入された近代的装置がそれほど求められなかったのではないか。現在の「文化行政」論の場合、方法として行政側のみの視点におうおうにしてなりがち。地域側からの視点や特性をどう入れるかが今後の議論の発展に重要になる。また、「革新官僚」としての武村知事の在り方も検討を要するのではないか。


●「竹林文庫史料から見る田中稲城」(長尾宗典氏)


 報告者による田中稲城(1856~1925)に関する研究の中間報告。初代帝国図書館長である田中については、戦前期の竹林熊彦による伝記的研究があるが、戦後はあまり研究がなされていない。同志社大学所蔵竹林文庫に含まれる田中稲城の文書は、デジタル化され提供されているが、田中の伝記的研究の欠を補うに足る一次史料であり、丁寧に見ていくことでさらなる知見が得られると期待される。
報告者は竹林文庫史料の履歴書などを使い、田中の年表作成を試みた。また、竹林が使用しているによる田中稲城文書の年代比定にも疑問点がある。この他にも田中宛の書簡から浮かび上がってくる人間関係には意外なつながりもある。

 現在までのところ、竹林の伝記も含め、田中への論級は明治の中ごろ。米国に留学してから帰朝して帝国図書館設立に至るまでの時期に集中しており、明治末期から大正にかけての田中の事績は不明な点が多い。ただし、『図書館雑誌』創刊や図書館員講習、小松原訓令の起草など図書館史上重要な事柄にも関与しており、決して重要でないわけではない。これらをどのような文脈に位置付けられるかは今後の課題である。

◆質疑
  • 竹林が「土」に連載した文章中に、田中稲城関係史料が竹林に寄託される経緯の記述がある。これ以前の竹林による田中稲城論は、竹林が個人的に収集した史料によるものか。しかし、私的な書簡がそんなに流通するものか疑問。 →竹林の田中研究はきわめて重要だが、ほとんど彼だけが研究しているので、使っている史料の面からも、批判的に吟味していく必要があると考える。
  • 田中の名の読みは「イナギ/キ」か「イネギ/キ」か。サミュエル・グリーンなど、海外の人物からの書簡が残っているようなので、手掛かりになるのでは。
  • 田中稲城を研究する意義とは。帝国図書館史研究にどうつなげるか。人物から組織を研究する際の問題点・課題を整理する必要がある。また、人物研究でもその人物の個人的資質だけでなく、組織運営能力その他の検証が必要。


●「「長田富作資料」について」(門上光夫氏)

 十五年戦争期に大阪府立図書館長だった長田富作(おさだ・とみさく)が遺した図書館活動に関する資料について紹介された。なお、この資料については第17回関西文脈の会勉強会(2012年12月)で報告いただいており、今回はそれ以降の資料整理の成果も踏まえた報告となった(長田の経歴等については、リンク先等を参照)。文書については一通り整理が完了し、前回報告時に未整理だった書簡については今年から整理が進められている。

 資料群は大阪府立図書館の庶務・展示会・貸出文庫関係、また大阪や近畿地方の連絡組織関係、日本図書館協会関係、中央図書館長協会関係のものからなり、全480点存在している。最近発行されたばかりの『大阪府立図書館紀要』第42号(2013年10月発行)に、目録を掲載してある。

 報告では資料群のなかから、青年層のための国民精神総動員文庫関連の史料、戦地への「貸出」記録、読書会の史料、大阪文化施設協会の史料、日本図書館協会や中央図書館長協会関係の議事次第や名簿などがあることが紹介された。
門上氏からは、戦時期の図書館活動に関する一次史料の発掘をこれから進めていく必要があること、並びに戦時期の図書館活動を日本の近代の歴史の中にどう位置づけて行くかという点について問題提起がなされた。

◆質疑
  • レジュメの内容紹介にある「注意」とはどんな史料か。 →提供時注意すべき資料(左派系と目されていた資料)。逆にいえばそういった資料も所蔵していた、ということ。
  • 書簡は大体何点くらいか? → 150~200点
  • 大阪文化施設協会の会則について、「文化施設」は文部省の課の名前でもある。戦時中、社会教育的な分野で施策を行う場合、「文化」の名の下に行っている。図書館史だけでなく、博物館史や戦時文化運動の史料ともなろう。
  • 中央図書館長協会についての研究でも文化施設協会の在り方は関連するのではないか。
  • 「文化」「科学」という語が広く喧伝され始めるのは1940年代から。敗戦後、唱えられたかのように思われがちだが、戦中期からのもの。これが戦後初期のスローガンのひとつ「文化国家」にスライドしてくる。この視点から捉え直す必要がある。

