『図書館を育てた人々 日本編I』を読む
(9)升井卓弥「反骨の図書館学文献学者:鈴木賢祐」
日時:2013年7月28日(日) 14:00-17:00
会場:京都商工会議所 第三会議室
発表者:服部 智氏
出席者:10名
今回はテキストから、和歌山高商図書館、県立山口図書館などに勤務し、『図書館雑誌』の編集委員も務めた鈴木賢祐を取り上げ、輪読を行った。当日のtwitterによるつぶやきをまとめたまとめはこちら
0.鈴木賢祐の略歴
・明治30(1897)年、出生。吉敷郡小郡町出身。
・大正12(1923)年より、和歌山高商図書館に勤務。その後上海の近代科学図書館、九州帝国大学などで勤務。
・昭和15(1940)年より、『図書館雑誌』編集委員を務める。
・昭和25(1950)年より、山口県立山口図書館で館長を務める。
1.和歌山高商時代
1-1.和歌山高商での鈴木
・鈴木の図書館員としてのキャリアは大正8(1919)年5月、大阪府立図書館への就職をもって始まる。この頃は図書館より創作に興味があり、劇作家等と接近。
・大正12(1923)年11月、和歌山高等商業学校に移る。この頃カッターの展開分類法されたが、鈴木はこれに傾倒。DC(デューイ十進分類法)、
EC(展開分類法)、LC(議会図書館分類法、SC(件名分類法)と比較し、「これらの中でも東洋的文献の分類に適し」ていると評価。自ら展開分類法日本版を作成。
・この時期、毎年数編のペースで論文を発表。青年図書館員聯盟の機関誌『?研究』(?=くにがまえの中に「書」)を主な発表の場とした。
・昭和2(1927)年、『図書館雑誌』21(1)に掲載された「我が国図書館の浄化」など、全国専門高等学校図書館協議会への批判を多く行った。「我が国~」は、媒体に載った鈴木の最初の論考であり、優秀な図書館員がいない理由として待遇の低さと専門養成機関の未備を挙げ、かなり強い調子で専門職養成の提案を行っている。
1-2.標準分類表をめぐる論争
・大正15(1926)年に全国専門高等学校図書館協議会の第三回大会で、中島猶次郎起草の標準分類表具体案が提出され、翌年これを基礎として第三区分まで展開された案を理事校が提出。この両案につき、鈴木は3つの点から批判を行った。
・批判点その1:手続き上の難点。26年案は理事会一任となっていたが、27年案については決議の準備ができていない。また、協議会外部の権威者・諸団体との連携が不十分。
・批判点その2:制定方針上の難点。両分類表案は粗略であり、大規模館から小規模館まで等しく使えるものになっていない。
・批判点その3:体系自体の難点。本案の元になったデューイ十進分類法には難点もあるが、普及している。本案のように改修して使うのではメリットはない。原体系とまったく異なる「理想的な日本体系」を作るか、せめてデューイ十進分類法の難点を訂正すべき。
・昭和4(1929)年8月に分類表三案が刊行された。乙部泉三郎、毛利宮彦、森清の案。鈴木はこれらを検討し、リチャードソンの「実用分類法の標準」およびこれに対するセイヤーズの指摘を折衷した基準によって比較。その結果、森案のみが標準分類表としての要件備えていると評価した。翌年には、これに対する毛利宮彦の反論に再反論。
・標準分類表に関して、和田万吉とも論争を展開。「個々の図書館員が自ら学問的知識を身につけ、帝国図書館の分類表など既存の分類表を参考にしながら運用すればよいのではという和田に対し、変通性を維持しながら個々の図書館員の無駄を省くのが標準分類表であると主張。
・目録体系について田中敬にも疑問を示した。
・升井氏のテキストによると「用語問題には余裕を示」していたとあるが、原典に照らして明らかな誤用には厳しい姿勢。
2.『図書館雑誌』編集委員時代
・昭和12(1937)年4月、和歌山高商を退職。会計係との衝突がきっかけだったとも言われる。
・同年12月、上海近代科学図書館に移る。これは北清事変の賠償金で作られた文化施設であり、鈴木と同時に森清が渡っている。
・昭和14(1939)年8月、九州帝国大学に移る。
・この時期、米国議会図書館(LC)でHervert Putnamに代わりArchibald MacLeishが就任。MacLeishは図書館業務に関して門外漢であったため、ALA挙げて反対運動が起こる。背後にはLCの立法参考部長であったGeorge J.Schulzが年報で館の内情とPutnam館長を批判し、罷免されるに至った事件があったとされる。鈴木はこの館長人事を嘆き、あわせて日本の館長人事を批判。
・昭和15(1940)年4月、図書館雑誌の編集委員に就任。同年7月に東京帝国大学に移る。
・昭和17(1942)年に東京帝大を辞職。同年日本図書館協会の主事、翌年理事となる。
・昭和19(1944)年12月に満州国中央図書館に移る。
・昭和23(1948)年12月再び東京大学図書館へ。翌年には図書館職員養成所講師を兼務。
【質疑・コメント】
・和歌山高商を退職した理由は会計係との衝突とあるが、何があったのか。→冊子体の目録を刊行した際、費用のことで揉めたようだ。
