2012年4月17日火曜日

第12回勉強会(2012年4月15日)報告

『図書館を育てた人々 日本編I』を読む(7)
中里龍瑛「東大図書館の復興に尽力:植松安」

日時:2012年4月15日(日) 14:00-17:00
会場:京都商工会議所第一会議室
発表者:服部智
出席者:10名

今回はテキストから、東京帝国大学附属図書館の司書官だった植松安を取り上げ、輪読を行った。当日のtwitterによるつぶやきをまとめたまとめはこちら


0.植松安の略歴

・1885(明治18)年生、1908(明治41)年に東京帝大卒。同年は東京帝大の大学官制が改正され、初めて司書官職が図書館に置かれた年でもある。
・1914(大正3)年に東京帝大文科大学で助教授兼司書官となる。1920(大正9)年に日本図書館協会副会長に就任、この時の会長は今澤慈海。
・1921(大正10)年より一年間の海外出張。各地の図書館を視察し『図書館雑誌』に寄稿。
・1923(大正12年)9月の関東大震災にて東大図書館は壊滅的な被害を受け、植松は姉崎館長の元で復興に尽力。また南葵文庫の東大図書館寄贈に関わる。
・1929(昭和4)年に台北帝大文政学部講師として赴任、翌年教授となり、国語学・国文学を担当。
・1946(昭和21)年、台北から日本へ引き揚げる船中にて死去。

1.東京帝大時代の植松
・東京帝国大学図書館の人々が主体となった書物同好会に関わる。1925(大正14)年に『書誌』を発刊。なおこの雑誌は途中で出版社が変わっているが、編集方針等を巡りトラブルがあったため。
・上代の国文学者として、神宮文庫本古事記裏書の解説をしたりしていた。また東大図書館に寄贈された本居文庫に関心が高かった。背景として、植松の曽祖父が本居宣長の門弟であったという先祖の縁も考えられる。
・植松、山田珠樹、田中敬らが帝大の目録規則の基礎を作成。東京帝大図書館では和漢書の基本カードを事務用にしていた。これは植松の考えによるといわれる。植松が去った後、山田司書官が書名カードを著者名カードに書き換えたため、書名からの利用ができなくなり不便な状態となった。現在も東大の総合図書館参考室にあるカードは著者名カードのみ。同館には現在も、和田万吉や植松が関わった目録の名残が随所に見られる。

【質疑・コメント】
  • 植松の一年間の海外出張は、東京帝大図書館としての業務だったのか。→【発表者】不明。帰国した時の歓迎会を日本図書館協会で開催しているので、そちらの業務だったのかも知れないが、団体の仕事で一年も外遊できるものか。

2.ローマ字普及活動
・植松はローマ字普及推進者であった。全編ローマ字で書かれた著書などがNDLに所蔵されている。漢字の方が目録カード作成の際の労力が大きい、検索しにくい、意味を理解しにくいといった理由。「普通の図書館(public library)ではいかなる知識階級の人も相手にしなければならないのですから、これに対してはどうしても出来るだけ簡単な文字、紛れやすくない音順というものを用いねばならぬ」との言あり。1936(昭和11)年には賀茂真淵の墓前に『ローマ字万葉集』を供えた。


3.和田万吉との関係

・日本図書館協会の仕事を共にするなど、当時東京帝大図書館長であった和田にとって腹心の部下と言える。ただし和田の方は今澤慈海宛の書簡で植松を「狡獪」と評し、不信感を持っていた節もある。
・1923(大正12)年の関東大震災で、和田は被災の責任をとって図書館長を退職。この頃の今澤慈海宛書簡で、和田は植松が震災前後の混乱に乗じて自分を放逐したという趣旨をほのめかせ、怒りを露わにしている。

【質疑・コメント等】
  • テキストに載る植松のエピソードからは豪快な人柄が伺え、几帳面な和田万吉とは合わなかったのではないか。
  • 東京帝大図書館長交代の経緯。震災の時植松は現場におり、資料の救出などに尽力したと自ら書き記している。いっぽう和田はその場にいなかったことで責任を問われることになった。代わって館長となった姉崎正治は図書館商議会の筆頭であり、国際的知名度もあった。震災を受けての外国からの支援申し出に対応する意味でも姉崎が相応しかったと思われる。
  • 姉崎館長のもとで植松がどのような仕事をしたかは資料がなく、良く分からない。
  • 今澤と和田のやりとりした書簡は何故残ったのか?→今澤死去の後、未亡人から都立中央図書館に預けられたもの。日本図書館協会百年史を作る時に集められた資料の一部でもある。
  • このあたりの経緯は薄久代『色のない地球儀』(同時代社、1987)に詳しい。薄さんが東大の文書を整理して戦前の東大図書館について書いたもの。これらの文書は「東大図書館史資料目録」に掲載。東大百年史の図書館の項目執筆にも関わっていたはず。
  • 南葵文庫寄贈の時点では、徳川頼倫(日本図書館協会総裁)と和田と植松の関係は悪くなかったということか。→【発表者】徳川との関係については分からない。
  • 和田万吉は有力者なので、関係が悪化してから一年ぐらいの間は植松を日本図書館協会の中枢から外そうとしていた形跡がある。しかし和田以外の周囲はさほど悪感情もなく、業界全体において植松が孤立していた訳ではないかもしれない。
  • なお震災後、日本図書館協会の主導権が一時関西に移っている。大阪府立図書館長の今井貫一が理事になり、図書館雑誌の編集を間宮不二雄が行っていた。

