第25回勉強会(2015年1月18日)報告
「伏見の図書館史」
日時:2015年1月18日(日) 14:00-17:00
会場:京都商工会議所 第一会議室
発表者:小篠景子氏
参加者数:12名
当日の出席者によるtwitter上のつぶやきをまとめたものはこちら
0.伏見の図書館について
・明治以降の大まかな流れ。伏見集書会社の時代→伏見十六会による図書館経営の時代(伏見文庫→伏見図書館)→京都府立図書館伏見分館の時代。
・京都集書院の設立にかかわった京都集書会社。この支部のような形で、伏見集書会社が明治5年に設立した。開始後5年で解散。
・並松信久氏の論文では、のちの伏見文庫は伏見集書会社を接収してつくられたとしている。ただしこの説の根拠となった史料は不明。
1.人見喜三郎と伏見十六会
・伏見十六会の生みの親が人見喜三郎。兵庫県の出身で、11-12歳頃に伏見に出てきて丁稚奉公。当時から読書家であった。
・明治41年~43年まで伏見町長を務めた。当時の伏見町は、陸軍第十六師団誘致に関わる寄付金の工面など、色々な課題を抱えていたが、これらを解決。本人によると、町長は自分の希望ではなく、十六会の反対勢力による悪意の推薦によりやむなく就任したとしている。
・伏見十六会とは、明治28(1895)年、人見ら16名の青年により設立された社会事業団体。設立の背景として、当時の伏見の衰退がある。
・また、明治25年頃設立の良友倶楽部という団体があった。各種職業の青年が集まって自分の調べてきたことを発表研究する集まりであったが、27年頃には活動が形骸化していた。人見は実業家としての活動ができる団体の必要性を感じ、同じ商店員の村田・安良とともに脱会して伏見十六会を設立。
2.伏見十六会の事業
・貯金部。資金がなくてはどうしようもないということで、明治28(1895)年から貯金部の活動を開始。当初は小口貯金だったが、日清戦争後の恐慌時に、営業資金の貸付や住宅購入補助なども開始。また元々は年一回の抽選で前渡金を受け取る頼母子講方式であったものを、大正3(1914)年の規約改正により貯金のみを目的とする仕組みとした。
・伏見信用組合。伏見十六会を母体として、明治38(1905)年に設立。頼母子講に対する取締まりの強化なども背景にあった。伏見十六会破綻後も営業を続け、伏見信用金庫となり、平成13(2001)年に京都中央信用金庫へ事業譲渡。
・教育部。大正4(1915)~12(1923)年の私立伏見実業補習学校。大正5(1916)年~の伏見商業学校。これは伏見十六会破綻後に京都市へ移管され、現在の京都市立桃山中学校の前身となった。
・救済部。明治40(1907)年創設。奨学金、無料診療所済生園など。
・出版事業。明治39(1906)年、伏見で初めての新聞である『伏見実業新報』創刊。のち十六新聞と改め、明治41(1908)年に『明治新聞』へ号数引継ぎ。大正2(1913)年からは伏見十六会専属の機関誌『十六会報』を創刊。いずれも現存不明。ほか、図書も刊行。
3.国の動きとの関連
・明治40(1907)年、大日本産業組合中央会会頭の平田東助が伏見十六会を視察。これをきっかけに内務省嘱託の留岡幸助、内務参事官井上友一と接触。明治41(1908)年に社団法人化。
・背景には地方改良運動の存在。内務官僚を中心に、大衆みずから地方の自治振興に協力していくことを奨励する動き。全国的に、この気運にのって設立された図書館も多い。
・伏見十六会は地方改良運動を進める立場から見て良いモデルケースであったらしく、多くの視察を受け入れ、『斯民』『産業組合』『社会事業』などの雑誌に掲載されている。
4.伏見十六会の図書館
・明治38(1905)年9月、日露戦争の戦勝記念事業として伏見文庫を設立。
・伏見十六会会員は雇われ人が多く、読書の資金も乏しく、正式な教育を受けていない人も多かったことから、地域への教育機会の提供として行われた。
・伏見文庫には誰でも入会可能。会費制。貸出も行っていた。
