第25回勉強会(2015年1月18日)報告
「伏見の図書館史」
日時:2015年1月18日(日) 14:00-17:00
会場:京都商工会議所 第一会議室
発表者:小篠景子氏
参加者数:12名
当日の出席者によるtwitter上のつぶやきをまとめたものはこちら
0.伏見の図書館について
・明治以降の大まかな流れ。伏見集書会社の時代→伏見十六会による図書館経営の時代(伏見文庫→伏見図書館)→京都府立図書館伏見分館の時代。
・京都集書院の設立にかかわった京都集書会社。この支部のような形で、伏見集書会社が明治5年に設立した。開始後5年で解散。
・並松信久氏の論文では、のちの伏見文庫は伏見集書会社を接収してつくられたとしている。ただしこの説の根拠となった史料は不明。
1.人見喜三郎と伏見十六会
・伏見十六会の生みの親が人見喜三郎。兵庫県の出身で、11-12歳頃に伏見に出てきて丁稚奉公。当時から読書家であった。
・明治41年~43年まで伏見町長を務めた。当時の伏見町は、陸軍第十六師団誘致に関わる寄付金の工面など、色々な課題を抱えていたが、これらを解決。本人によると、町長は自分の希望ではなく、十六会の反対勢力による悪意の推薦によりやむなく就任したとしている。
・伏見十六会とは、明治28(1895)年、人見ら16名の青年により設立された社会事業団体。設立の背景として、当時の伏見の衰退がある。
・また、明治25年頃設立の良友倶楽部という団体があった。各種職業の青年が集まって自分の調べてきたことを発表研究する集まりであったが、27年頃には活動が形骸化していた。人見は実業家としての活動ができる団体の必要性を感じ、同じ商店員の村田・安良とともに脱会して伏見十六会を設立。
2.伏見十六会の事業
・貯金部。資金がなくてはどうしようもないということで、明治28(1895)年から貯金部の活動を開始。当初は小口貯金だったが、日清戦争後の恐慌時に、営業資金の貸付や住宅購入補助なども開始。また元々は年一回の抽選で前渡金を受け取る頼母子講方式であったものを、大正3(1914)年の規約改正により貯金のみを目的とする仕組みとした。
・伏見信用組合。伏見十六会を母体として、明治38(1905)年に設立。頼母子講に対する取締まりの強化なども背景にあった。伏見十六会破綻後も営業を続け、伏見信用金庫となり、平成13(2001)年に京都中央信用金庫へ事業譲渡。
・教育部。大正4(1915)~12(1923)年の私立伏見実業補習学校。大正5(1916)年~の伏見商業学校。これは伏見十六会破綻後に京都市へ移管され、現在の京都市立桃山中学校の前身となった。
・救済部。明治40(1907)年創設。奨学金、無料診療所済生園など。
・出版事業。明治39(1906)年、伏見で初めての新聞である『伏見実業新報』創刊。のち十六新聞と改め、明治41(1908)年に『明治新聞』へ号数引継ぎ。大正2(1913)年からは伏見十六会専属の機関誌『十六会報』を創刊。いずれも現存不明。ほか、図書も刊行。
3.国の動きとの関連
・明治40(1907)年、大日本産業組合中央会会頭の平田東助が伏見十六会を視察。これをきっかけに内務省嘱託の留岡幸助、内務参事官井上友一と接触。明治41(1908)年に社団法人化。
・背景には地方改良運動の存在。内務官僚を中心に、大衆みずから地方の自治振興に協力していくことを奨励する動き。全国的に、この気運にのって設立された図書館も多い。
・伏見十六会は地方改良運動を進める立場から見て良いモデルケースであったらしく、多くの視察を受け入れ、『斯民』『産業組合』『社会事業』などの雑誌に掲載されている。
4.伏見十六会の図書館
・明治38(1905)年9月、日露戦争の戦勝記念事業として伏見文庫を設立。
・伏見十六会会員は雇われ人が多く、読書の資金も乏しく、正式な教育を受けていない人も多かったことから、地域への教育機会の提供として行われた。
・伏見文庫には誰でも入会可能。会費制。貸出も行っていた。
・文庫長は尋常小学校長、幹事は教育家と伏見十六会役員が半数ずつ。前者は選書等、後者は庶務会計を担当。
・京都府立図書館からの貸与も受けた。
・大正4(1915)年、新たに建物を作って伏見図書館を設立。設立申請の行政文書が京都府立総合資料館にある。当時の新聞記事によると、開館式には京都府立図書館長の湯浅による講演も行われた。
・伏見図書館は大正11(1922)年に移転。隣接していた商業学校に建物を譲って、十六会事務所の一部に入る。
・館長は伏見町の高等小学校長。幹事は伏見町の小学校教員から嘱託し、選書等。事務は伏見十六会員が行った。
・伏見図書館になって貸出を廃止。理由は閲覧室が整備されたこと。
・文庫時代から図書館基本金を積み立て、この利子を運営資金にあてていた。会合に遅刻した者は図書館に寄付するというルールを設けたりしていた。