4.台湾時代の植松安

・昭和4年に台湾に渡るまでの間の植松の活動は不明。休職したりしている。
・台湾での植松は国立台湾大学中央図書館で「蜻蛉日記」の新写本を発見、蜻蛉日記の注釈を行っていたが、中断した。上代国文学者である植松がなぜ「蜻蛉日記」に興味をもったのかは不明。中断した理由は、植松と同じ手法で喜多義勇が多大な成果を上げていたことから、敵わないと思ったのかもしれない。
・上記のような国文学関係の仕事と並行して、「忠君愛国」者としての著述活動を行う。特に昭和10年代からは思想的活動の方が目立つ。
・1933(昭和8)年、台湾日日新報社長河村徹と植松とのラジオ放送を機に台湾愛書会が発足。「書誌学を中心としての諸種の研究、並に大衆教化」を目的に、展覧会や講演会などを開催していた。会誌『愛書』は国立国会図書館のデジタル化資料にも入っている。

【質疑・コメント等】
  • 参考文献に挙げられた国文学関係の植松の著作を見るとあまり統一感がなく、興味の赴くまま色々なことを研究していたのではないか。
  • 植松のローマ字推進と、忠君愛国主義には接点があったのか。→【発表者】日本語を世界に広めたいという姿勢は感じられる。1916の雑誌記事『図書館とローマ字』でもそのような記述がある。ただし森有礼の英語国語化については批判しており、言葉そのものを置き換えようという考えとは一線を画している。
  • 戦前の図書館関係者にはローマ字推進を唱えた人物が多かった。代表的なのは間宮不二雄。この人物が関西の若手図書館職員を集めて作った青年図書館員連盟は、当時、日本図書館協会への対抗意識があったといわれる。日本図書館協会に属していた植松が、ローマ字推進を通じて間宮につながっていたとすると面白い。
  • 植松が忠君愛国主義に傾いていった時期である昭和10年は、美濃部達吉の天皇機関説事件があり、岡田内閣が国会で国体明徴声明を出した。思想史上大きなターニングポイントとなった年。これ以後、特に公職にある人の言論には大きな影響が出てくるので、植松個人の問題かどうかは慎重な評価が必要。
  • 当時の台北大学図書館の蔵書構成はどのようなものだったのか。現在日本では散逸してしまい、台湾でだけ残されているといった資料はないか。また、総督府との蔵書の違いは。→【会場】日本書紀の古い本や、蜻蛉日記等が発見されている。九州大学の中野三敏と松原孝俊が科研費での調査を行っている。中野の著書『和本のすすめ』でも言及があった。
  • <参考:cinii図書 - 台湾大学所蔵日本古典籍調査
  • <参考:台湾大学所蔵和本善本目録の刊行について
  • <参考:台湾大学図書館所蔵の日本研究文献から見た日本殖民史
  • 台北大学では学位授与などはされたのか。→【発表者】不明。ただ、台湾の人が日本文化について書いたものに植松は序文を寄せたりしている。

5.植松安の最期
【質疑・コメント等】
  • 植松は米軍のLST(戦車揚陸艦)で引揚げる途中の船内で息を引きとった。LSTは構造上、衝撃が強いので、病身の植松には過酷だっただろう。
  • 植松の亡くなったのは1946年3月23日であり、終戦後半年くらいは生きていた。その間の著述で、思想の転向などは見られるか。→【発表者】探した範囲では1940年以降の著述はない。


終了後は懇親会が開かれた。

2012年3月28日水曜日

第12回勉強会のお知らせ

事務局2号です。
ご連絡が遅くなってしまい、申し訳ありません、

下記の日程で、第12回の勉強会を開催いたします。
御多忙のところと存じますが、ご参加をお待ちしております。

日時:4月15日(日) 14:00~
会場:京都商工会議所第一会議室
テキスト

図書館を育てた人々. 日本編 1 / 石井敦. -- 日本図書館協会, 1983.6
http://opac.ndl.go.jp/recordid/000001644230/jpn
http://webcat.nii.ac.jp/cgi-bin/shsproc?id=BN01584842