●「田中一貞と慶應義塾図書館」(田村俊作氏)

 慶應義塾図書館の初代監督を務めた田中一貞(たなか・かずさだ(「いってい」と読む史料もある)1872~1921)について、『慶應義塾図書館史』などを元に、経歴をたどりつつ、彼の人となりや図書館観などについて紹介がなされた。

 田中は山形県、鶴岡の出身。同郷の縁もあって若き高山樗牛とも親交を持った。慶應義塾を卒業後、アメリカ、フランスに留学し、社会学を修めた。明治37年(1904)帰国後は、慶應義塾において社会学と仏語を講じた。翌年、書館が「図書館」と改められると初代「監督」を兼任し、目録カード編成や図書館規則の制定に尽力した。長く塾長を務め、福沢没後の義塾の発展に尽くした鎌田栄吉の信任が厚く、半年以上に及ぶ欧米巡遊にもともに出かけている。

 田中の人となりについては、「開放主義」と呼ばれる人柄で、来客は夫人とともに迎え入れるような人が集まるタイプの人だったらしい。また、留学中、フランスで洋画家グループと交流を持ったこともあり、大の美術品収集家であった。病弱な一面もあったという。福沢諭吉のことをたいへんに尊敬し、「赤誠熱愛のハート」を持った教育者であったと回想している。

 図書館については、開架の提唱や塾外者の利用を認めるなど、利用者の便宜を重視する運営をした。図書館建築に一家言を持っていた人で、図書館は“防火性”“効率性”“拡張性”が重要だと述べているが、こうした田中の考えに基づいて作られた慶應義塾図書館旧館は、空襲に耐え、二度の拡張により70年に渡って本館として使われた(また田中は美観も重視し、例えば、慶應義塾図書館内のステンドグラスは、田中の発案によるものである)。大学図書館長として早稲田の市島春城とはかなり違った個性だが、ユニークな図書館人として評価できる。

◆質疑
  • 田中が「図書館の専門家」でなく「素人」というのは、和田万吉らがしきりに言っていた専門性論と関係がある?田中は社会学者の顔も持っており、そこに一種の誇りも持っていたのでは。
  • 田中という人の業績は、普通に評価すると図書館建築に一家言あった人という程度に見えてしまうが。 →図書館人の歴史的評価が何によってなされるべきかという重要な指摘。今までは書いたものの図書館観が立派なら、それで評価されていたかもしれないが、図書館経営の評価はそれでははかれない。言説だけでなく、運営実態や、機能する施設といった実務業績も見るべき。

このほか、柳与志夫氏から「短報」として、大阪府立中之島図書館の歴史を振り返りつつ、橋下市政下における同図書館の改革に関する検討動向について簡単な話題提供があった。


また、終了後はオプショナル・ツアーとして、同志社大学図書館および本会メンバーである春山明哲氏のご厚意により、同図書館竹林文庫の見学会を開催した。

2013年10月9日水曜日

第20回勉強会(2013年10月6日)報告

第20回勉強会(2013年10月6日)報告
「司書養成科目「図書・図書館史」を考える 問題編と解答編」
日時:2013年10月6日(日) 14:00-17:00
会場:京都商工会議所 第一会議室
発表者:佐藤 翔氏
参加者数:11名

当日の出席者によるtwitter上のつぶやきをまとめたものはこちら

  • はじめに
発表内容は2つに分ける。
前半が問題編で、図書・図書館史の分析。教科書の内容から、司書課程で教えられている図書館史を分析したもの。後半は解答編として、前半で分析した現状を踏まえて、自分なりに考えた図書館史の授業についてお話しする。
 2012年6月5日に筑波大学図書館系勉強会で行った発表に、プラスαした内容になる。

  • なぜ図書館史に興味を持ったか?
自分の本業はアクセスログなど、分析畑の人。もともと図書館史に興味はなかった。
 興味を持つようになった遠因は、2009年に川崎良孝先生の図書館史についての講演を聴いたこと。これが面白かった。たとえば「民主主義の砦」といった文脈で語られる事の多いボストン公共図書館が、移民を文化的に洗脳してアメリカ化するという使命を持っていたことなど。
◆参考資料:「手に負えない改革者―メルヴィル・デューイの生涯」