・上海近代科学図書館では館運営をめぐって鈴木が館長と対立し、森清が館を去ることになったらしい。→鈴木は「一流人にはここは合わない」といった批判を残している。また鈴木が亡くなった際に間宮不二雄が述べた弔辞によれば、上海に行った時点から本意ではなかったようだ。
・日本の館長人事を批評した際、鈴木は「女学校長ノ古手デアラウト又ハ新聞記者の上リデアラウト」と述べているが、ここで具体的に誰かを想定していたのか。→不明。
・LC館長問題に関連して。Schulz事件の後LC事務局の理事にベルナール・クラップという人物が就任しているが、これはのちにGHQのクラップ勧告を行ったバーナード・クラップのことか。→そう。
4.山口県立山口図書館長時代
4-1.山口図書館長としての鈴木
・昭和25(1950)年6月、山口県立山口図書館長に就任。終戦直後で混乱していた図書館の運営を立て直した。混乱ぶりの一例として、県立山口図書館は、戦争末期に山口県の県紙(新聞統制令のため県に1紙とされていた)である防長新聞の社屋として提供されており、これが1950年まで続いていた。
・県立山口図書館の初代館長は佐野友三郎(明治36(1903)~大正9(1920)年)。当時山口図書館では当時としては先進的なサービスが色々実施されていた。これらは佐野が始めたもの。児童室、夜間開館、巡回文庫、公開書架など。
・山口図書館長としての鈴木は、児童室を廃止して山口市立児童図書館の新設援助を行うなど、多くの事業を行った。山口図書館は参考図書館としてあるべきと考え、個人貸し出し用の図書収集は圧縮。統計を取った時、参考図書の割合が高すぎて間違いだと思われたというエピソードがあるほど。こうした方針の背景に、それまで大学図書館や専門図書館を多く経験してきた鈴木のキャリアがあるかもしれない。
・佐野館長以来採用されてきた山口図書館式分類法という独自の十進分類法があったが、当時この分類法は行き詰まりつつあった。鈴木の館長就任とNDC6版の交付をきっかけに資料の再整備が行われた。
・新しい整理体系では、NDC6版を最大限展開して採用。文学には分類記号を与えない、別置記号を分類記号に冠するなどの特色があった。
・『山口図書館だより』において、鈴木は県立図書館の持つ性格や、市立図書館との役割分担などについて言及。佐野館長以来の児童サービスについては、「利用者圏が最も局限されがちな性質のもの」であり、全圏域を対象とする建前の県立図書館で敢えて実施することの意味を問うている。
4-2.人材育成
・昭和25(1950)年4月に図書館法が公布され、司書・司書補という職種が設定された。現職者のため、昭和26(1951)年から旧帝大を中心とした全国の大学で司書講座を開設。鈴木も九州大・広島大・山口大などで司書講座の講義を担当。講義が分かりにくいと、受講生からの評判はあまり良くなかった。昭和32(1957)年の山口大での講義では持ち時間の半分を升井氏に話させたりしており、鈴木自身も欠点は自覚していた模様。
4-3.山口県文書館の創設
・山口県文書館は日本最初の文書館であり、昭和34(1959)年開館。実現まで5年かかった。これに先立ち鈴木は、昭和32(1957)年の論文の中で文書館の歴史を概察し意義を述べている。
・山口文書館創設の略年表。昭和26(1951)年に山口図書館に毛利文庫が受け入れられた。毛利文庫とは長州藩の歴代文書資料や古典籍、記録などを集積したもの。これが文書館を作るきっかけとなった。昭和30(1955)年の山口県地方史学会理事会で県立史料館の創立を協議したのが文書館創設運動の萌芽と思われる。
・鈴木は、本音としては図書館の書庫を増築したかったが、「書庫増築では前向きの事業にならないので、文書館創設を合わせることにしたのでは」と升井氏は推察している。
・昭和34(1959)年に新書庫が落成したが、鈴木はその後の文書館の進路について不満があった。日本史に偏っており文書館ではなく史料館になっている、県文書こそが前面に押し出されるべきと主張。
5.その後の鈴木
・昭和34(1959)年4月、日本初の図書館学専任として東洋大学に勤務。
・セイヤーズとランガナタンに関心を持つ。郷土資料について、NDCに代わる独創的な分類体系を構想し、升井氏に作成を求めていた。資料の主題と、資料に書かれている時代と、その資料が紹介している地域を組み合わせたもの。
・昭和42(1967)年1月11日逝去。
【質疑・コメント】
・鈴木は佐野友三郎をどう思っていたのか?→文章を見る限り、佐野を立てている。鈴木は館長になってからも教育長を飛ばして知事に直訴したりしている人なので、遠慮していたからとは考えにくく、本心だったのだろう。佐野の方針が気に入らなかったわけではなく、参考図書館にしたいという思いが強かったのでは。
・方針展開は非常に論争的なテーマ。公共図書館と参考図書館の思想は伝統的に対立しがち。わざわざ規定路線と違うことをしようとしたのは何故だろうか。
・鈴木が、県立図書館で児童サービスを行うことに対して否定的だったというのが興味深い。現代の県立図書館でも児童サービスを止めたところがあり、議論の的になっている。