・大正10(1921)年文部省による「全国図書館に関する調査」から、私立図書館の平均と伏見図書館を比較。蔵書冊数で5千冊程度、一日閲覧人数で5名程度、費用で300円程度伏見図書館の方が上回っている。なお同調査では伏見図書館の附帯事業として「運動倶楽部」を挙げているが、内容不明。
5.伏見十六会の破綻
・昭和8(1933)年2月、人見死去。
・昭和9(1934)年、伏見十六会が破綻。当時の新聞によると、昭和7(1932)年に貯金事業が銀行法に抵触するとの指摘を受けたことが背景にあり、貸付金の回収が難航したことなどで取り付け騒ぎに至った。
・伏見図書館は昭和9(1934)年6月の京都府広報で廃止認可。その後の消息は不明。
・旧蔵書の行方。京都府立総合資料館、立命館大学図書館の所蔵する資料に「伏見図書館」の印記を持つものがある。また、昭和10年付けで京都府立京都図書館に寄贈された資料に「これと同じ複本を伏見図書館に寄贈した」と著者により書かれているものがある。詳細は不明。
6.戦後の伏見の図書館
・昭和25(1950)年、伏見信用組合の2階に京都府立図書館伏見分館を開館。
・昭和29(1954)年、館舎を新たに建設して伏見分館移転。建設にあたっては土地の寄付など、地域から支援があったとされている。
・昭和62(1987)年、京都市伏見中央図書館が開館。翌年3月に伏見分館が閉館。
7.質疑(主なもののみ、適宜まとめている)
・伏見図書館が設立された当時(大正11年頃)、伏見図書館のような存在は珍しかったか?
→似た活動をしているところはある程度あった。青年団が公民館の一室を図書室として開放していたようなものがこれにあたる。
・伏見図書館に勤めていた書記の月給15円は、給与として高かったのか?
→かなり安かった。同時期の尋常小学校教員の初任給が50円ほどだったことからも、現在のアルバイトもしくはパートのようなもので、書記だけで生活していくことはできなかったと考えられる。
・昭和2(1927)年の金融恐慌と昭和5(1930)年の昭和恐慌の伏見図書館への影響は
→金融恐慌の影響に関しては、否定はできないものの乗り切ることに成功したとみられる。一方の昭和恐慌の影響は大きく、不動産担保貸付金の回収が困難になるなどした。
・十六会が破綻したのちも、伏見信用組合は伏見信用金庫として存続した。信用組合はあくまで十六会を母体として設立されたのであり、十六会が破綻したからといって信用組合も破綻することはなかった。なお、伏見信用金庫は平成13(2001)年まで営業を続け、京都中央信用金庫に事業譲渡した。
・伏見図書館が所蔵していた饗庭篁村『曲亭馬琴』(児童読本第5編、博文館、1912年)は現在立命館大学図書館に入っているがなぜなのか?
→立命館大学には後藤丹治という軍記物語の研究者がおり、この資料の書誌情報にも「後藤蔵書」印がある。そのため、後藤の研究のために立命館大学にはいったのではないか。他の伏見図書館の蔵書も、閉館後は分野ごとに分かれてさまざまな機関に移動していったのではないか。
終了後、懇親会が行われた。
2015年1月26日月曜日
2014年12月19日金曜日
第25回勉強会のお知らせ
御多忙のところと存じますが、ご参加をお待ちしております。
日時:2015年1月18日(日) 14:00~17:00
会場:京都商工会議所 第一会議室
発表者:小篠景子氏
タイトル:「伏見文庫と伏見図書館(仮)」
また、会終了後は、新年会を兼ねた懇親会を予定しております。
おおよその人数を把握したいので、参加ご希望の方は
会合の一週間前までを目安に、
会合の一週間前までを目安に、
事務局<toshokanshi.kansai @ gmail.com(@は半角)>までご一報ください。
twitterアカウント@k_context宛にご連絡いただいても構いません。
twitterアカウント@k_context宛にご連絡いただいても構いません。
2014年10月9日木曜日
第24回勉強会(2014年9月21日)報告
第24回勉強会(2014年9月21日)報告
「京都府中央図書館における国民精神総動員文庫」
日時:2014年9月21日(日) 14:00-17:00
会場:京都商工会議所 第一会議室
発表者:齊藤涼氏
参加者数:9名
当日の出席者によるtwitter上のつぶやきをまとめたものはこちら
0.国民精神総動員文庫(以下、精動文庫)とは
・昭和13~15(1938-1940)年ごろ、日米開戦以前に道府県中央図書館や道府県立図書館の主導により行われた。日本精神、中国事情、農業など国策に寄与する資料を重点的に集めたもの。規模や形態は各地により異なる。もっと後の時期になると読書会等を中心とした思想統制が厳しくなっていくが、今回はその前の時期。
・先行研究として、小川剛氏、奥泉和久氏らの論文を参照した。
1.国民精神総動員文庫設置の経緯
・昭和12(1937)年7月に日中戦争開始。同年に国民精神総動員運動が開始される。この時点での図書館の動きは、本の特集を組む程度。