 近因としては、関西文脈の会の存在。ウェブなどで活動の様子を見ると面白そうで、関西では図書館史の勉強が盛んなのだなという印象を持った。また、近年刊行された図書館史系の本にも興味をそそられた。
◆参考資料:「図書館を届ける」、「越境する書物」「新たな図書館・図書館史研究―批判的図書館史研究を中心にして」「国史大辞典を予約した人々」

 さらに直接的な理由として、教員として図書館史を教えるにあたり、自分自身体系的に図書館史を学ぶ必要が生じたこと。基本を押さえなくてはならない、では教科書を読んでみようと考えた。
 司書養成課程を受講した人でも、図書・図書館史の授業を受けた人は少ない。というのは選択科目だから。最近カリキュラムが改訂されたが、趣旨はあまり変わっていない。しかも図書館史は、カリキュラム改訂の度に削除されそうになっている科目でもある。一方で、教科書は複数社から出ており、開講している大学も多いという現状がある。



  • 調査方法
では、どこの教科書がいいか。司書養成課程において一番多くテキストとして使われているものはどれか、調査した。調査に使ったのは「日本の図書館情報学教育」(2005)。この資料で、図書館史の開講大学を確認。大学のHPでシラバスを確認し、テキストが指定されている場合にはどこの教科書を使っているか調べた。
 結果は以下のとおり。
・2012年現在「図書・図書館史」を開講しているのは65大学。うち教科書が指定されているのは33大学で、残りは配布プリントや「参考資料(=紹介されているが買わなくてもよい)」。
・33大学で指定されている教科書は計10種類。
・うち2大学以上が使っているのは4点。上位3位を以下に挙げる。
 1位:JLAの図書館情報学テキストシリーズ「図書及び図書館史」。14大学で採用されている。
 2位:樹村房の新図書館学シリーズ「図書及び図書館史」(1999)。10大学で採用。
 3位:東京書籍「図書及び図書館史」。2大学で採用。

 読んでみると、共通して押さえている事柄はある一方、重視するポイントや全体の構成には差がある。
 東京書籍版では、日本史/西洋史に分ける。古代から近現代までがだいたい均等。
 JLAの旧版「図書及び図書館史」では、メディア史・西洋史・日本史という分け方。図書史と図書館史が分かれている。日本の近現代が中心。海外史は新版よりは厚いが、おおむねさらっとまとめている。JLA新版でも構成は同様。メディア史の部分が長く、全体の半分くらい。それ以外はだいたい西洋史。書き手が比較的若いことも特徴。
 樹村房では、西洋史・中国史・日本史という構成。西洋史が厚い。明治以降の日本の図書館モデルは西洋だから当然ではある。新版では、まず時代区分を採用。中国・インド・イスラム圏の記述が厚いことと、前近代についての記述が充実していることが特徴。ちなみに同志社でもこれを採用。

 しかし教科書を読んでも、そもそもなぜ歴史を学ぶのかが分からない。たとえば世界史であれば、山川出版社の教科書だと冒頭で歴史を学ぶことの意義を書いているが、それが無い。また個別の歴史的事実は書いてあるが、その歴史的意味について書いていない。事象の相互関係や、全体の流れも分からない。
 関西文脈の第6回勉強会で谷航さんが発表された「マクロ図書館史」では、メディアの発展の流れから始めていた。まさにそういう話が、教科書にもあってほしい。何が面白いのか。教員がつまらんものを学生が面白がる訳がない。
【質疑】
・授業はすべてパワーポイントで行う?→だいたいそう。メディア史のほうが食いつきがいい。現物も見せる。授業用に羊皮紙を買った。
・最終的に樹村房の教科書にした理由→時代区分を採用しているのが自分のやりたい方向と合っていたから。

  • 解答編(初回の授業を再現)
「図書館」の「歴史」なんて、自分には関係ないし興味がないと思うかもしれない。しかし実際は図書館に限らない。実験・研究・着想といった情報の精算、そして流通、保存というサイクルの歴史であり、その手段や技術の歴史でもある。
 キーワードは「共有」ということ。情報や知識をいかに共有するか。このことは図書館員に限らず、すべての人が携わることになる。特に現代では、富の源泉が知識情報になりつつある。