・県立図書館と市立図書館の関係について触れられていたが、大正ごろには県と市の間に郡立図書館が存在した。郡単位で残った文書を蓄積するアーカイブ。市だけでおさまらない、たとえば水利関係の行政文書など。当時は郡単位での行政に意味があった。
・明治末からの通俗教育の流れでできた。教育参考館も郡で作っていた。郡立という名前でなくても、地元の青年団が作っていて実態としては郡立という場合もあったのでは。たとえば現在の洲本図書館は郡立図書館が元になっている。
・山口県は、私立も含めて図書館が多かった。陸軍軍人が私物の蔵書を元に文庫を築いたりしている。もちろん中央政府とのつながりが強かったり、毛利文庫にも藩校の資料がある。戦前から一般公開していたのか。素地があったのか。
・鈴木のキャリアにおいて、戦前の目録屋-戦後の保存屋という二つの顔はどう繋がるのか。配布資料の著作一覧を見ても、戦後には目録に関する論文を書かなくなっている。→戦前にあちこちで論争しているのは、標準分類表制定に関わるものであり、それが確立してしまったので論ずる必要がなくなったのでは。逆に、文書に関する関心は戦前にも持っていたのだろうか。
終了後、懇親会が開かれた。
2013年8月5日月曜日
2013年6月26日水曜日
第19回勉強会のお知らせ
下記の日程で、第19回の勉強会を開催いたします。
御多忙のところと存じますが、ご参加をお待ちしております。
日時:2013年7月28日(日) 14:00~17:00
会場:京都商工会議所 第二会議室
※いつもの第一会議室とは異なり、3階です。ご注意ください。
発表者およびタイトルについては、決まり次第追記いたします。
→決まりました。以下の通りです(6/29)
テキスト
図書館を育てた人々. 日本編 1 / 石井敦. -- 日本図書館協会, 1983.6
http://opac.ndl.go.jp/recordid/000001644230/jpn
http://webcat.nii.ac.jp/cgi-bin/shsproc?id=BN01584842
から、「鈴木賢祐」を取り上げます。
発表者:服部 智
また、終了後は、懇親会を予定しております。
おおよその人数を把握したいので、参加ご希望の方は
会合の一週間前までを目安に、
事務局<toshokanshi.kansai @ gmail.com(@は半角)>までご一報ください。
twitterアカウント@k_context宛にご連絡いただいても構いません。
twitterアカウント@k_context宛にご連絡いただいても構いません。
2013年3月15日金曜日
第18回勉強会(2013年3月9日)報告
「図書館“展示”の歴史について」
日時:2013年3月9日(土) 14:00-17:00
会場:京都商工会議所 第一会議室
発表者:長尾 宗典氏
はじめに
今月で関西文脈の会が発足して3周年。本報告では図書館展示の「歴史的意味」について検討し、その現在の位置付けを踏まえた上で、今後の展望を考える。
1.「展示」とは何か-議論の前提として
NDLでは東京本館に展示企画係を常設しているが、関西館小展示など多くの展示は委員会組織によるプロジェクト方式で企画・実施される。委員会方式は機動力がある代わりに、本務とのバランスの取り方が難しい。しかし、図書館では展示のための常設部署を置かないのはよくあること。
展示を観る人(利用者)の意識はどうかと考えた場合、博物館・美術館と図書館を区別しないはず。博物館法では公立博物館の入館料等は原則無料としており、「無料」もあまり理由にならない。逆に近年、博物館では撮影可などの新しい試みも行われている。こうした状況を考えると、レベルの低い展示は図書館のイメージダウンになる、といえる。
翻って博物館史に目を向け、日本の博物館の系譜を概観する。明治期において、日本の博物館には共進会・古社寺保護・教育博物館など複数の源流が存在した。戦後、明治百年事業を契機として博物館の数は大きく増加する。そして博物館の役割として画期となったのが、梅棹忠夫の「博情館」構想である。今日、梅棹の構想を振り返ると、その「博物館」は「図書館」にも置き換え可能であり、この点に図書館と博物館の近縁性を見ることもできる。
それでは「展示」とは何か。用語としては、古くは「展覧」「陳列」。パリ万博が転回点となり、第二次大戦前夜には「物の観方」を提示する方へ傾いてゆく。
2.図書館″展示″の歴史
図書館学者の意見としては、展示(陳列)について肯定的なものが多い。法規的基礎の問題として考えた場合、改正図書館令(1933)において「附帯施設」条項が追加されたことが一つの画期といえる。この条項は、松尾友雄と中田邦造によるいわゆる「附帯施設論争」で知られるが、その中で「図書館は図書館として発達せしめよ」と論じた中田も、「展示」は図書館業務と考えていた形跡がみられる。そして戦後の図書館法(1950)で、図書館奉仕としての「展示」が位置づけられるに至る。
戦前~戦後の主な図書館「展示」から指摘できるいくつかの傾向としては、「陳列」から「主題展示」への変遷、会期の長期化、展示資料点数の漸減、展示対象の多様化、が挙げられる。
3.図書館“展示”の意味とは?
