『図書館を育てた人々 日本編I』を読む
(9)升井卓弥「反骨の図書館学文献学者:鈴木賢祐」
日時:2013年7月28日(日) 14:00-17:00
会場:京都商工会議所 第三会議室
発表者:服部 智氏
出席者:10名
今回はテキストから、和歌山高商図書館、県立山口図書館などに勤務し、『図書館雑誌』の編集委員も務めた鈴木賢祐を取り上げ、輪読を行った。当日のtwitterによるつぶやきをまとめたまとめはこちら
0.鈴木賢祐の略歴
・明治30(1897)年、出生。吉敷郡小郡町出身。
・大正12(1923)年より、和歌山高商図書館に勤務。その後上海の近代科学図書館、九州帝国大学などで勤務。
・昭和15(1940)年より、『図書館雑誌』編集委員を務める。
・昭和25(1950)年より、山口県立山口図書館で館長を務める。
1.和歌山高商時代
1-1.和歌山高商での鈴木
・鈴木の図書館員としてのキャリアは大正8(1919)年5月、大阪府立図書館への就職をもって始まる。この頃は図書館より創作に興味があり、劇作家等と接近。
・大正12(1923)年11月、和歌山高等商業学校に移る。この頃カッターの展開分類法されたが、鈴木はこれに傾倒。DC(デューイ十進分類法)、
EC(展開分類法)、LC(議会図書館分類法、SC(件名分類法)と比較し、「これらの中でも東洋的文献の分類に適し」ていると評価。自ら展開分類法日本版を作成。
・この時期、毎年数編のペースで論文を発表。青年図書館員聯盟の機関誌『?研究』(?=くにがまえの中に「書」)を主な発表の場とした。
・昭和2(1927)年、『図書館雑誌』21(1)に掲載された「我が国図書館の浄化」など、全国専門高等学校図書館協議会への批判を多く行った。「我が国~」は、媒体に載った鈴木の最初の論考であり、優秀な図書館員がいない理由として待遇の低さと専門養成機関の未備を挙げ、かなり強い調子で専門職養成の提案を行っている。
1-2.標準分類表をめぐる論争
・大正15(1926)年に全国専門高等学校図書館協議会の第三回大会で、中島猶次郎起草の標準分類表具体案が提出され、翌年これを基礎として第三区分まで展開された案を理事校が提出。この両案につき、鈴木は3つの点から批判を行った。
・批判点その1:手続き上の難点。26年案は理事会一任となっていたが、27年案については決議の準備ができていない。また、協議会外部の権威者・諸団体との連携が不十分。
・批判点その2:制定方針上の難点。両分類表案は粗略であり、大規模館から小規模館まで等しく使えるものになっていない。
・批判点その3:体系自体の難点。本案の元になったデューイ十進分類法には難点もあるが、普及している。本案のように改修して使うのではメリットはない。原体系とまったく異なる「理想的な日本体系」を作るか、せめてデューイ十進分類法の難点を訂正すべき。
・昭和4(1929)年8月に分類表三案が刊行された。乙部泉三郎、毛利宮彦、森清の案。鈴木はこれらを検討し、リチャードソンの「実用分類法の標準」およびこれに対するセイヤーズの指摘を折衷した基準によって比較。その結果、森案のみが標準分類表としての要件備えていると評価した。翌年には、これに対する毛利宮彦の反論に再反論。
・標準分類表に関して、和田万吉とも論争を展開。「個々の図書館員が自ら学問的知識を身につけ、帝国図書館の分類表など既存の分類表を参考にしながら運用すればよいのではという和田に対し、変通性を維持しながら個々の図書館員の無駄を省くのが標準分類表であると主張。
・目録体系について田中敬にも疑問を示した。
・升井氏のテキストによると「用語問題には余裕を示」していたとあるが、原典に照らして明らかな誤用には厳しい姿勢。
2.『図書館雑誌』編集委員時代
・昭和12(1937)年4月、和歌山高商を退職。会計係との衝突がきっかけだったとも言われる。