 では、歴史を学ぶのはなぜか。むしろ現在と未来のためにこそ過去が必要。
 古代の図書館はどんなだったか。Googleで「古代 図書館」で検索すると、ファイナルファンタジーの画像が出てくる。本がいっぱい並んだ本棚のある空間。
 しかしほんとうの古代図書館では、これはあり得ない。そもそも古代の図書館にあった本は巻子。冊子体の本(=コデックス)が生まれたのが古代ローマであり、普及したのは中世ごろ。アレキサンドリア図書館でも資料は巻子だった。西洋史においては冊子よりも巻子・板だった時代のほうが長い。「本とは何か」という定義は時代と社会の状況で変わる。
 図書館は静かにすべき場所というイメージも近代以降。そもそも昔の読書は音読だった。古代ギリシャでも黙読は行われていたが、それなりの訓練の要るスキルだった。今でいうと速読のような感じ。声に出して読むのが当たり前だった。
 このように今の認識や制度は当たり前のものではない。「図書館とはこういうもの」「これが伝統」というものについ縛られてしまうが、それを打ち破るのが、歴史を学ぶということ。現在を相対化する。過去を知ることが、過去に縛られないことになる。

 巻子が冊子に置き換わっていった過程。パピルスというのは片面印刷しかできず、巻いて保管するのに向いていた。冊子本は両面印刷。後者の方が優れている点は色々あるが、置き換えは便利さだけの問題ではない。パピルスの材料はエジプト特産。当時大きな図書館があったペルガモンはエジプトと仲が悪く、パピルスを手に入れるのが難しかった。そこで羊皮紙が発達した。パピルスに向いている巻子本という形態よりは、羊皮紙に向いていると冊子本という形態が使われることになった。特に冊子本を積極採用したのは原始キリスト教で、キリスト教の普及と共に冊子隊体が普及することになった。
 冊子体の本は片手で読める。また、途中からでも読める。巻子本は両手で持って読んでいたので、注釈を入れるのが難しい。これはテキストに注釈を入れたり、同じ個所を参照しあうことを容易にした。このように、知識の生産や消費の様式も変わる。
 歴史を学べば未来が予想できるという訳ではない。ただ、そのようにして変わるということの覚悟や自覚が得られる。見てきたような過去の変化も、変えた人自身は意識していないだろう。

 この授業で学んでほしいことは二つ。現在を相対化すること。知識の共有主体と社会は、相互作用を及ぼしつつ変化すること。
 授業は全15回。最後は図書館史を踏まえて現代の図書館のあり方を俯瞰する授業としたか
ったが、時間が足りなくなってしまった。そこで最終レポートでは、幻の15回の授業案を作
ることをレポートとして課す予定。

 現時点での弱点は、東洋が弱い。確かに近代図書館史には影響が薄いが、図書史という観点からは不可欠。時間が足りない。近現代はもっと時間をかけたい。
【質疑】
・受講生の反応は?
 →反応箇所は、相対化・相互作用、音読・黙読、巻物・冊子体、Chained libraryの順。
・情報技術の歴史については話すのか。
 →詳しいところは図書館情報技術論の方で話してもらう。こちらの授業では重要なポイントにさらっと触れるのみ。マンハッタン計画など。
・博物館学においては、博物館の歴史というのは養成過程の中であまり重視されていない。文部科学省から求められる項目にも割合が少ない。図書館ではなぜそれほど歴史を重視するのか。
 →図書館の歴史を学ぶ意義については、図書館文化史研究会で声明を出していた。
 →図書館史は研究する人が多くない。図書館情報学系では少ない。図書館の歴史研究の方法論の本は出ているが、一般的な歴史研究とは少し違う。

 終了後、懇親会が行われた。

2013年8月5日月曜日

第19回勉強会(2013年7月28日)報告

『図書館を育てた人々 日本編I』を読む
(9)升井卓弥「反骨の図書館学文献学者:鈴木賢祐」

 日時:2013年7月28日(日) 14:00-17:00
 会場:京都商工会議所 第三会議室
 発表者:服部 智氏 出席者:10名
  今回はテキストから、和歌山高商図書館、県立山口図書館などに勤務し、『図書館雑誌』の編集委員も務めた鈴木賢祐を取り上げ、輪読を行った。当日のtwitterによるつぶやきをまとめたまとめはこちら

 0.鈴木賢祐の略歴
 ・明治30(1897)年、出生。吉敷郡小郡町出身。
 ・大正12(1923)年より、和歌山高商図書館に勤務。その後上海の近代科学図書館、九州帝国大学などで勤務。
 ・昭和15(1940)年より、『図書館雑誌』編集委員を務める。
・昭和25(1950)年より、山口県立山口図書館で館長を務める。