から、「植松安」を取り上げます。
報告者:服部 智氏

参加ご希望の方は、事務局<toshokanshi.kansai @ gmail.com(@は半角)>までご一報ください。
twitterアカウント@k_context宛にご連絡いただいても構いません。
どうぞよろしくお願いいたします。

(4/2 会場確定しました)
(4/8 申込方法追記しました)

2012年2月28日火曜日

第11回勉強会(2012年2月26日)報告

「日本近代文学館が設立された頃の話:今から半世紀くらい前に文学資料の未来を考えていた人々がその頃にいったい何をしていたのか」
日時:2012年2月26日(日) 14:00〜17:00
会場:京都市勧業館みやこめっせ第3多目的室
発表者:岡野裕行氏(皇學館大学文学部国文学科助教)


今回の発表では、岡野裕行「内なるMLA連携―日本近代文学館」NPO知的資源イニシアティブ編『デジタル文化資源の活用』(勉誠出版、2011)所収の内容を踏まえ、日本近代文学館設立に関わった様々な人々の考え方、協力の仕方が紹介された。

当日の関連するつぶやきをまとめたtogetterはこちらを参照

参考:日本近代文学館ホームページ



はじめに発表者から、どうして文学館の問題に取り組むようになったのか、自己紹介を兼ねた説明があった。図書館と文学をつなぐ視点を模索してきたという発表者は、はじめ書誌学(個人書誌)の作成を軸に研究活動を行ってきたが、より図書館に即した視点を考えているうちに、調査で利用していた文学館の機能そのものに注目するようになったという。文学館は博物館の一形態とみなされることもあるが、図書館の機能、アーカイブズの機能も備えている。発表者は2009年に文学館研究会も立ち上げ、文学資料の所在調査を行なってきたという。ここ最近は文学散歩、まちあるき、まちづくりというように、文学というテーマをもとにして、地域社会における文化情報資源の活用にも関心を拡げているとのことである。



以下、発表の内容である。発表は、日本近代文学館の歴史に沿って進められ、大きく分けて、設立の背景、初期の活動、サービスの順に展開していった。

日本近代文学館は、1962年に設立され、1967年に開館した。それまでも文学者を顕彰する形で、記念館は設立されていたが、固有名詞として「文学館」という名称を持つ施設はこれが初めてであり、以後全国に同じような施設が普及していった。なお、当初「プロレタリア文学図書館」「近代文学図書館」などの名称が考えられていたことに示されるように、そもそも文学館は図書館としての機能を期待されていた部分があった。また、プロレタリア文学の資料がもっとも散逸しやすかったということで、逆に資料保存の機運が高まっていたことも興味深い。


(文学館設立の背景)
文学館設立の背景になったのは、1961年に立教大学の小田切進研究室が学園祭で行った「大正昭和主要文芸雑誌展」である。文芸雑誌をまとまった形で見ることができなかった時期に、雑誌を集めて展示することは大きなインパクトがあった。ここから文芸雑誌など散逸しやすい資料収集保存が必要との問題意識が生まれ、文学館設立に向けた動きが進められていく。主な活動の中心となった人物は、小田切進と、川端康成そして高見順だった。


(活動初期の協力者)

文学館の設立には、多くの理解と協力・連携が必要不可欠であった。

文学館の設立にあたっては、学界・文壇・作家の遺族・出版業界・古書店業界・マスコミ・図書館業界・政財界さらに百貨店業界の協力があった。文壇関係者では、高見順・伊藤整らは、自らが文学の歴史を編んだ経験から、文学館設立の必要を認識しており、川端康成は、とくに広告塔として各方面への助力に奔走したとされる。初代理事長になった高見も、病をおして文学館設立の必要を訴え続け、その姿がマスコミに取り上げられることにより、設立の機運を醸成した。また、古書店業界からは、本郷・ペリカン書房の品川力が、文学館の意義を認めて商品を寄贈するという破格の協力を申し出た例もあった。品川力文庫目録として彼の資料は今も文学館に大切に残されている。

また、文学館がまだ竣工していない1964年の時点で、活動の意義が認められ菊池寛賞を受賞し、マスコミに大きく取り上げられたことが、決して順調ではなかった文学館設立への追い風になったと、当時を知る人は回顧している。また、文学館の建物が駒場に経つ以前には、日本近代文学館文庫が1964年に国立国会図書館支部上野図書館の片隅に開設された。このとき、森清をはじめとする整理担当職員が協力して、「日本近代文学館分類法」を作成している。同じ時期には、文学館では百貨店と連携しての展示活動なども積極的に行っていた。


(初期の文学館職員と図書館的業務)