・昭和13(1938)年4月に国家総動員法公布。同年5月の中央図書館長会議で、文部省が巡回文庫のための資金提供を行う準備があると表明。戦争の長期化が見込まれたとが背景にあると思われる。
・同年9月には、購入資金350円と買うべき本の目録が各中央図書館に交付される。この金額は本でいうとだいたい200冊程度と思われ、小規模。
2.京都と大阪における活動の違い
・京都府中央図書館には、以前から貸出文庫が存在した。創設は明治36(1903)年、一回50冊で、府内の図書館、学校教育会、青年団や婦人会などの各種団体を対象。閲覧料は1冊1銭。これが精動文庫の運営モデルになったと考えられる。
・京都府中央図書館に設置された精動文庫は162タイトル。男女青年団の幹部や教職員など、青少年の指導者が対象。貸出文庫と併用も可能で、リクエスト制度や読後の感想文共有なども想定されていた。ただし当時府内の青年学校は400以上あり、数としてはとても足りなかったと思われる。
・一方、大阪府立中央図書館における精動文庫の状況。こちらは郡部町村が中心で、大阪市内は大阪市立図書館がサービスを実施していた。200冊を1単位として4単位、800冊を設置。精動文庫に一般読物を加えた数百冊を、対象地域に巡回させていた。
・京都府と大阪府の計画を比較すると、大阪府の方がより大規模で現実的。
3.京都府における「改良」
・昭和14(1939)年8月に文科省から、精動文庫への奨励金が出された。あわせて、タイトル数や冊数を増やし、広く巡回させるようにという指示も出された。選書の基として文部省編纂の『国民精神総動員巡回文庫目録』が配布される。
・これに基づき、京都府中央図書館では従来の精動文庫を改良。奨励金500円に地方費100円を加えた600円で、243タイトルを購入した。
・文部省の推薦目録と、改良後の京都府中央図書館精動文庫の目録とを比較。改良により、農業、工業、水産などのジャンルが増えている。食糧増産計画の影響とも思われる。項目が細分化され、地域の事情に合わせやすくなっている。
・内容のレベルによって2種類に分け、難解なものは巡回文庫、通俗卑近なものは貸出文庫に配合した。
・実際の利用はどうだったか。『京都府中央図書館報』では昭和15(1940)年6月に、府庁内軍人援護会に図書を貸し出している。文部省には既に巡回文庫に移行する旨の報告をしており、矛盾するとも見える。
4.精動文庫の行き詰まり
・昭和15(1940)年以降、図書館雑誌や京都府中央図書館報で精動文庫の話題が乗らなくなっていく。国民精神総動員運動自体が大政翼賛体制に組み込まれたためか。
・昭和14(1939)年刊行『図書時報』第1輯収録の伊藤治郎「岡山縣下圖書館視察記」では、岡山県の視察先で精動文庫を見て「恒久的なものにしたい」と述べている。もともと常設される想定のものではなかったのかもしれない。
・また同年の北信5県図書館大会における報告では、指定図書が難しすぎるため読書指導が必要であること、情報の陳腐化などの指摘がなされた。
5.まとめ
・国民精神総動員運動に乗じた図書館振興策として実施された。規模はそれほど大きくない。文部省からの推薦目録だけでなく各館で独自に選書された部分もあり、司書はただ指示に従った訳ではなく主体的に取り組んでいた。ただし実際の利用はそれほど盛んでなかったと思われる。
・図書館にとっての精動文庫の意義は、国家からの支援を勝ち得たこと、図書館が外に向けて出ていく機会となったこと、選書による職員のスキルアップなどが考えられるか。
6.質疑(主なもののみ、適宜まとめている)
・リクエスト制度も存在するなど、戦時中に思想統制のため作られた文庫というイメージよりも意外と柔軟だと感じた。
・つぎ込まれた350円という金額は少ないのでは。→規模としては大きくないが、それが全国的に行われたことに意味。
・当時の文部省大臣は荒木貞夫、帝国図書館長は松本喜一、京都府知事は鈴木敬一と赤松小寅。また当時の京都府中央図書館長は北畠貞顯。こうした人々の、個人的な傾向が政策に影響を及ぼしていた可能性も考えられる。
・発表者は350円を小規模としていたが、当時の受入冊数や予算規模の全体と比較するとどうか。→当時、京都府中央図書館の一般の貸出文庫は26000冊ほど。
・文部省編纂の目録を見ると、意外と特定の出版社に偏るようなことがなく、幅広い。一方で、吉川弘文館や法蔵館のような伝統的な出版社が入っていないこともある。
・昭和15年の京都府国民精神総動員文庫目録に含まれる『緋の蜘蛛』という本は現所蔵館が確認できなかったとのことだが、「日本の古本屋」ではヒットあり。15000円くらい。
終了後、懇親会が行われた。
「京都府中央図書館における国民精神総動員文庫」
日時:2014年9月21日(日) 14:00-17:00
会場:京都商工会議所 第一会議室
発表者:齊藤涼氏
参加者数:9名