1.和歌山高商時代
1-1.和歌山高商での鈴木
 ・鈴木の図書館員としてのキャリアは大正8(1919)年5月、大阪府立図書館への就職をもって始まる。この頃は図書館より創作に興味があり、劇作家等と接近。
 ・大正12(1923)年11月、和歌山高等商業学校に移る。この頃カッターの展開分類法されたが、鈴木はこれに傾倒。DC(デューイ十進分類法)、 EC(展開分類法)、LC(議会図書館分類法、SC(件名分類法)と比較し、「これらの中でも東洋的文献の分類に適し」ていると評価。自ら展開分類法日本版を作成。
・この時期、毎年数編のペースで論文を発表。青年図書館員聯盟の機関誌『?研究』(?=くにがまえの中に「書」)を主な発表の場とした。
・昭和2(1927)年、『図書館雑誌』21(1)に掲載された「我が国図書館の浄化」など、全国専門高等学校図書館協議会への批判を多く行った。「我が国~」は、媒体に載った鈴木の最初の論考であり、優秀な図書館員がいない理由として待遇の低さと専門養成機関の未備を挙げ、かなり強い調子で専門職養成の提案を行っている。

1-2.標準分類表をめぐる論争
・大正15(1926)年に全国専門高等学校図書館協議会の第三回大会で、中島猶次郎起草の標準分類表具体案が提出され、翌年これを基礎として第三区分まで展開された案を理事校が提出。この両案につき、鈴木は3つの点から批判を行った。
・批判点その1:手続き上の難点。26年案は理事会一任となっていたが、27年案については決議の準備ができていない。また、協議会外部の権威者・諸団体との連携が不十分。
・批判点その2:制定方針上の難点。両分類表案は粗略であり、大規模館から小規模館まで等しく使えるものになっていない。
・批判点その3:体系自体の難点。本案の元になったデューイ十進分類法には難点もあるが、普及している。本案のように改修して使うのではメリットはない。原体系とまったく異なる「理想的な日本体系」を作るか、せめてデューイ十進分類法の難点を訂正すべき。
・昭和4(1929)年8月に分類表三案が刊行された。乙部泉三郎、毛利宮彦、森清の案。鈴木はこれらを検討し、リチャードソンの「実用分類法の標準」およびこれに対するセイヤーズの指摘を折衷した基準によって比較。その結果、森案のみが標準分類表としての要件備えていると評価した。翌年には、これに対する毛利宮彦の反論に再反論。
・標準分類表に関して、和田万吉とも論争を展開。「個々の図書館員が自ら学問的知識を身につけ、帝国図書館の分類表など既存の分類表を参考にしながら運用すればよいのではという和田に対し、変通性を維持しながら個々の図書館員の無駄を省くのが標準分類表であると主張。
・目録体系について田中敬にも疑問を示した。
・升井氏のテキストによると「用語問題には余裕を示」していたとあるが、原典に照らして明らかな誤用には厳しい姿勢。

2.『図書館雑誌』編集委員時代
・昭和12(1937)年4月、和歌山高商を退職。会計係との衝突がきっかけだったとも言われる。
・同年12月、上海近代科学図書館に移る。これは北清事変の賠償金で作られた文化施設であり、鈴木と同時に森清が渡っている。
・昭和14(1939)年8月、九州帝国大学に移る。
・この時期、米国議会図書館(LC)でHervert Putnamに代わりArchibald MacLeishが就任。MacLeishは図書館業務に関して門外漢であったため、ALA挙げて反対運動が起こる。背後にはLCの立法参考部長であったGeorge J.Schulzが年報で館の内情とPutnam館長を批判し、罷免されるに至った事件があったとされる。鈴木はこの館長人事を嘆き、あわせて日本の館長人事を批判。
・昭和15(1940)年4月、図書館雑誌の編集委員に就任。同年7月に東京帝国大学に移る。
・昭和17(1942)年に東京帝大を辞職。同年日本図書館協会の主事、翌年理事となる。
・昭和19(1944)年12月に満州国中央図書館に移る。
・昭和23(1948)年12月再び東京大学図書館へ。翌年には図書館職員養成所講師を兼務。