・文庫長は尋常小学校長、幹事は教育家と伏見十六会役員が半数ずつ。前者は選書等、後者は庶務会計を担当。
・京都府立図書館からの貸与も受けた。
・大正4(1915)年、新たに建物を作って伏見図書館を設立。設立申請の行政文書が京都府立総合資料館にある。当時の新聞記事によると、開館式には京都府立図書館長の湯浅による講演も行われた。
・伏見図書館は大正11(1922)年に移転。隣接していた商業学校に建物を譲って、十六会事務所の一部に入る。
・館長は伏見町の高等小学校長。幹事は伏見町の小学校教員から嘱託し、選書等。事務は伏見十六会員が行った。
・伏見図書館になって貸出を廃止。理由は閲覧室が整備されたこと。
・文庫時代から図書館基本金を積み立て、この利子を運営資金にあてていた。会合に遅刻した者は図書館に寄付するというルールを設けたりしていた。
・大正10(1921)年文部省による「全国図書館に関する調査」から、私立図書館の平均と伏見図書館を比較。蔵書冊数で5千冊程度、一日閲覧人数で5名程度、費用で300円程度伏見図書館の方が上回っている。なお同調査では伏見図書館の附帯事業として「運動倶楽部」を挙げているが、内容不明。
5.伏見十六会の破綻
・昭和8(1933)年2月、人見死去。
・昭和9(1934)年、伏見十六会が破綻。当時の新聞によると、昭和7(1932)年に貯金事業が銀行法に抵触するとの指摘を受けたことが背景にあり、貸付金の回収が難航したことなどで取り付け騒ぎに至った。
・伏見図書館は昭和9(1934)年6月の京都府広報で廃止認可。その後の消息は不明。
・旧蔵書の行方。京都府立総合資料館、立命館大学図書館の所蔵する資料に「伏見図書館」の印記を持つものがある。また、昭和10年付けで京都府立京都図書館に寄贈された資料に「これと同じ複本を伏見図書館に寄贈した」と著者により書かれているものがある。詳細は不明。
6.戦後の伏見の図書館
・昭和25(1950)年、伏見信用組合の2階に京都府立図書館伏見分館を開館。
・昭和29(1954)年、館舎を新たに建設して伏見分館移転。建設にあたっては土地の寄付など、地域から支援があったとされている。
・昭和62(1987)年、京都市伏見中央図書館が開館。翌年3月に伏見分館が閉館。
7.質疑(主なもののみ、適宜まとめている)
・伏見図書館が設立された当時(大正11年頃)、伏見図書館のような存在は珍しかったか?
→似た活動をしているところはある程度あった。青年団が公民館の一室を図書室として開放していたようなものがこれにあたる。
・伏見図書館に勤めていた書記の月給15円は、給与として高かったのか?
→かなり安かった。同時期の尋常小学校教員の初任給が50円ほどだったことからも、現在のアルバイトもしくはパートのようなもので、書記だけで生活していくことはできなかったと考えられる。
・昭和2(1927)年の金融恐慌と昭和5(1930)年の昭和恐慌の伏見図書館への影響は
→金融恐慌の影響に関しては、否定はできないものの乗り切ることに成功したとみられる。一方の昭和恐慌の影響は大きく、不動産担保貸付金の回収が困難になるなどした。
・十六会が破綻したのちも、伏見信用組合は伏見信用金庫として存続した。信用組合はあくまで十六会を母体として設立されたのであり、十六会が破綻したからといって信用組合も破綻することはなかった。なお、伏見信用金庫は平成13(2001)年まで営業を続け、京都中央信用金庫に事業譲渡した。
・伏見図書館が所蔵していた饗庭篁村『曲亭馬琴』(児童読本第5編、博文館、1912年)は現在立命館大学図書館に入っているがなぜなのか?
→立命館大学には後藤丹治という軍記物語の研究者がおり、この資料の書誌情報にも「後藤蔵書」印がある。そのため、後藤の研究のために立命館大学にはいったのではないか。他の伏見図書館の蔵書も、閉館後は分野ごとに分かれてさまざまな機関に移動していったのではないか。
終了後、懇親会が行われた。
2015年1月26日月曜日
登録:
コメントの投稿 (Atom)
0 件のコメント:
コメントを投稿