当日の出席者によるtwitter上のつぶやきをまとめたものはこちら
0.国民精神総動員文庫(以下、精動文庫)とは
・昭和13~15(1938-1940)年ごろ、日米開戦以前に道府県中央図書館や道府県立図書館の主導により行われた。日本精神、中国事情、農業など国策に寄与する資料を重点的に集めたもの。規模や形態は各地により異なる。もっと後の時期になると読書会等を中心とした思想統制が厳しくなっていくが、今回はその前の時期。
・先行研究として、小川剛氏、奥泉和久氏らの論文を参照した。
1.国民精神総動員文庫設置の経緯
・昭和12(1937)年7月に日中戦争開始。同年に国民精神総動員運動が開始される。この時点での図書館の動きは、本の特集を組む程度。
・昭和13(1938)年4月に国家総動員法公布。同年5月の中央図書館長会議で、文部省が巡回文庫のための資金提供を行う準備があると表明。戦争の長期化が見込まれたとが背景にあると思われる。
・同年9月には、購入資金350円と買うべき本の目録が各中央図書館に交付される。この金額は本でいうとだいたい200冊程度と思われ、小規模。
2.京都と大阪における活動の違い
・京都府中央図書館には、以前から貸出文庫が存在した。創設は明治36(1903)年、一回50冊で、府内の図書館、学校教育会、青年団や婦人会などの各種団体を対象。閲覧料は1冊1銭。これが精動文庫の運営モデルになったと考えられる。
・京都府中央図書館に設置された精動文庫は162タイトル。男女青年団の幹部や教職員など、青少年の指導者が対象。貸出文庫と併用も可能で、リクエスト制度や読後の感想文共有なども想定されていた。ただし当時府内の青年学校は400以上あり、数としてはとても足りなかったと思われる。
・一方、大阪府立中央図書館における精動文庫の状況。こちらは郡部町村が中心で、大阪市内は大阪市立図書館がサービスを実施していた。200冊を1単位として4単位、800冊を設置。精動文庫に一般読物を加えた数百冊を、対象地域に巡回させていた。
・京都府と大阪府の計画を比較すると、大阪府の方がより大規模で現実的。
3.京都府における「改良」
・昭和14(1939)年8月に文科省から、精動文庫への奨励金が出された。あわせて、タイトル数や冊数を増やし、広く巡回させるようにという指示も出された。選書の基として文部省編纂の『国民精神総動員巡回文庫目録』が配布される。
・これに基づき、京都府中央図書館では従来の精動文庫を改良。奨励金500円に地方費100円を加えた600円で、243タイトルを購入した。
・文部省の推薦目録と、改良後の京都府中央図書館精動文庫の目録とを比較。改良により、農業、工業、水産などのジャンルが増えている。食糧増産計画の影響とも思われる。項目が細分化され、地域の事情に合わせやすくなっている。
・内容のレベルによって2種類に分け、難解なものは巡回文庫、通俗卑近なものは貸出文庫に配合した。
・実際の利用はどうだったか。『京都府中央図書館報』では昭和15(1940)年6月に、府庁内軍人援護会に図書を貸し出している。文部省には既に巡回文庫に移行する旨の報告をしており、矛盾するとも見える。
4.精動文庫の行き詰まり
・昭和15(1940)年以降、図書館雑誌や京都府中央図書館報で精動文庫の話題が乗らなくなっていく。国民精神総動員運動自体が大政翼賛体制に組み込まれたためか。
・昭和14(1939)年刊行『図書時報』第1輯収録の伊藤治郎「岡山縣下圖書館視察記」では、岡山県の視察先で精動文庫を見て「恒久的なものにしたい」と述べている。もともと常設される想定のものではなかったのかもしれない。
・また同年の北信5県図書館大会における報告では、指定図書が難しすぎるため読書指導が必要であること、情報の陳腐化などの指摘がなされた。
5.まとめ
・国民精神総動員運動に乗じた図書館振興策として実施された。規模はそれほど大きくない。文部省からの推薦目録だけでなく各館で独自に選書された部分もあり、司書はただ指示に従った訳ではなく主体的に取り組んでいた。ただし実際の利用はそれほど盛んでなかったと思われる。
・図書館にとっての精動文庫の意義は、国家からの支援を勝ち得たこと、図書館が外に向けて出ていく機会となったこと、選書による職員のスキルアップなどが考えられるか。
6.質疑(主なもののみ、適宜まとめている)
・リクエスト制度も存在するなど、戦時中に思想統制のため作られた文庫というイメージよりも意外と柔軟だと感じた。
・つぎ込まれた350円という金額は少ないのでは。→規模としては大きくないが、それが全国的に行われたことに意味。
・当時の文部省大臣は荒木貞夫、帝国図書館長は松本喜一、京都府知事は鈴木敬一と赤松小寅。また当時の京都府中央図書館長は北畠貞顯。こうした人々の、個人的な傾向が政策に影響を及ぼしていた可能性も考えられる。