これまでの図書館における展示には貴重書重視の傾向があったが、実際には必ずしも古典籍に限らないニーズがある。また古典籍は資料管理などの点で展示する際のハードルが高く、企画によっては単なる「陳列」になってしまうこともありうる。「とりあえず古典籍」という展示はそろそろ飽きられる。観た人に強い印象を残せるのがいい展示であり、規模はあまりリンクしなくなりつつある。
職員のスキルアップのみを目標にしていいのか、という点も問題。図書館には資料についての「調査研究」義務はない。また図書館の展示は図書館奉仕であることから、職員以上に来館者の認識を高めることが重要になる。外部有識者に監修を依頼するのも一手ではないか。
展示を広報戦略としてとらえた場合、どのレベルでの理解を求めるのか。Accountabilityを展示する、というのは一つのスタンス。レファレンスと絡めるのもありうる。
また、「展示」を見てもらう前提として、会場に来てもらわねばならない。遠隔サービスの拠点を謳う関西館で一生懸命「展示」する、というのは矛盾していないか。「集客」という指標の呪縛がある。この点をフォローするには、来場者へのお土産を充実させたり、巡回展示を企画するなど、その場にとどまらない工夫が必要。
おわりに-これからの図書館“展示”は何をするのか?
「図書館の展示を企画すること」は「新たな文脈を作ること」。
主な質疑は以下のとおり
・博物館でしているのは「展示のための研究」ではない。研究しているから展示をする。
図書館で外部から人を呼んでまで展示をする意味は何か。
図書館で外部から人を呼んでまで展示をする意味は何か。
→少なくともNDL、大学図書館は意味があるはず。
図書館も諸館種ある中で、「展示」の在り方・意味を一律に規定する
のは難しい。が、少なくとも学術情報支援を目的としている図書館は、
職員がもっと資料研究すべき。
のは難しい。が、少なくとも学術情報支援を目的としている図書館は、
職員がもっと資料研究すべき。
・「博物館」とは何か、という合意は博物館関係者の間でも取れていない
=議論の基盤がない。では「図書館」はどうか?
→「文化資源を見せる」ということから機能を再定義する、のもありでは
ないか。
ないか。
・図書館展示の特徴として、「無料」であることがよく挙げられる。
しかしあまり認識されていないが、展示にかけるコストの問題がある。
→コストを抑えるためにもコンテンツの蓄積が必要
(使いまわせるものは使いまわす)
・常設の展示スペースを設けてはどうか。
→情報提供目的。(@滋賀県の図書館)
現実的には利用者の導線設定が課題だが、これは提供側の意識。
利用者側からみるとどうか?
・誰と、どういう関係を結びたいか、によって展示コンセプトは決まるはず
→一例としてはベタな資料をうまく展示することで、日頃そういった
資料に触れる機会のない人に働きかけるアプローチが考えられる。
資料に触れる機会のない人に働きかけるアプローチが考えられる。
→「広報としての展示」と考えるなら、しっかりマーケティングすべき。
また単発で終わらせてはいけない。
・デジタルの展示について。正直見にくい。
←多くのデジタルコンテンツの主たる利点は検索できることなので、
見やすさは第一優先ではないのでは?
・デジタル展示先行型としては、NDLの「本の万華鏡」がある。
コストを下げる&ロングテールを狙う。
近代デジタルライブラリーのPRという目的も。
※著作権が存続している資料は著作権の問題がネックになり、古い資料に
流れがち。(現物の展示はできるが、ネットに上げられない)
→Webとリアルの展示手法組み合わせ
*図書館(文字情報)のほうが博物館(立体)よりアドバンテージが
あるかもしれない。
・展示のノウハウの蓄積が必要。
→展示リストの記録・公開
→図書館「展示」の理論化 *大学図書館で2000年以降活性化
※博物館でもあまり理論化されているわけではない。しかし近年、
学芸員資格のための科目において、展示について多くのページを
割いた教科書が出てきている。
学芸員資格のための科目において、展示について多くのページを
割いた教科書が出てきている。
そのほか、展示のあり方・方向性について、活発な意見交換がなされた。
終了後は懇親会が催された。
2013年2月14日木曜日
第18回勉強会のお知らせ
下記の日程で、第18回の勉強会を開催いたします。
御多忙のところと存じますが、ご参加をお待ちしております。
今回は長尾が、日本の図書館の展示について、明治以来のあゆみを振り返りつつ、取り上げます。発表者自身が担当した展示会経験を踏まえて、図書館の「展示」活動というのはどういう風にしたらよいだろうということをみなさまと共有させていただけたらと思っております。
日時:2013年3月9日(土) 14:00~17:00
会場:京都商工会議所 第一会議室
発表者:長尾 宗典(国立国会図書館関西館)
タイトル:「図書館“展示”の歴史について」
また、終了後は、懇親会を予定しております。
おおよその人数を把握したいので、参加ご希望の方は
会合の一週間前までを目安に、
事務局<toshokanshi.kansai @ gmail.com(@は半角)>までご一報ください。
twitterアカウント@k_context宛にご連絡いただいても構いません。