【質疑・コメント】
・和歌山高商を退職した理由は会計係との衝突とあるが、何があったのか。→冊子体の目録を刊行した際、費用のことで揉めたようだ。
・上海近代科学図書館では館運営をめぐって鈴木が館長と対立し、森清が館を去ることになったらしい。→鈴木は「一流人にはここは合わない」といった批判を残している。また鈴木が亡くなった際に間宮不二雄が述べた弔辞によれば、上海に行った時点から本意ではなかったようだ。
・日本の館長人事を批評した際、鈴木は「女学校長ノ古手デアラウト又ハ新聞記者の上リデアラウト」と述べているが、ここで具体的に誰かを想定していたのか。→不明。
・LC館長問題に関連して。Schulz事件の後LC事務局の理事にベルナール・クラップという人物が就任しているが、これはのちにGHQのクラップ勧告を行ったバーナード・クラップのことか。→そう。


4.山口県立山口図書館長時代
4-1.山口図書館長としての鈴木
・昭和25(1950)年6月、山口県立山口図書館長に就任。終戦直後で混乱していた図書館の運営を立て直した。混乱ぶりの一例として、県立山口図書館は、戦争末期に山口県の県紙(新聞統制令のため県に1紙とされていた)である防長新聞の社屋として提供されており、これが1950年まで続いていた。
・県立山口図書館の初代館長は佐野友三郎(明治36(1903)~大正9(1920)年)。当時山口図書館では当時としては先進的なサービスが色々実施されていた。これらは佐野が始めたもの。児童室、夜間開館、巡回文庫、公開書架など。
・山口図書館長としての鈴木は、児童室を廃止して山口市立児童図書館の新設援助を行うなど、多くの事業を行った。山口図書館は参考図書館としてあるべきと考え、個人貸し出し用の図書収集は圧縮。統計を取った時、参考図書の割合が高すぎて間違いだと思われたというエピソードがあるほど。こうした方針の背景に、それまで大学図書館や専門図書館を多く経験してきた鈴木のキャリアがあるかもしれない。
・佐野館長以来採用されてきた山口図書館式分類法という独自の十進分類法があったが、当時この分類法は行き詰まりつつあった。鈴木の館長就任とNDC6版の交付をきっかけに資料の再整備が行われた。
・新しい整理体系では、NDC6版を最大限展開して採用。文学には分類記号を与えない、別置記号を分類記号に冠するなどの特色があった。
・『山口図書館だより』において、鈴木は県立図書館の持つ性格や、市立図書館との役割分担などについて言及。佐野館長以来の児童サービスについては、「利用者圏が最も局限されがちな性質のもの」であり、全圏域を対象とする建前の県立図書館で敢えて実施することの意味を問うている。

4-2.人材育成
・昭和25(1950)年4月に図書館法が公布され、司書・司書補という職種が設定された。現職者のため、昭和26(1951)年から旧帝大を中心とした全国の大学で司書講座を開設。鈴木も九州大・広島大・山口大などで司書講座の講義を担当。講義が分かりにくいと、受講生からの評判はあまり良くなかった。昭和32(1957)年の山口大での講義では持ち時間の半分を升井氏に話させたりしており、鈴木自身も欠点は自覚していた模様。

4-3.山口県文書館の創設
・山口県文書館は日本最初の文書館であり、昭和34(1959)年開館。実現まで5年かかった。これに先立ち鈴木は、昭和32(1957)年の論文の中で文書館の歴史を概察し意義を述べている。
・山口文書館創設の略年表。昭和26(1951)年に山口図書館に毛利文庫が受け入れられた。毛利文庫とは長州藩の歴代文書資料や古典籍、記録などを集積したもの。これが文書館を作るきっかけとなった。昭和30(1955)年の山口県地方史学会理事会で県立史料館の創立を協議したのが文書館創設運動の萌芽と思われる。
・鈴木は、本音としては図書館の書庫を増築したかったが、「書庫増築では前向きの事業にならないので、文書館創設を合わせることにしたのでは」と升井氏は推察している。
・昭和34(1959)年に新書庫が落成したが、鈴木はその後の文書館の進路について不満があった。日本史に偏っており文書館ではなく史料館になっている、県文書こそが前面に押し出されるべきと主張。

5.その後の鈴木
・昭和34(1959)年4月、日本初の図書館学専任として東洋大学に勤務。
・セイヤーズとランガナタンに関心を持つ。郷土資料について、NDCに代わる独創的な分類体系を構想し、升井氏に作成を求めていた。資料の主題と、資料に書かれている時代と、その資料が紹介している地域を組み合わせたもの。
・昭和42(1967)年1月11日逝去。

