日時:2012年2月26日(日) 14:00〜17:00
会場:京都市勧業館みやこめっせ第3多目的室
発表者:岡野裕行氏(皇學館大学文学部国文学科助教)
今回の発表では、岡野裕行「内なるMLA連携―日本近代文学館」NPO知的資源イニシアティブ編『デジタル文化資源の活用』(勉誠出版、2011)所収の内容を踏まえ、日本近代文学館設立に関わった様々な人々の考え方、協力の仕方が紹介された。
当日の関連するつぶやきをまとめたtogetterはこちらを参照
参考:日本近代文学館ホームページ
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はじめに発表者から、どうして文学館の問題に取り組むようになったのか、自己紹介を兼ねた説明があった。図書館と文学をつなぐ視点を模索してきたという発表者は、はじめ書誌学(個人書誌)の作成を軸に研究活動を行ってきたが、より図書館に即した視点を考えているうちに、調査で利用していた文学館の機能そのものに注目するようになったという。文学館は博物館の一形態とみなされることもあるが、図書館の機能、アーカイブズの機能も備えている。発表者は2009年に文学館研究会も立ち上げ、文学資料の所在調査を行なってきたという。ここ最近は文学散歩、まちあるき、まちづくりというように、文学というテーマをもとにして、地域社会における文化情報資源の活用にも関心を拡げているとのことである。
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以下、発表の内容である。発表は、日本近代文学館の歴史に沿って進められ、大きく分けて、設立の背景、初期の活動、サービスの順に展開していった。
日本近代文学館は、1962年に設立され、1967年に開館した。それまでも文学者を顕彰する形で、記念館は設立されていたが、固有名詞として「文学館」という名称を持つ施設はこれが初めてであり、以後全国に同じような施設が普及していった。なお、当初「プロレタリア文学図書館」「近代文学図書館」などの名称が考えられていたことに示されるように、そもそも文学館は図書館としての機能を期待されていた部分があった。また、プロレタリア文学の資料がもっとも散逸しやすかったということで、逆に資料保存の機運が高まっていたことも興味深い。
(文学館設立の背景)
文学館設立の背景になったのは、1961年に立教大学の小田切進研究室が学園祭で行った「大正昭和主要文芸雑誌展」である。文芸雑誌をまとまった形で見ることができなかった時期に、雑誌を集めて展示することは大きなインパクトがあった。ここから文芸雑誌など散逸しやすい資料収集保存が必要との問題意識が生まれ、文学館設立に向けた動きが進められていく。主な活動の中心となった人物は、小田切進と、川端康成そして高見順だった。
(活動初期の協力者)
文学館の設立には、多くの理解と協力・連携が必要不可欠であった。
文学館の設立にあたっては、学界・文壇・作家の遺族・出版業界・古書店業界・マスコミ・図書館業界・政財界さらに百貨店業界の協力があった。文壇関係者では、高見順・伊藤整らは、自らが文学の歴史を編んだ経験から、文学館設立の必要を認識しており、川端康成は、とくに広告塔として各方面への助力に奔走したとされる。初代理事長になった高見も、病をおして文学館設立の必要を訴え続け、その姿がマスコミに取り上げられることにより、設立の機運を醸成した。また、古書店業界からは、本郷・ペリカン書房の品川力が、文学館の意義を認めて商品を寄贈するという破格の協力を申し出た例もあった。品川力文庫目録として彼の資料は今も文学館に大切に残されている。
また、文学館がまだ竣工していない1964年の時点で、活動の意義が認められ菊池寛賞を受賞し、マスコミに大きく取り上げられたことが、決して順調ではなかった文学館設立への追い風になったと、当時を知る人は回顧している。また、文学館の建物が駒場に経つ以前には、日本近代文学館文庫が1964年に国立国会図書館支部上野図書館の片隅に開設された。このとき、森清をはじめとする整理担当職員が協力して、「日本近代文学館分類法」を作成している。同じ時期には、文学館では百貨店と連携しての展示活動なども積極的に行っていた。
(初期の文学館職員と図書館的業務)
活動初期の図書館的業務を担う職員として、約10年の現場経験を持つ大久保乙彦という人物が、都立日比谷図書館から移籍してきた。文学館が文学研究のための専門図書館を目指そうとする際に、専門知識を持つ職員が必要とされたため、設立運動関係者の一人と学生時代のからの友人であった大久保に白羽の矢が立った。(岡野裕行「文学館業務を形作った図書館職員・大久保乙彦の活動:1960年代の都立日比谷図書館と日本近代文学館」『第57回日本図書館情報学会研究大会発表要綱』2009,p.57-60)
文学館は、そのサービスとして資料提供と展示などの活動を中心に行っているが、そのほかにも初版本の復刻事業を積極的に行っていった。これらは図書館などの施設だけでなく、高度成長期のなかで家庭向けにもかなりの数が売れ、初期の文学館の財政面を助けたと考えられる。
主な質疑とその応答は以下の通り 。
- 【会場】「文学館」の名前が出て来た経緯は面白い。スタッフに図書館の人もいるのに、なぜ最終的に図書館にしなかったのか?→【岡野】展示機能を重視するなど、図書館機能に収まらない部分が大きかったからだと思われる。なお、初期の関係者にプロレタリア文学研究の人が多く、図書館といって直ちに連想されるような公立の施設にはしたくなったということも考えられる(事務局注:日本近代文学館は設立当初から独立財政の施設であり、現在では公益財団法人の運営である)。
- 【会場】図書館サービスと図書館の自己認識はつながっているように思うが、同じような意味で文学館サービスというものが一般的に考えられるのか?→【岡野】文学館の存在形態が多種多様であり、ケースバイケースのところはある。
- 【会場】50~60年代の歴史学の分野で起こっていた資料保存の運動と、一連の動きとして捉えたら色々見えてくるものがあるのではないか。国文学研究資料館の設立の動きや、憲政資料室の一般公開、常民文化研究所、さらに学術会議の答申など。上から下までといっていいかわからないが、大きなうねりの中にあった出来事だと思う。
- 【会場】『中小レポート』と同じ時期の話なのだけれど、あの経験が生きてハコがどんどん作られていったという通説はなく、実態はハコがあり、そのなかから成功事例が出て来たのではないかと思っている。今回の事例は、『中小レポート』の読み直しにも関わってくる気がして面白い。
- 【会場】資料収集の基準は、開館当初と今では違うかもしれないし、また文学館がケースバイケースのところがあるので一般化できないかもしれないが、資料で見たとき、雑誌を重視するのか、作家の手紙を重視するのか、当初の方針ではどちらにウェイトがあったのか。→【岡野】何でも漏れなく集める方針だったと思う。ただし、複本をはじいたりせず、誰々が持っていた蔵書ということで、ある種原秩序のまま保存しようというアーカイブズ的な発想は当初からあった。→【会場】そのなかでもこれは文学館資料、これは要らないもの、という線引きは為されたはずで、捨てられてしまったものはもう確かめようがないかもしれないが、実はその部分が文学館のアイデンティティにも関わってくるのではないか。
- 【会場】文学館の協力者たちのなかで、とくに事務員が主体性を発揮している様子が面白かった。彼らの思想がどういうものであったか、聞き取りや館の編集物を通じて掘り下げていったら、すでに質問が出たことにさらに色々な角度から光があてられると思う。
勉強会開始以来最高人数の出席者を得て、活発な議論が行われた。
終了後は懇親会が催された。
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