twitterアカウント@k_context宛にご連絡いただいても構いません。
どうぞよろしくお願いいたします。
2013/3/6 追記 ***************************************
当日資料をこちらに掲載しました。
なお、当日の発表部分の配信は終了しました。
ご覧頂き、ありがとうございました。
2013/3/6 追記 ***************************************
当日資料をこちらに掲載しました。
なお、当日の発表部分の配信は終了しました。
ご覧頂き、ありがとうございました。
2012年12月17日月曜日
第17回勉強会(2012年12月16日)報告
「長田史料について」
日時:2012年12月16日(日) 14:00-17:00
会場:京都商工会議所 第一会議室
発表者:門上 光夫氏
出席者:15名
当日の出席者によるtwitter上のつぶやきをまとめたものはこちら
今回は、十五年戦争期に大阪府立図書館長だった長田富作(おさだ・とみさく)が遺した図書館活動に関する史料を紹介していただいた。長田は広島高等師範学校卒業後、大阪府視学、大阪府立夕陽丘高等女学校長等を歴任した後昭和3年に大阪府立図書館司書となった。書誌学者で図書館学に関する著作はなく、また田島清『回想のなかの図書館』での評価も芳しくない。
同史料群は長らく大阪府立中之島図書館に置かれていたが、発表者の門上氏が関わっていた『中之島百年』編纂時に使用された。書簡と文書に分かれ、文書については一通り整理が完了し、今回の報告となった。書簡については今後整理を進める予定だという。
史料群は大阪府立図書館の庶務・展示会・貸出文庫関係、また大阪や近畿地方の連絡組織関係、日本図書館協会関係、中央図書館長協会関係のものが全480点存在している。
報告では史料群のなかから、府立図書館出納手講習用に用いられた「図書館概論」や青年層のための国民精神総動員文庫関連の史料、戦地への「貸出」記録、読書会の史料、大阪文化施設協会の史料、日本図書館協会や中央図書館長協会関係の議事次第や名簿などがあることが紹介された。
また、門上氏から、戦時期の図書館活動に関する一次史料の発掘をこれから進めていく必要があること、並びに戦時期の図書館活動を日本の近代の歴史の中にどう位置づけて行くかという点について問題提起がなされた。
主な質疑は以下のとおり。
終了後は忘年会が催された。
日時:2012年12月16日(日) 14:00-17:00
会場:京都商工会議所 第一会議室
発表者:門上 光夫氏
出席者:15名
当日の出席者によるtwitter上のつぶやきをまとめたものはこちら
今回は、十五年戦争期に大阪府立図書館長だった長田富作(おさだ・とみさく)が遺した図書館活動に関する史料を紹介していただいた。長田は広島高等師範学校卒業後、大阪府視学、大阪府立夕陽丘高等女学校長等を歴任した後昭和3年に大阪府立図書館司書となった。書誌学者で図書館学に関する著作はなく、また田島清『回想のなかの図書館』での評価も芳しくない。
同史料群は長らく大阪府立中之島図書館に置かれていたが、発表者の門上氏が関わっていた『中之島百年』編纂時に使用された。書簡と文書に分かれ、文書については一通り整理が完了し、今回の報告となった。書簡については今後整理を進める予定だという。
史料群は大阪府立図書館の庶務・展示会・貸出文庫関係、また大阪や近畿地方の連絡組織関係、日本図書館協会関係、中央図書館長協会関係のものが全480点存在している。
報告では史料群のなかから、府立図書館出納手講習用に用いられた「図書館概論」や青年層のための国民精神総動員文庫関連の史料、戦地への「貸出」記録、読書会の史料、大阪文化施設協会の史料、日本図書館協会や中央図書館長協会関係の議事次第や名簿などがあることが紹介された。
また、門上氏から、戦時期の図書館活動に関する一次史料の発掘をこれから進めていく必要があること、並びに戦時期の図書館活動を日本の近代の歴史の中にどう位置づけて行くかという点について問題提起がなされた。
主な質疑は以下のとおり。
- 大阪の公文書が焼けてしまっている中で貴重なものと考えられるが、残存している分の公文書(起案文書等)とこの長田史料の文書は連動しているか。→公文書についてはいつどのようなものが作成されたか、年表も作って調査してみたが、長田史料に残っているものと時期的にズレており、府が発信して図書館で受信した(あるいはその逆)のような関連性は長田史料のなかからは認められないように思う。なお庶務関係文書は人事や給与、施設などお金が絡むものが中心で、これで全部というわけではない。
- この史料群を、長田「史料」として命名してよいか。出所などはどうなっているか。→命名は『中之島百年』編纂以来のもの。元々長田の退任後に風呂敷包にくるんで別置してあったものなので、他のグループからの混入はなく、比較的まとまった塊だと考える。
- 未整理の書簡の点数は何点くらい?→残念ながらまだ確定できていないが、段ボール何箱というような量の多さではない。
- 読書会の例で山田村が挙げられているが、ここは戦前争議が多かった地域で、『吹田市史』にも数多く史料発掘されているはず。見ると関連のものが出てくるかもしれない。