【質疑・コメント】
・鈴木は佐野友三郎をどう思っていたのか?→文章を見る限り、佐野を立てている。鈴木は館長になってからも教育長を飛ばして知事に直訴したりしている人なので、遠慮していたからとは考えにくく、本心だったのだろう。佐野の方針が気に入らなかったわけではなく、参考図書館にしたいという思いが強かったのでは。
・方針展開は非常に論争的なテーマ。公共図書館と参考図書館の思想は伝統的に対立しがち。わざわざ規定路線と違うことをしようとしたのは何故だろうか。
・鈴木が、県立図書館で児童サービスを行うことに対して否定的だったというのが興味深い。現代の県立図書館でも児童サービスを止めたところがあり、議論の的になっている。
・県立図書館と市立図書館の関係について触れられていたが、大正ごろには県と市の間に郡立図書館が存在した。郡単位で残った文書を蓄積するアーカイブ。市だけでおさまらない、たとえば水利関係の行政文書など。当時は郡単位での行政に意味があった。
・明治末からの通俗教育の流れでできた。教育参考館も郡で作っていた。郡立という名前でなくても、地元の青年団が作っていて実態としては郡立という場合もあったのでは。たとえば現在の洲本図書館は郡立図書館が元になっている。
・山口県は、私立も含めて図書館が多かった。陸軍軍人が私物の蔵書を元に文庫を築いたりしている。もちろん中央政府とのつながりが強かったり、毛利文庫にも藩校の資料がある。戦前から一般公開していたのか。素地があったのか。
・鈴木のキャリアにおいて、戦前の目録屋-戦後の保存屋という二つの顔はどう繋がるのか。配布資料の著作一覧を見ても、戦後には目録に関する論文を書かなくなっている。→戦前にあちこちで論争しているのは、標準分類表制定に関わるものであり、それが確立してしまったので論ずる必要がなくなったのでは。逆に、文書に関する関心は戦前にも持っていたのだろうか。

 終了後、懇親会が開かれた。

2013年3月15日金曜日

第18回勉強会(2013年3月9日)報告

「図書館“展示”の歴史について」
日時:2013年3月9日(土) 14:00-17:00
会場:京都商工会議所 第一会議室
発表者:長尾 宗典氏

 当日の出席者によるtwitter上のつぶやきをまとめたものはこちら 

はじめに

 今月で関西文脈の会が発足して3周年。本報告では図書館展示の「歴史的意味」について検討し、その現在の位置付けを踏まえた上で、今後の展望を考える。

1.「展示」とは何か-議論の前提として

 NDLでは東京本館に展示企画係を常設しているが、関西館小展示など多くの展示は委員会組織によるプロジェクト方式で企画・実施される。委員会方式は機動力がある代わりに、本務とのバランスの取り方が難しい。しかし、図書館では展示のための常設部署を置かないのはよくあること。
 展示を観る人(利用者)の意識はどうかと考えた場合、博物館・美術館と図書館を区別しないはず。博物館法では公立博物館の入館料等は原則無料としており、「無料」もあまり理由にならない。逆に近年、博物館では撮影可などの新しい試みも行われている。こうした状況を考えると、レベルの低い展示は図書館のイメージダウンになる、といえる。
 翻って博物館史に目を向け、日本の博物館の系譜を概観する。明治期において、日本の博物館には共進会・古社寺保護・教育博物館など複数の源流が存在した。戦後、明治百年事業を契機として博物館の数は大きく増加する。そして博物館の役割として画期となったのが、梅棹忠夫の「博情館」構想である。今日、梅棹の構想を振り返ると、その「博物館」は「図書館」にも置き換え可能であり、この点に図書館と博物館の近縁性を見ることもできる。
 それでは「展示」とは何か。用語としては、古くは「展覧」「陳列」。パリ万博が転回点となり、第二次大戦前夜には「物の観方」を提示する方へ傾いてゆく。

2.図書館″展示″の歴史

図書館学者の意見としては、展示(陳列)について肯定的なものが多い。法規的基礎の問題として考えた場合、改正図書館令(1933)において「附帯施設」条項が追加されたことが一つの画期といえる。この条項は、松尾友雄と中田邦造によるいわゆる「附帯施設論争」で知られるが、その中で「図書館は図書館として発達せしめよ」と論じた中田も、「展示」は図書館業務と考えていた形跡がみられる。そして戦後の図書館法(1950)で、図書館奉仕としての「展示」が位置づけられるに至る。
 戦前~戦後の主な図書館「展示」から指摘できるいくつかの傾向としては、「陳列」から「主題展示」への変遷、会期の長期化、展示資料点数の漸減、展示対象の多様化、が挙げられる。

3.図書館“展示”の意味とは?