・発表者は350円を小規模としていたが、当時の受入冊数や予算規模の全体と比較するとどうか。→当時、京都府中央図書館の一般の貸出文庫は26000冊ほど。
・文部省編纂の目録を見ると、意外と特定の出版社に偏るようなことがなく、幅広い。一方で、吉川弘文館や法蔵館のような伝統的な出版社が入っていないこともある。
・昭和15年の京都府国民精神総動員文庫目録に含まれる『緋の蜘蛛』という本は現所蔵館が確認できなかったとのことだが、「日本の古本屋」ではヒットあり。15000円くらい。
終了後、懇親会が行われた。
2014年8月12日火曜日
【日程変更しました】第24回勉強会のお知らせ
台風のため中止となった第24回勉強会につき、
改めて下記の日程にて開催いたします。
御多忙のところと存じますが、ご参加をお待ちしております。
日時:2014年9月21日(日) 14:00~17:00
会場:京都商工会議所 第一会議室
発表者:齊藤涼氏
タイトル:「京都府中央図書館における国民精神総動員文庫」
おおよその人数を把握したいので、参加ご希望の方は
会合の一週間前までを目安に、
改めて下記の日程にて開催いたします。
御多忙のところと存じますが、ご参加をお待ちしております。
日時:2014年9月21日(日) 14:00~17:00
会場:京都商工会議所 第一会議室
発表者:齊藤涼氏
タイトル:「京都府中央図書館における国民精神総動員文庫」
また、会終了後は、懇親会を予定しております。
おおよその人数を把握したいので、参加ご希望の方は
会合の一週間前までを目安に、
事務局<toshokanshi.kansai @ gmail.com(@は半角)>までご一報ください。
twitterアカウント@k_context宛にご連絡いただいても構いません。
【2014年9月14日追記】
第14回勉強会の懇親会は、
同日に開催されるLRGフォーラムの懇親会と合同開催いたします。詳細は下記URLをご覧ください。
https://docs.google.com/forms/d/1JJRWzI78PgnDpGvXQ2NlyTFSYRB7FojxjliseX4o6nY/viewform
(フォーラム自体へのお申込み・お問合せは、LRGフォーラム主催者の方へお願いいたします)
twitterアカウント@k_context宛にご連絡いただいても構いません。
【2014年9月14日追記】
第14回勉強会の懇親会は、
同日に開催されるLRGフォーラムの懇親会と合同開催いたします。詳細は下記URLをご覧ください。
https://docs.google.com/forms/d/1JJRWzI78PgnDpGvXQ2NlyTFSYRB7FojxjliseX4o6nY/viewform
(フォーラム自体へのお申込み・お問合せは、LRGフォーラム主催者の方へお願いいたします)
2014年8月8日金曜日
<重要>第24回勉強会中止します。
事務局よりお知らせします。
本日(8月9日)開催予定だった第24回勉強会は、台風接近のため中止といたします。
発表者及びご参加を予定されていた皆さまにはご迷惑をおかけいたしますが、何卒ご理解をお願いいたします。
当日のご連絡で恐れ入りますが、どうぞよろしくお願いいたします。
2014年7月8日火曜日
第24回勉強会のお知らせ
下記の日程で、第24回の勉強会を開催いたします。
御多忙のところと存じますが、ご参加をお待ちしております。
日時:2014年8月9日(土) 14:00~17:00
会場:京都商工会議所
発表者:齊藤涼氏
タイトル:「京都府中央図書館における国民精神総動員文庫」
御多忙のところと存じますが、ご参加をお待ちしております。
日時:2014年8月9日(土) 14:00~17:00
会場:京都商工会議所
発表者:齊藤涼氏
タイトル:「京都府中央図書館における国民精神総動員文庫」
また、会終了後は、懇親会を予定しております。
おおよその人数を把握したいので、参加ご希望の方は
会合の一週間前までを目安に、
会合の一週間前までを目安に、
事務局<toshokanshi.kansai @ gmail.com(@は半角)>までご一報ください。
twitterアカウント@k_context宛にご連絡いただいても構いません。
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2014年6月24日火曜日
第23回勉強会(2014年6月7日)報告
第23回勉強会(2014年6月7日)報告
「近世伏見学校とは」
日時:2014年6月7日(土) 14:00-17:00
会場:京都商工会議所 第一会議室
発表者:若林正博氏
参加者数:9名
当日の出席者によるtwitter上のつぶやきをまとめたものはこちら
・閑室元佶は家康から与えられた木活字10万本を使い、慶長11年までに8点80万冊の書物を印刷した。閑室元佶のために伏見学校と同時に開かれたとされる円光寺にちなんで円光寺版、あるいは伏見版という。
