「和田万吉の事績と大学図書館」
―『図書館を育てた人々 日本編I』を読む(8)
森崎震二「国際感覚で指摘した図書館発展への道 和田萬吉」
日時:2012年8月5日(日) 9:00-11:30
会場:コミュニティ嵯峨野
発表者:長尾宗典(国立国会図書館関西館)大学図書館問題研究会全国大会の第六分科会大学図書館史に関する分科会との共催の形で、第14回の勉強会を行ないました。文脈の会の輪読形式にのっとって、テキストから和田万吉を取り上げました。
大会の企画についてはこちらをご参照ください。
以下に発表の概要を掲げて、勉強会報告に代えさせていただきます。
朝早くから、また普段の文脈の会だけでは集まることが難しい、各地の大学図書館の方にお集まりいただき、分科会幹事の方をはじめ、ご参加いただいたみなさまにはこの場を借りて厚くお礼申しあげます。
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今回の報告では、初代東京帝国大学附属図書館長の和田万吉を取り上げ、その事績を紹介し、彼と大学図書館との関わりを考えた。和田は、「欧米の図書館学を日本化した」「近代図書館建設の第一人者」(武居権内)という評価が存在するが、和田自身は、図書館学に限らず書誌学や古典文学や歴史についての浩瀚な著作群があり、また「終生大学図書館長であったにもかかわらず、大学図書館を正面からとりあげて論じた文章は一篇もない」(岩猿敏生)ため、本格的な研究がなされていない。ただ、そのような和田を取り上げることで、公共図書館史の研究が中心であった研究状況下で、帝国図書館や大学図書館などの参考図書館がはたしてきた役割の意味を問い直し、図書館とは何かを考え直すヒントは得られるのではないかと提起した。
報告は彼の前半生と後半生にわけ、前半を「和田万吉と大学図書館」後半を「図書館学の形成」とした。
前半では、和田万吉の若い頃をまとめた。和田万吉は大垣藩の出身で、大学では国文学を専攻した。多方面の学芸に達し、厳格な学者肌ではあるが、滑稽を解する一面もあったという。また、食通ではあるが、酒は嫌いであったという回顧もある。和田が帝国大学図書館に勤務を始めたのは明治23年、そのときの「管理」だった田中稲城の下で、『帝国大学図書館和漢書分類目録』(1893)の編纂に携わり、また自身が田中の後をうけて管理心得に就任すると、明治29年(1896)6月、31歳のときに「帝国大学図書館ノ規模拡張ニ関スル建議」を総長宛に提出し、職務人員、待遇、勤務時間、評議会の設置、図書館学を一個の専門学科とする立場から、職名などについて改善を求めて行った。またこの間、日本文庫協会(日本図書館協会)では幹事となって主として機関誌の発行のために尽力したが、慎重派の田中稲城会長との間にはしばしば意見の対立があったことを紹介した。
後半では、和田が図書館学を形成していく過程を扱ったが、そのなかで大きな転機となったのは、明治42年(1909)の約1年間にわたる欧米視察だったのではないかと指摘した。このとき和田は学校図書館を中心に大小合わせて100余りを視察したが、それまで文献を通じてのみ把握していた欧米の現場では、いまだ「旧風」が残っており、また図書館学を専門学科としない風潮があった。和田はこのことに驚き、戸惑ってしまったのである。この体験は、欧米図書館の理想化・絶対化から離れ、是々非々で欧米図書館事情を考える方向へ、和田自身の視点が移動したことを意味すると思われ、同時に、和田自身の図書館学構築への意志の基底にあったとも考えられる。和田が日本や欧米の図書館史を研究し始めるのは、各国の図書館の発展段階、特徴への理解を深め、先進的な事情を性急に輸入するのではなく、「之を持つに到るだけの苦労」が何なのかを確かめることが必要であるとの思いによっていた。
こうして和田は、大正7年(1918)3月に東京帝国大学文科大学教授になると、国語学国文学第一講座担任となり書史学を講じた。この講義草稿は、未発表であったが、「図書館学大綱」として弥吉光長により復刻されている。同講義は「内外の学問に従いながら、かなり程度の高い進んだ体系」と評価されている。和田によれば、図書館学とは、図書館を経営するに必須の事項を研究する学問で1.図書館即ち図書の置場に関する研究=図書館管理法(Library Economy)と、2.図書館其物に関する研究=書史(誌)学(bibliography)から構成される。講義中では厳しい「図書館長」の条件なども述べられており、非常に興味深い。
大正後期の和田は、図書館学の構築とともに、機をとらえて様々な発言を行なっていた。テキストでも、和田のこの時期の活動は大正デモクラシー下の提言として高く評価されている。「地方文化の中心としての図書館」等、民衆文化に共感し、公共図書館の拡充を訴えるものも多いという評価である。
研究史上では、同時期の「図書館運動の第二期」『図書館雑誌』第50号(1922.7)もそうした評価の上に解釈されており、『中小レポート』などでも、一層の公共図書館の拡充を謳ったもののように受け止められている。しかし、和田自身は同論文でもう少し違うことを提起しようとしていたのではないか、というのが本報告の最大の論点であった。同論文は、①既成図書館の充実、②図書館の普及、③館種の違いの意識、④国立図書館の充実、⑤学校図書館の発達の5点を掲げているが、その中で、なんと和田は、「図書館事業が今日行詰つたやうに見えるは、世間をして図書館を余りに単調のものゝ如く見させた所の結果もあるかと思はれます。即ち今日の図書館は男女老幼貴賎上下の一般に広く公共図書館(Public Library)で無ければならぬと固く思込ませ過ぎたやうであります」と言い切っているのである。とすれば、第二期に入った図書館運動の中で和田が必要と考えていたのは、素直に読めば、館種の個性を発揮して図書館の普及に努めて行こうという希望ということになる。
そのなかに、実は一篇も主題として書かれたことのないと言われている和田の「大学図書館」についての意見を読み取ることも可能なのではないか。「大学図書館」論が戦前期にあまり発展しなかったとすれば、その理由を大正後期以降の和田の図書館論を読み直すことも、「大学図書館史」を考える上では貴重な示唆を与えてくれるのではないかと結論付けた。
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