 これまでの図書館における展示には貴重書重視の傾向があったが、実際には必ずしも古典籍に限らないニーズがある。また古典籍は資料管理などの点で展示する際のハードルが高く、企画によっては単なる「陳列」になってしまうこともありうる。「とりあえず古典籍」という展示はそろそろ飽きられる。観た人に強い印象を残せるのがいい展示であり、規模はあまりリンクしなくなりつつある。
 職員のスキルアップのみを目標にしていいのか、という点も問題。図書館には資料についての「調査研究」義務はない。また図書館の展示は図書館奉仕であることから、職員以上に来館者の認識を高めることが重要になる。外部有識者に監修を依頼するのも一手ではないか。
 展示を広報戦略としてとらえた場合、どのレベルでの理解を求めるのか。Accountabilityを展示する、というのは一つのスタンス。レファレンスと絡めるのもありうる。
また、「展示」を見てもらう前提として、会場に来てもらわねばならない。遠隔サービスの拠点を謳う関西館で一生懸命「展示」する、というのは矛盾していないか。「集客」という指標の呪縛がある。この点をフォローするには、来場者へのお土産を充実させたり、巡回展示を企画するなど、その場にとどまらない工夫が必要。

おわりに-これからの図書館“展示”は何をするのか?

「図書館の展示を企画すること」は「新たな文脈を作ること」。


主な質疑は以下のとおり

・博物館でしているのは「展示のための研究」ではない。研究しているから展示をする。
 図書館で外部から人を呼んでまで展示をする意味は何か。
   →少なくともNDL、大学図書館は意味があるはず。
    図書館も諸館種ある中で、「展示」の在り方・意味を一律に規定する
    のは難しい。が、少なくとも学術情報支援を目的としている図書館は、
    職員がもっと資料研究すべき。

・「博物館」とは何か、という合意は博物館関係者の間でも取れていない
 =議論の基盤がない。では「図書館」はどうか?
   →「文化資源を見せる」ということから機能を再定義する、のもありでは
    ないか。

・図書館展示の特徴として、「無料」であることがよく挙げられる。
 しかしあまり認識されていないが、展示にかけるコストの問題がある。
   →コストを抑えるためにもコンテンツの蓄積が必要
    (使いまわせるものは使いまわす)

・常設の展示スペースを設けてはどうか。
   →情報提供目的。(@滋賀県の図書館)
    現実的には利用者の導線設定が課題だが、これは提供側の意識。
    利用者側からみるとどうか?

・誰と、どういう関係を結びたいか、によって展示コンセプトは決まるはず
   →一例としてはベタな資料をうまく展示することで、日頃そういった
    資料に触れる機会のない人に働きかけるアプローチが考えられる。
   →「広報としての展示」と考えるなら、しっかりマーケティングすべき。
  また単発で終わらせてはいけない。

・デジタルの展示について。正直見にくい。
 ←多くのデジタルコンテンツの主たる利点は検索できることなので、
  見やすさは第一優先ではないのでは?

・デジタル展示先行型としては、NDLの「本の万華鏡」がある。
 コストを下げる&ロングテールを狙う。
 近代デジタルライブラリーのPRという目的も。
  ※著作権が存続している資料は著作権の問題がネックになり、古い資料に
   流れがち。(現物の展示はできるが、ネットに上げられない)
 →Webとリアルの展示手法組み合わせ  
  *図書館(文字情報)のほうが博物館(立体)よりアドバンテージが
   あるかもしれない。

・展示のノウハウの蓄積が必要。
 →展示リストの記録・公開
 →図書館「展示」の理論化 *大学図書館で2000年以降活性化
  ※博物館でもあまり理論化されているわけではない。しかし近年、
  学芸員資格のための科目において、展示について多くのページを
  割いた教科書が出てきている。

そのほか、展示のあり方・方向性について、活発な意見交換がなされた。
終了後は懇親会が催された。