・ただし本日の話は木活字版のことではなく、伏見学校に近世の図書館としての機能があったかという点を見ていく。
・郷土史研究はどこの図書館でもされている。その場合、教科書に載るメインの日本史に対して、その頃自分たちの地元はどうだったかというスタンスになりがち。しかし伏見の場合には地元の歴史が、まさに秀吉や家康の出てくる日本史と重なっている。
・伏見の地理について。慶長当時は丘の上に城があり、南側には諏訪湖と同じくらいの大きさの巨椋池(おぐらいけ)が広がる。大阪・奈良・京都に通じ、淀川の水運がつながる交通の要衝。
・秀吉はここに城を設けた。秀吉の治世には大阪のイメージがあるが、晩年は伏見で政務を執った。言わば首都。城を中心に、周りに武家屋敷があり、さらに周りに町人が住む街づくりは、伏見が江戸のモデルとなっている。
・慶長3(1598)年の秀吉没後、家康の将軍宣下までに5年間空く。その間形式的には豊臣秀頼が天下人であり、関ヶ原の戦いも形式的には豊臣の家来同士の争い。
・家康の子ども16人のうち、4人が成人として伏見と何らかの関わりを持ち、5人は伏見で生まれている。家康が天下人になる過程でも伏見が重要な場所となっており、天下人になった後も将軍職を退くまでの7年間伏見で政務を執った。実質的には、伏見に幕府ができていたとも言える。
・ちなみに他の時代のことを言うと、室町時代には伏見宮貞成親王が住んでいた。近代の皇族の血統はすべてこの人の系譜。貞成親王の日記『看聞日記』は、当時の出来事が克明に分かる重要な史料。陵墓は伏見の町の真ん中にある。
・また幕末には、鳥羽伏見の戦いのうち、伏見の戦いは伏見市中での市街戦。
・近代に入り、水運よりも鉄道の方が盛んになったことと、遷都により京都が寂れたことで、伏見もいったん衰える。しかし明治天皇陵が桃山に造られたことにより、陵墓巡拝の人々が全国から訪れるようになる。
・近藤重蔵『右文故事』によれば、近世初頭に朝鮮より伝来した銅板活字が大きく影響。銅は鋳造が難しいので木で作るようになり、木活字版がブームを迎える。円光寺で刷られた書物は、木活字という当時最新の技術を使っていた。
・ただし後の時代を見ると、木活字版は長続きしない。江戸時代には読者が爆発的に増加したが、木活字は大量反復の印刷に適さないため、板木を使った印刷が盛んになっていく。
・円光寺の跡は不明。碑なども無い。現在の桃山町立売、桃山町鍋島付近にあったと言われている。
・円光寺を作った閑室元佶は、足利学校の第9世庠主。足利学校は北条氏が庇護者となっていた学校で、蔵書を多く持っていた。1590年、小田原の北条氏滅亡により庇護者がいなくなる。足利学校の蔵書は豊臣秀次により京都へ持ち去られ、閑室元佶も一緒に京都に来た。蔵書はのちに家康の仲介で足利に戻されるが、元佶自身は家康の学術顧問となる。
・秀吉の死後、家康が元佶に10万個の活字を与え、伏見で木活字印刷を始めさせる。関ヶ原の合戦以後に、伏見に円光寺が創建される。
・伏見版については、川瀬一馬『古活字版之研究』に詳しい。木活字の起源を朝鮮と断定。
・元佶が与えられた活字のうち、912個を京都府立総合資料館で所蔵している(参考文献:「円光寺所蔵伏見版木活字関係歴史資料調査報告書」)。
・伏見版で出版された書物は兵法書や歴史関係が多い。『東鑑』はかな文字入り。
・1607年に家康が拠点を駿河に移すと、伏見版の刊行もなくなり駿河版に移行。このことからも、元佶が勝手にやっていたことではなく、家康のお膝元ならではの事業だったと言える。
(以下は発表者私見)
・では円光寺は図書館だったのか。円光寺については、出版記録はあっても、どんな本を持っていたかの記録がない。足利学校から秀次が持ち去った書籍も、後に足利に返されているので円光寺に置かれていた訳ではない。
・実は図書館でも学校でもなかったのではないか。
・一般的な学校と紹介される古記録は、正徳元年の『山州名跡志』。
・「伏見学校」という名前が登場するのは大正4年の『紀伊郡誌』。しかも「足利学校の一部を転移した伏見学校の跡」とはっきり書いている。この記述の派生過程は不詳。
・図書館資料を、NDCではなく利用者に分かりやすい配列で並べようという試みが最近ある。しかし分かりやすい配列とした時に、歴史学と歴史小説とが混配されることにならないか。
・一方でNDCが万能とは言えない。難点を挙げると、NDCは明治あたりで時が止まっている。田中角栄についての本はいつまで3門(社会科学)なのか。現在生きている多くの人にとっては2門(歴史)ではないのか。
・他にも、明らかに怪しげな本が歴史に分類されているケースも見る。本当にカタロガーは専門性を発揮しているのか。
・市町村史、特に大正や昭和初期等に書かれたものの中には、記録の典拠明示をせずに伝承と混同して記述しているものがある。批判的検証が必要。