- 戦時期の「発明文献」展示会は、前回阪大の田中敬についての報告でも似た話が出てきた。阪大と何か連動した企画などはあるのか。→今のところわからない。
- 大阪市が作った『町会文庫』が入っている。この頃の府と市の関係は?また文化施設の連絡という点で、前任の今井館長は退任した後美術館長になっていたと思うが、何か長田さん以外の人の動きが見えてくる史料はあるか。→府市の連絡は不明。中央図書館に指定されたあとも各館にどういうことをやっていたか具体的にわかるものは発見できていない。今井貫一はこの当時亡くなっているので今井さんが動いたということはないが、今後も調べてみる。
- 文化施設の連絡というのは、あまり聞いたことが無い、東京や京都のような大都市ではやっていないと思う。大阪独自という可能性もあるので、史料的な価値は高そう。
- 大阪文化施設協会が面白い。文化講演会のお知らせ(プログラム?)があるようだが、どんな人が呼ばれていたのか。それによって同会の性格付けはできるか?→大阪商科大学長で経済学者の本庄栄治郎などを呼んでいる。地元の人を招いている。
- 戦時下の巡回文庫に独自性があるとしたら、従来来なかった層に閲覧させていたということになると思うが、在郷軍人会とか、そういうところに本が行っていたのか。→来館出来ない層に届けるという面は確かにあり。戦時下はとくに就労すべき「青年層」の補修機能を強調している。
終了後は忘年会が催された。
2012年11月30日金曜日
文脈の会 東西合同合宿(2012年11月3日~4日)報告
日時:2012年11月3日(土)~4日(日)
会場:金沢文圃閣(石川県金沢市)
出席者:16名(東京11名、関西5名)
出席者:16名(東京11名、関西5名)
東京と関西に拠点をもちそれぞれ活動している文脈の会メンバーの親睦と研鑽を目的として、初の合宿を開催した。場所は図書館史・出版史・書誌学に関する精力的な出版を行なっている金沢文圃閣・田川氏のご厚意により、同店内の一角をお借りして実施した。
東西文脈の会から報告者を選び、以下に掲載する4本の報告が行われた。
◎徳川頼倫の人間関係(長坂和茂氏)
紀州徳川家第15代当主・徳川頼倫(1872-1925)の人間関係について、図書館界との関わりを中心に報告がなされた。
頼倫は田安徳川家に生まれ、1880年に紀州徳川家当主・徳川茂承の養子となり、1890年に茂承の長女久子と結婚した。その後英国留学を経験し、1906年に茂承が亡くなると紀州徳川家当主となった。紀州徳川家当主となる前に南葵文庫を建設、当主となってからは史蹟名勝天然紀念物保存協会会長、日本図書館協会総裁、聖徳太子一千三百年遠忌奉賛会会長等を務め、様々な団体の設立・運営に携わった。
頼倫は自らが南葵文庫を設立する一方、日本文庫協会の協会基金に寄附をしたり、全国図書館大会を南葵文庫で開催するなど、草創期の日本文庫協会(日本図書館協会)の有力な協力者であった。1923年に起きた関東大震災で東京帝大図書館の蔵書が焼失すると、頼倫は南葵文庫の蔵書を帝大図書館に寄贈し、文庫を閉館する。また同年12月に頼倫は5万円を日本図書館協会に拠出し、協会は毎年3千円の利子を受け取る約束を結んだ。
1925年に頼倫が亡くなった後、協会と紀州徳川家との関係は微妙なものになってゆく。紀州徳川家は震災の影響による地代収入の減少と1927年に十五銀行が破綻したこと等により、家の財政が窮迫していた。1931年に協会は社団法人に改組し、その際頼倫より寄附された5万円を基本財産として取り込む。ところが徳川家よりこの5万円の引き上げと利子給付打ち切りの申し出があり、この件は以後解決まで9年を要する争いとなった。
【質疑等】
紀州徳川家第15代当主・徳川頼倫(1872-1925)の人間関係について、図書館界との関わりを中心に報告がなされた。
頼倫は田安徳川家に生まれ、1880年に紀州徳川家当主・徳川茂承の養子となり、1890年に茂承の長女久子と結婚した。その後英国留学を経験し、1906年に茂承が亡くなると紀州徳川家当主となった。紀州徳川家当主となる前に南葵文庫を建設、当主となってからは史蹟名勝天然紀念物保存協会会長、日本図書館協会総裁、聖徳太子一千三百年遠忌奉賛会会長等を務め、様々な団体の設立・運営に携わった。
頼倫は自らが南葵文庫を設立する一方、日本文庫協会の協会基金に寄附をしたり、全国図書館大会を南葵文庫で開催するなど、草創期の日本文庫協会(日本図書館協会)の有力な協力者であった。1923年に起きた関東大震災で東京帝大図書館の蔵書が焼失すると、頼倫は南葵文庫の蔵書を帝大図書館に寄贈し、文庫を閉館する。また同年12月に頼倫は5万円を日本図書館協会に拠出し、協会は毎年3千円の利子を受け取る約束を結んだ。
1925年に頼倫が亡くなった後、協会と紀州徳川家との関係は微妙なものになってゆく。紀州徳川家は震災の影響による地代収入の減少と1927年に十五銀行が破綻したこと等により、家の財政が窮迫していた。1931年に協会は社団法人に改組し、その際頼倫より寄附された5万円を基本財産として取り込む。ところが徳川家よりこの5万円の引き上げと利子給付打ち切りの申し出があり、この件は以後解決まで9年を要する争いとなった。
【質疑等】
