石井敦「民衆のサービスに徹した人:佐野友三郎」
日時:2011年9月11日(日) 14:00-17:00
会場:京都商工会議所第一会議室
発表者:佐藤久美子
出席者:12名
今回の発表では、日本公共図書館史のなかで続々と先進的なサービス導入に尽くしたとされる佐野友三郎(1864~1920)について、年譜を中心に佐藤氏から報告いただいた。佐野は前橋藩士の子として生まれ、群馬中学を卒業後、東京大学(のち帝国大学)に入学するが、卒業試験に際し外国語の教師と折り合わずに中退。米沢・大分で中学校の教師をした後、台湾総督府民政局に事務館として赴任する。秋田県知事の武田千代三郎の抜擢で秋田図書館長に就任すると、巡回文庫や夜間開館等様々な改革に着手した(1900~1902)。さらに彼の手腕は1903年に山口図書館長に移ってからも発揮された。
とかく佐野は著作が多く、また、図書館史のなかで言及されることも多いが、個々の業績についての評価が多く、参加者からは今回やっと全体像がわかった、という声も聞かれた。
佐野についてはこちら(wikipedia)を
また、twitterによる当日のつぶやきのまとめはこちらをご参照ください。
主な質問・議論の要旨は以下のとおり。
- 佐野の仕事は非常に多岐にわたっているが、彼の主要な業績というと何になるだろうか。巡回文庫、開架、児童サービスといったところかという質問があり、分類も加えるべきとの意見が出た。
- 台湾総督府時代に行った調査業務経験が、佐野の文献収集に対する考えに大きく作用しているのではないか。佐野について書かれたもののなかには総督だった乃木希典や児玉源太郎らに可愛がられたという記述があるようだが、ほかに後藤新平とも縁があるのかもしれない(これについては、中京大学社会科学研究所から『領台書記の台湾社会』という資料集が出ており、そのなかに佐野の書いた報告書が収録されている旨、参加者から補足があった)
- 佐野は何故矢継ぎ早にこれだけ色々なことができたのか、という疑問が出、報告者から、文献には「性格に慎重なところがない人であった」という人物評があることも伝えられた。
- 何故佐野がこれだけの業績を挙げられたのか、という疑問について、テキストの石井氏は「確固たる図書館思想」を持っていたからだ、という。ところが佐野は図書館の素人として迎えられ、秋田でも地元の人の補佐なしではとても仕事が出来ない状態だったことが年譜からわかる。とすると佐野の図書館思想はいつ形成されたのか。論理が混乱していないか。佐野は思想家というより実務家であって、その人が試行錯誤しながら成功事例を積み重ねて理論を作ったというほうが、実態に即しているのではないか。佐野というと『米国図書館事情』が有名だが、佐野が実際に渡米するのは、田中稲城のように館長になる前に実地を見てくる形ではなくて、館長としての仕事が軌道に乗った第一次世界大戦中(佐野にとっては晩年)の事柄に属するので、いずれにせよ「確固たる図書館思想」から佐野を評価することは慎重になったほうがよいと思われる。
- 石井敦氏による評価を要約すると、佐野は後進地域で、貧農やプロレタリアではない層に向けてサービスしたから成功した、と書いてあるが妥当なのかという疑問が出され、石井氏の見解についてはその後山口源治郎による批判が出、両者の間で意見のやり取りがあったと補足があった。
- 後に共産党幹部となった長男佐野文夫の行状について、資料が法政大学図書館に残されており、佐野の旧蔵書も一部あるらしいという情報が寄せられた(『日本図書館文化史研究会ニューズレター』103号に、同文庫について発表された小川徹氏の報告要旨が掲載されています。9/17追記しました。K_y0ne1さん情報ありがとうございました)。また、佐野文夫と菊池寛との関わりについても質問が出た。
- 佐野の交友関係について。和田万吉や太田為三郎と同級生だったというが、日図協などで交流しているのかどうか。また亡くなったときの追悼文を沢柳政太郎が書いているが、図書館関係者では誰か書いていないのか。佐野は田中稲城に師事して色々指導を受けている関係で、手紙なども残っているようで親しさが伺われる。
- 佐野の思想に関連して、そもそも日本の図書館界では何故これほどまでにアメリカを参照軸とするのか。何故選ばれたのか。という大きな疑問が出され、意見交換がなされた。
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