・同年12月、上海近代科学図書館に移る。これは北清事変の賠償金で作られた文化施設であり、鈴木と同時に森清が渡っている。
・昭和14(1939)年8月、九州帝国大学に移る。
・この時期、米国議会図書館(LC)でHervert Putnamに代わりArchibald MacLeishが就任。MacLeishは図書館業務に関して門外漢であったため、ALA挙げて反対運動が起こる。背後にはLCの立法参考部長であったGeorge J.Schulzが年報で館の内情とPutnam館長を批判し、罷免されるに至った事件があったとされる。鈴木はこの館長人事を嘆き、あわせて日本の館長人事を批判。
・昭和15(1940)年4月、図書館雑誌の編集委員に就任。同年7月に東京帝国大学に移る。
・昭和17(1942)年に東京帝大を辞職。同年日本図書館協会の主事、翌年理事となる。
・昭和19(1944)年12月に満州国中央図書館に移る。
・昭和23(1948)年12月再び東京大学図書館へ。翌年には図書館職員養成所講師を兼務。
【質疑・コメント】
・和歌山高商を退職した理由は会計係との衝突とあるが、何があったのか。→冊子体の目録を刊行した際、費用のことで揉めたようだ。
・上海近代科学図書館では館運営をめぐって鈴木が館長と対立し、森清が館を去ることになったらしい。→鈴木は「一流人にはここは合わない」といった批判を残している。また鈴木が亡くなった際に間宮不二雄が述べた弔辞によれば、上海に行った時点から本意ではなかったようだ。
・日本の館長人事を批評した際、鈴木は「女学校長ノ古手デアラウト又ハ新聞記者の上リデアラウト」と述べているが、ここで具体的に誰かを想定していたのか。→不明。
・LC館長問題に関連して。Schulz事件の後LC事務局の理事にベルナール・クラップという人物が就任しているが、これはのちにGHQのクラップ勧告を行ったバーナード・クラップのことか。→そう。
4.山口県立山口図書館長時代
4-1.山口図書館長としての鈴木
・昭和25(1950)年6月、山口県立山口図書館長に就任。終戦直後で混乱していた図書館の運営を立て直した。混乱ぶりの一例として、県立山口図書館は、戦争末期に山口県の県紙(新聞統制令のため県に1紙とされていた)である防長新聞の社屋として提供されており、これが1950年まで続いていた。
・県立山口図書館の初代館長は佐野友三郎(明治36(1903)~大正9(1920)年)。当時山口図書館では当時としては先進的なサービスが色々実施されていた。これらは佐野が始めたもの。児童室、夜間開館、巡回文庫、公開書架など。
・山口図書館長としての鈴木は、児童室を廃止して山口市立児童図書館の新設援助を行うなど、多くの事業を行った。山口図書館は参考図書館としてあるべきと考え、個人貸し出し用の図書収集は圧縮。統計を取った時、参考図書の割合が高すぎて間違いだと思われたというエピソードがあるほど。こうした方針の背景に、それまで大学図書館や専門図書館を多く経験してきた鈴木のキャリアがあるかもしれない。
・佐野館長以来採用されてきた山口図書館式分類法という独自の十進分類法があったが、当時この分類法は行き詰まりつつあった。鈴木の館長就任とNDC6版の交付をきっかけに資料の再整備が行われた。
・新しい整理体系では、NDC6版を最大限展開して採用。文学には分類記号を与えない、別置記号を分類記号に冠するなどの特色があった。
・『山口図書館だより』において、鈴木は県立図書館の持つ性格や、市立図書館との役割分担などについて言及。佐野館長以来の児童サービスについては、「利用者圏が最も局限されがちな性質のもの」であり、全圏域を対象とする建前の県立図書館で敢えて実施することの意味を問うている。
4-2.人材育成