・それでは、図書館史における伏見円光寺とは何だったか。家康が築いた文教政策の産物であり、後の時代のプロトタイプとなった。いわゆる近世以降の図書館の定義にはとうてい達していないが、その前段階で基礎をなしたもの。
・伏見の酒造業はいつから盛んになったか。→実は江戸時代にはそれほど盛んでなかった。京都に出回っていたのは伊丹の酒が中心。明治になって月桂冠などが近代的な醸造技術を取り入れたこと、深草に陸軍第十六師団部隊が置かれたことにより、伏見の酒が全国に広まった。
・家康が駿府に移ってから駿河版に移行したというが、江戸駿府にも元佶はついて行ったのか。→元佶はついていっていない。
・図書館の分類は、その本が主張することを受け入れるのが基本。歴史本として怪しいものであっても、せいぜいノンフィクションとせざるを得ない。NDCというよりは分類の根本的な問題。
・篭谷論文自体の信頼性は?→発表では紹介できなかったが、論文は当時の信頼に足る「鹿苑日録」や「言経卿記」などの内容を丹念に検証して順序だてて論述されている。近世学校としての要件を持っていたとする記述がある一次史料がみつけられていないことについても言及している。
・円光寺では日頃講義ではなく、本を作っていたのだとしたら、学術機関と言えるのか。→当時の図書出版はまだ商業活動ではなく、学術的な行為と考える。
終了後、懇親会が行われた。
「近世伏見学校とは」
日時:2014年6月7日(土) 14:00-17:00
会場:京都商工会議所 第一会議室
発表者:若林正博氏
参加者数:9名
当日の出席者によるtwitter上のつぶやきをまとめたものはこちら
0.はじめに
・伏見学校は、淡交社『京都大事典』によれば「徳川家康が伏見泰長老に設立した僧俗のための学校。慶長6(1601)年に、もと足利学校第9世校長閑室元佶(かんしつげんけつ)を招いて開校」等と説明されている。・閑室元佶は家康から与えられた木活字10万本を使い、慶長11年までに8点80万冊の書物を印刷した。閑室元佶のために伏見学校と同時に開かれたとされる円光寺にちなんで円光寺版、あるいは伏見版という。
・ただし本日の話は木活字版のことではなく、伏見学校に近世の図書館としての機能があったかという点を見ていく。
1.伏見について
・伏見の郷土史を研究する立場から、このテーマに興味を持った。・郷土史研究はどこの図書館でもされている。その場合、教科書に載るメインの日本史に対して、その頃自分たちの地元はどうだったかというスタンスになりがち。しかし伏見の場合には地元の歴史が、まさに秀吉や家康の出てくる日本史と重なっている。
・伏見の地理について。慶長当時は丘の上に城があり、南側には諏訪湖と同じくらいの大きさの巨椋池(おぐらいけ)が広がる。大阪・奈良・京都に通じ、淀川の水運がつながる交通の要衝。
・秀吉はここに城を設けた。秀吉の治世には大阪のイメージがあるが、晩年は伏見で政務を執った。言わば首都。城を中心に、周りに武家屋敷があり、さらに周りに町人が住む街づくりは、伏見が江戸のモデルとなっている。
・慶長3(1598)年の秀吉没後、家康の将軍宣下までに5年間空く。その間形式的には豊臣秀頼が天下人であり、関ヶ原の戦いも形式的には豊臣の家来同士の争い。
・家康の子ども16人のうち、4人が成人として伏見と何らかの関わりを持ち、5人は伏見で生まれている。家康が天下人になる過程でも伏見が重要な場所となっており、天下人になった後も将軍職を退くまでの7年間伏見で政務を執った。実質的には、伏見に幕府ができていたとも言える。
・ちなみに他の時代のことを言うと、室町時代には伏見宮貞成親王が住んでいた。近代の皇族の血統はすべてこの人の系譜。貞成親王の日記『看聞日記』は、当時の出来事が克明に分かる重要な史料。陵墓は伏見の町の真ん中にある。
・また幕末には、鳥羽伏見の戦いのうち、伏見の戦いは伏見市中での市街戦。
・近代に入り、水運よりも鉄道の方が盛んになったことと、遷都により京都が寂れたことで、伏見もいったん衰える。しかし明治天皇陵が桃山に造られたことにより、陵墓巡拝の人々が全国から訪れるようになる。
2.円光寺と円光寺版(伏見版)について
・伏見に政権の中心があった頃に円光寺ができた。言わば政権のお膝元に作られた学術機関。・近藤重蔵『右文故事』によれば、近世初頭に朝鮮より伝来した銅板活字が大きく影響。銅は鋳造が難しいので木で作るようになり、木活字版がブームを迎える。円光寺で刷られた書物は、木活字という当時最新の技術を使っていた。
・ただし後の時代を見ると、木活字版は長続きしない。江戸時代には読者が爆発的に増加したが、木活字は大量反復の印刷に適さないため、板木を使った印刷が盛んになっていく。
・円光寺の跡は不明。碑なども無い。現在の桃山町立売、桃山町鍋島付近にあったと言われている。
・円光寺を作った閑室元佶は、足利学校の第9世庠主。足利学校は北条氏が庇護者となっていた学校で、蔵書を多く持っていた。1590年、小田原の北条氏滅亡により庇護者がいなくなる。足利学校の蔵書は豊臣秀次により京都へ持ち去られ、閑室元佶も一緒に京都に来た。蔵書はのちに家康の仲介で足利に戻されるが、元佶自身は家康の学術顧問となる。