- 紀州徳川家顧問団の共通点は何か。 →上田貞次郎、小泉信三は父が紀州藩士。なお、1925年に徳川家家令鎌田正憲から日本図書館協会に対して上田、小泉を理事に加えるよう要求が出るが、小泉は慶應義塾大学図書館長を務めており図書館について全くの門外漢ではない。上田も東京商科大学教授であり、図書館と何らかの関係があった可能性あり。
- 十五銀行は華族の叛乱防止を目的として華族から出資させていた銀行。その破綻は華族界全体にダメージを与え、松方巌はその責任を取らされた形となった。
- 南方熊楠との関係 … 南方は頼倫に対して否定的評価をしている。
- 史蹟名勝天然紀念物保存協会について→頼倫、達孝、戸川安宅、橘井清五郎など内務省関係者以外には徳川家のメンバーが多い。 丸山宏は、旧幕臣の文化的な復権を目指した、と指摘している。
- 東京帝大図書館に寄贈された南葵文庫旧蔵書の中には、南葵文庫に寄託されていたものも含まれている可能性がある。
- 家の跡継ぎが団体の総裁職を引き継ぐケースはあるか →そういった事例は見つけられなかった。その後の調査で聖徳太子奉賛会は総裁が久邇宮、会長が細川家によって引継がれていることが分かった。
- 芝義太郎とは? →印刷機械製造大手の東京機械製作所社長。高柳との関係は不明。
- 今後の検討の方向性としては、①頼倫の貢献を日図協の財政状況を追いながら丁寧に調べる、②1925年の状況について和田書簡などを再度精読し明らかにする、の2点が示唆された。
◎金森徳次郎と草創期の国立国会図書館-戦後日本におけるある「ライブラリアンシップ」の誕生-(春山明哲氏)
国立国会図書館の初代館長を務めた金森徳次郎(1886-1959)を取り上げ、その生涯と業績について報告がなされた。
金森は名古屋に生まれ愛知一中、第一高等学校を卒業後、1908年に東京帝国大学法科大学英法科に入学。1911年、東京帝大在学中に高等文官試験(行政科)に合格し、翌年東京帝大を卒業すると大蔵省に入省した。1914年に法制局参事官に転じ、以後法制官僚としての経歴を重ね、1934年には岡田啓介内閣の法制局長官に就任する。1935年の「天皇機関説事件」で委員会答弁をきっかけに攻撃され、翌年1月に法制局長官を辞任した。
その後は終戦まで表舞台に出ることはなかったが、1945年11月に日本自由党の憲法改正特別調査会のメンバーとなり、憲法改正に関わることとなる。1946年、第一次吉田内閣で憲法問題担当の国務大臣に就任。1948年2月、初代国立国会図書館長に就任した。また同年4月には国会議員を中心に反対意見の多かった中井正一の副館長就任に同意し、中井を副館長に任命している。
1950年1月から約2ヶ月間、金森は国会訪米視察団の一員としてアメリカを訪れ、米国議会図書館を始めとした米国内の図書館を視察している。この時金森はシカゴのアメリカ図書館協会で挨拶をし、その中で1947年に米国図書館使節として来日したヴァーナー・W・クラップ、チャールズ・H・ブラウンやダウンズ報告で知られるロバート・B・ダウンズに対する謝辞を述べている。
金森は1948年に就任してから1959年に亡くなる直前に辞任するまでの約11年間、国立国会図書館長を務めた。この11年間は1948~1952年を前期、1953~1959年を後期とすることができる。1952年は5月に中井副館長が死去し、12月に建築委員会で新庁舎建築計画が決定した画期となる年であった。
金森の功績としては(1)文化財・学術資料の保存、(2)調査及び立法考査局の拡充整備、(3)科学技術資料の整備、(4)憲政資料の収集・整備、が挙げられる。(1)は静嘉堂文庫、東洋文庫、大倉山文化科学図書館を「支部図書館」とし、財閥の文庫の支援を嫌うGHQの反対を押し切って文化財と学術資料の保存を図ったものである。(2)は訪米の成果であるが、米国議会図書館が国立国会図書館のモデルである、としてその後の組織整備に道筋を付けた。金森は図書館・書物文化の表現の場として雑誌『読書春秋』の刊行に力を注ぎ、みずから全105冊に随筆等を執筆した。一方では1958年に起きた「春秋会事件」に見られるように、組織運営における諸課題については、問題を指摘される面もあった。
人事の上では中井正一を副館長としたことは成功として評価されている。また法制局時代から交友関係にあった佐藤達夫は金森の追悼文の中で、点字図書館を支援したこと、受刑者のための愛の図書運動を行ったこと等を挙げて、その「図書館人」としての功績を評価している。なお佐藤は1955年から1962年まで専門調査員として国立国会図書館に勤務しており、その間の最も重要な仕事として『日本国憲法成立史』全4巻の執筆が挙げられている。
【質疑等】
- 戦後、吉田内閣閣僚としての国会答弁では、図書館使節団の来日前に議会図書館の必要性等を訴えている。
- 中井正一のNDL副館長就任にはその前歴・思想から反対意見が多かった。金森もその任命に当たっては消極的承諾という態度。
◎竹林熊彦 -五つの論点(よねい・かついちろう氏)
図書館学・図書館史研究者として知られる竹林熊彦(1888-1960)を取り上げ、その言説について報告がなされた。
竹林については、関係者による顕彰的なもの、竹林文庫に関するものを除けば専論は少ない。その専論も評伝、あるいは図書館史研究者・史料発掘者としての言及・評価が主となっており、竹林の図書館員の労働問題・戦後の学校図書館運動への関わりなどと彼の主な研究領域であった図書館史研究との連関が明らかにされていない。また図書館史研究についても、その業績の中で「戦後歴史学」的価値観ではマイナスと考えられた点については棚上げした評価となっており、こうした点を含めてトータルとして把握する姿勢に乏しい。