・昭和25(1950)年4月に図書館法が公布され、司書・司書補という職種が設定された。現職者のため、昭和26(1951)年から旧帝大を中心とした全国の大学で司書講座を開設。鈴木も九州大・広島大・山口大などで司書講座の講義を担当。講義が分かりにくいと、受講生からの評判はあまり良くなかった。昭和32(1957)年の山口大での講義では持ち時間の半分を升井氏に話させたりしており、鈴木自身も欠点は自覚していた模様。
4-3.山口県文書館の創設
・山口県文書館は日本最初の文書館であり、昭和34(1959)年開館。実現まで5年かかった。これに先立ち鈴木は、昭和32(1957)年の論文の中で文書館の歴史を概察し意義を述べている。
・山口文書館創設の略年表。昭和26(1951)年に山口図書館に毛利文庫が受け入れられた。毛利文庫とは長州藩の歴代文書資料や古典籍、記録などを集積したもの。これが文書館を作るきっかけとなった。昭和30(1955)年の山口県地方史学会理事会で県立史料館の創立を協議したのが文書館創設運動の萌芽と思われる。
・鈴木は、本音としては図書館の書庫を増築したかったが、「書庫増築では前向きの事業にならないので、文書館創設を合わせることにしたのでは」と升井氏は推察している。
・昭和34(1959)年に新書庫が落成したが、鈴木はその後の文書館の進路について不満があった。日本史に偏っており文書館ではなく史料館になっている、県文書こそが前面に押し出されるべきと主張。
5.その後の鈴木
・昭和34(1959)年4月、日本初の図書館学専任として東洋大学に勤務。
・セイヤーズとランガナタンに関心を持つ。郷土資料について、NDCに代わる独創的な分類体系を構想し、升井氏に作成を求めていた。資料の主題と、資料に書かれている時代と、その資料が紹介している地域を組み合わせたもの。
・昭和42(1967)年1月11日逝去。
【質疑・コメント】
・鈴木は佐野友三郎をどう思っていたのか?→文章を見る限り、佐野を立てている。鈴木は館長になってからも教育長を飛ばして知事に直訴したりしている人なので、遠慮していたからとは考えにくく、本心だったのだろう。佐野の方針が気に入らなかったわけではなく、参考図書館にしたいという思いが強かったのでは。
・方針展開は非常に論争的なテーマ。公共図書館と参考図書館の思想は伝統的に対立しがち。わざわざ規定路線と違うことをしようとしたのは何故だろうか。
・鈴木が、県立図書館で児童サービスを行うことに対して否定的だったというのが興味深い。現代の県立図書館でも児童サービスを止めたところがあり、議論の的になっている。
・県立図書館と市立図書館の関係について触れられていたが、大正ごろには県と市の間に郡立図書館が存在した。郡単位で残った文書を蓄積するアーカイブ。市だけでおさまらない、たとえば水利関係の行政文書など。当時は郡単位での行政に意味があった。
・明治末からの通俗教育の流れでできた。教育参考館も郡で作っていた。郡立という名前でなくても、地元の青年団が作っていて実態としては郡立という場合もあったのでは。たとえば現在の洲本図書館は郡立図書館が元になっている。
・山口県は、私立も含めて図書館が多かった。陸軍軍人が私物の蔵書を元に文庫を築いたりしている。もちろん中央政府とのつながりが強かったり、毛利文庫にも藩校の資料がある。戦前から一般公開していたのか。素地があったのか。
・鈴木のキャリアにおいて、戦前の目録屋-戦後の保存屋という二つの顔はどう繋がるのか。配布資料の著作一覧を見ても、戦後には目録に関する論文を書かなくなっている。→戦前にあちこちで論争しているのは、標準分類表制定に関わるものであり、それが確立してしまったので論ずる必要がなくなったのでは。逆に、文書に関する関心は戦前にも持っていたのだろうか。
終了後、懇親会が開かれた。
2013年8月5日月曜日
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