・秀吉の死後、家康が元佶に10万個の活字を与え、伏見で木活字印刷を始めさせる。関ヶ原の合戦以後に、伏見に円光寺が創建される。
・伏見版については、川瀬一馬『古活字版之研究』に詳しい。木活字の起源を朝鮮と断定。
・元佶が与えられた活字のうち、912個を京都府立総合資料館で所蔵している(参考文献:「円光寺所蔵伏見版木活字関係歴史資料調査報告書」)。
・伏見版で出版された書物は兵法書や歴史関係が多い。『東鑑』はかな文字入り。
・1607年に家康が拠点を駿河に移すと、伏見版の刊行もなくなり駿河版に移行。このことからも、元佶が勝手にやっていたことではなく、家康のお膝元ならではの事業だったと言える。
3.円光寺は学校だったか
・篭谷真智子「円光寺学校の研究」によると、「鹿苑日録」などの日記に登場する「学校」という呼称は、閑室元佶本人を指すことが多い。つまり元佶個人を指す「学校」という呼称が円光寺=近世の学校と理解され、誤った解釈がされたのではないか。一方で円光寺の日記を見ると、常設の教育機関というよりは色々な知識人が出入りするサロン的空間だったと考えられる。(以下は発表者私見)
・では円光寺は図書館だったのか。円光寺については、出版記録はあっても、どんな本を持っていたかの記録がない。足利学校から秀次が持ち去った書籍も、後に足利に返されているので円光寺に置かれていた訳ではない。
・実は図書館でも学校でもなかったのではないか。
・一般的な学校と紹介される古記録は、正徳元年の『山州名跡志』。
・「伏見学校」という名前が登場するのは大正4年の『紀伊郡誌』。しかも「足利学校の一部を転移した伏見学校の跡」とはっきり書いている。この記述の派生過程は不詳。
4.新説と通説の関係
・脇にそれるが、京都は文化財が多いため空襲のターゲットから外された、という通説がある。吉田守男『京都に原爆を投下せよ』ではその通説を否定。きちんとした論考であり、妥当だと考える。しかしこの話を知人にした時には、フィクション小説と同列の仮説として受け止められた。・図書館資料を、NDCではなく利用者に分かりやすい配列で並べようという試みが最近ある。しかし分かりやすい配列とした時に、歴史学と歴史小説とが混配されることにならないか。
・一方でNDCが万能とは言えない。難点を挙げると、NDCは明治あたりで時が止まっている。田中角栄についての本はいつまで3門(社会科学)なのか。現在生きている多くの人にとっては2門(歴史)ではないのか。
・他にも、明らかに怪しげな本が歴史に分類されているケースも見る。本当にカタロガーは専門性を発揮しているのか。
5.結び
・通説を覆すような研究者の論文が広く認知されていくことが望ましい。・市町村史、特に大正や昭和初期等に書かれたものの中には、記録の典拠明示をせずに伝承と混同して記述しているものがある。批判的検証が必要。
・それでは、図書館史における伏見円光寺とは何だったか。家康が築いた文教政策の産物であり、後の時代のプロトタイプとなった。いわゆる近世以降の図書館の定義にはとうてい達していないが、その前段階で基礎をなしたもの。
質疑
・当時の大名の参勤交代の京都伏見間の交通手段は?→陸路。西日本の大名が参勤交代で江戸に向かう時にも大阪から船で伏見に着き、陸路、京を通らずに醍醐山科から大津へ抜けて東へ向かう。京都に足を踏み入れると朝廷へご機嫌伺いしなくてはならないし、ご機嫌伺いの仕方がまずければ朝廷に接近しすぎているように見えて幕府から睨まれる。・伏見の酒造業はいつから盛んになったか。→実は江戸時代にはそれほど盛んでなかった。京都に出回っていたのは伊丹の酒が中心。明治になって月桂冠などが近代的な醸造技術を取り入れたこと、深草に陸軍第十六師団部隊が置かれたことにより、伏見の酒が全国に広まった。
・家康が駿府に移ってから駿河版に移行したというが、江戸駿府にも元佶はついて行ったのか。→元佶はついていっていない。
・図書館の分類は、その本が主張することを受け入れるのが基本。歴史本として怪しいものであっても、せいぜいノンフィクションとせざるを得ない。NDCというよりは分類の根本的な問題。
・篭谷論文自体の信頼性は?→発表では紹介できなかったが、論文は当時の信頼に足る「鹿苑日録」や「言経卿記」などの内容を丹念に検証して順序だてて論述されている。近世学校としての要件を持っていたとする記述がある一次史料がみつけられていないことについても言及している。
・円光寺では日頃講義ではなく、本を作っていたのだとしたら、学術機関と言えるのか。→当時の図書出版はまだ商業活動ではなく、学術的な行為と考える。
終了後、懇親会が行われた。
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