これらの課題を踏まえて今回の報告では、今後における,竹林が精力的に活動した時代(戦前から戦後初期)の図書館史の見直しを念頭におきつつ,報告者により5つの論点が提示された。なお,発表については,後日,発表者により文章化されると聞いている。
【質疑等】
- ・戦前来「図書館の大衆化」をあれほど主張した竹林が,戦後,図書館発展の戦略として,地域における比較的少数の読書人を目標とした公共図書館運動を主張することとなった契機は何か。この契機が明らかにならなければ,彼は単に状況にあわせて言を左右したということにしかならないのではないか。 →残念ながら質問の点については,資料的に明らかにすることはできなかった。戦後の彼なりに,戦争を支えた当時の公共圏の流動化に対する反省的な認識があったようにも思えるが発表者の推測の域をでない。今後の重要な課題である。
◎中央図書館長協会について(鈴木宏宗氏)
1931~1943年にかけて存在した中央図書館長協会を取り上げ、改正図書館令(1933年)以後の昭和前期の公共図書館の状況と中央図書館制度を調べる前提として、その事実紹介がなされた。
1933年の改正図書館令は、日本の図書館史上重要な意味を持っている。特にこの第一条に盛り込まれた文言の解釈をめぐっていわゆる「附帯施設論争」が起こり、中央図書館制度にも言及されることが多い。にもかかわらず、この改正図書館令の実態を解明した研究は少ない。また中央図書館長協会についても、これに焦点を当てたものはほとんどない。
中央図書館長協会設立の背景を探る際には、1931年に社団法人化した日本図書館協会の状況や当時の図書館界で形成されていた各グループのあり方を考える必要がある。当時既に図書館令改正に向けた活動が行われており、1930年3月には文部省が主催する全国図書館長会議が開かれ、そこで文部大臣から「現行図書館関係法規上ニ於テ改正ヲ要スル事項如何」との諮問がなされている。
中央図書館長協会が成立したのは、1931年10月に開かれた全国道府県図書館長会議(帝国図書館主催)においてである。当時の帝国図書館長・松本喜一は師範学校長の経験があることから、これは師範学校長協会と文部省の関係を参考にした可能性がある。なお会の構成員は、「官立図書館長」「道府県立図書館長及之ニ準スヘキ公立図書館長」「六大都市ニ於ケル代表図書館長」とされた。
同会の活動としては、1943年に会が解消するまでに7回協議会が開かれている。このうち、1933年5月の第2回協議会では中央図書館制度の導入が建議され、同年改正図書館令第十条には中央図書館制度を導入する旨が示された。1935年の第3回協議会では、「中央図書館ノ充実ニ関シ最モ適切ナル方策如何」との文部大臣諮問に対して答申している。この協議会と相補うものとして、文部省が主催する中央図書館長会議があった。参加メンバーも両者はほぼ重なるが、協会の協議会が“協議”なのに比べると、後者では訓示、指示事項等の構成となるなどの相違点もあった。
また同会の機関誌として、『中央図書館長協会誌』が3号まで刊行されている。このうち、1939年に刊行された1号と2号は石川県立図書館長の中田邦造が編集を担当している。中田は翌年5月から『図書館雑誌』の編集となっており、報告者は中田の中央図書館長協会構成員としての経験が1940年8月に『図書館雑誌』に発表された中央図書館制度拡充意見につながっているのではないかとした。
会の活動内容の究明とその転換点を明らかにすること、また他の協議会・教育関係団体との同時代比較が今後検討を要する点として挙げられた。
【質疑】
- 改正図書館令は文部省が単独で起案しているのか。 →第三条など図書館行政にとどまらない内容もあるため、起案時に内務省に内々に交渉している。
※全ての発表が終了した後、金沢文圃閣さんのバックヤードを見学させていただいた。
普段は目にすることのない事務スペースや書庫まで通していただき、じっくりと本を探すことができた。
2012年11月17日土曜日
第17回勉強会のお知らせ
御多忙のところと存じますが、ご参加をお待ちしております。
今回は門上氏に、大阪府立図書館第二代館長を務めた長田富作氏に関する
関係史料をご紹介いただける予定です。
日時:12月16日(日) 14:00~
会場:京都商工会議所 第一会議室
http://www.kyo.or.jp/kyoto/kyosho/access.html
発表者:門上 光夫氏
タイトル:「長田史料について」
参加ご希望の方は、事務局<toshokanshi.kansai @ gmail.com(@は半角)>までご一報ください。
twitterアカウント@k_context宛にご連絡いただいても構いません。
なお、会終了後は忘年会を兼ねた懇親会を予定しております。
時節柄、会場の混雑が予想されますので、懇親会参加ご希望の方は
できれば今月中にその旨を事務局までお知らせください。
どうぞよろしくお願いいたします。
(2012/11/18 会場確定しました)
登録:
投稿 (Atom)