活動初期の図書館的業務を担う職員として、約10年の現場経験を持つ大久保乙彦という人物が、都立日比谷図書館から移籍してきた。文学館が文学研究のための専門図書館を目指そうとする際に、専門知識を持つ職員が必要とされたため、設立運動関係者の一人と学生時代のからの友人であった大久保に白羽の矢が立った。(岡野裕行「文学館業務を形作った図書館職員・大久保乙彦の活動:1960年代の都立日比谷図書館と日本近代文学館」『第57回日本図書館情報学会研究大会発表要綱』2009,p.57-60)

文学館は、そのサービスとして資料提供と展示などの活動を中心に行っているが、そのほかにも初版本の復刻事業を積極的に行っていった。これらは図書館などの施設だけでなく、高度成長期のなかで家庭向けにもかなりの数が売れ、初期の文学館の財政面を助けたと考えられる。


主な質疑とその応答は以下の通り 。

  • 【会場】「文学館」の名前が出て来た経緯は面白い。スタッフに図書館の人もいるのに、なぜ最終的に図書館にしなかったのか?→【岡野】展示機能を重視するなど、図書館機能に収まらない部分が大きかったからだと思われる。なお、初期の関係者にプロレタリア文学研究の人が多く、図書館といって直ちに連想されるような公立の施設にはしたくなったということも考えられる(事務局注:日本近代文学館は設立当初から独立財政の施設であり、現在では公益財団法人の運営である)。
  • 【会場】図書館サービスと図書館の自己認識はつながっているように思うが、同じような意味で文学館サービスというものが一般的に考えられるのか?→【岡野】文学館の存在形態が多種多様であり、ケースバイケースのところはある。
  • 【会場】50~60年代の歴史学の分野で起こっていた資料保存の運動と、一連の動きとして捉えたら色々見えてくるものがあるのではないか。国文学研究資料館の設立の動きや、憲政資料室の一般公開、常民文化研究所、さらに学術会議の答申など。上から下までといっていいかわからないが、大きなうねりの中にあった出来事だと思う。
  • 【会場】『中小レポート』と同じ時期の話なのだけれど、あの経験が生きてハコがどんどん作られていったという通説はなく、実態はハコがあり、そのなかから成功事例が出て来たのではないかと思っている。今回の事例は、『中小レポート』の読み直しにも関わってくる気がして面白い。
  • 【会場】資料収集の基準は、開館当初と今では違うかもしれないし、また文学館がケースバイケースのところがあるので一般化できないかもしれないが、資料で見たとき、雑誌を重視するのか、作家の手紙を重視するのか、当初の方針ではどちらにウェイトがあったのか。→【岡野】何でも漏れなく集める方針だったと思う。ただし、複本をはじいたりせず、誰々が持っていた蔵書ということで、ある種原秩序のまま保存しようというアーカイブズ的な発想は当初からあった。→【会場】そのなかでもこれは文学館資料、これは要らないもの、という線引きは為されたはずで、捨てられてしまったものはもう確かめようがないかもしれないが、実はその部分が文学館のアイデンティティにも関わってくるのではないか。
  • 【会場】文学館の協力者たちのなかで、とくに事務員が主体性を発揮している様子が面白かった。彼らの思想がどういうものであったか、聞き取りや館の編集物を通じて掘り下げていったら、すでに質問が出たことにさらに色々な角度から光があてられると思う。

勉強会開始以来最高人数の出席者を得て、活発な議論が行われた。
終了後は懇親会が催された。

2012年1月8日日曜日

第11回勉強会のお知らせ

新年明けましておめでとうございます。
本年もどうぞよろしくお願いいたします。

さて、下記の日程で、第11回の勉強会を開催いたします。
御多忙のところと存じますが、ご参加をお待ちしております。

日時:2012年2月26日(日) 14:00~
会場:京都市勧業館みやこめっせ 第3多目的室
※通常の会場と異なりますのでご注意ください。
※会場へのアクセスはこちら。京都府立図書館の隣です。

今回は、テキストの輪読はありません。

発表者:岡野裕行氏(皇學館大学文学部国文学科助教)
タイトル:「日本近代文学館が設立された頃の話:今から半世紀くらい前に文学資料の未来を考えていた人々がその頃にいったい何をしていたのか」

会場費は参加者で割りたいと思いますのでご承知おきください。
差し入れ歓迎いたします。

参加ご希望の方は、事務局<toshokanshi.kansai @ gmail.com(@は半角)>までご一報いただけると助かります。
twitterアカウント@k_context宛にご連絡いただいても構いません。

※昨日の案内掲載後、早速多数の方から参加表明をいただきました。ありがとうございます。会場の都合により、多少狭くなる可能性がありますので、あらかじめご了承ください。(2011/1/9追記)

※先月中にいただいた参加ご希望が、会場の定員に達したため、次回の参加募集を終了させていただきます。事務局の不手際を深くお詫び申し上げます。当日の模様は、できる限り本ブログにも掲載したいと思いますので、ご理解いただきますよう、伏してお願い申し上げます。(2011/2/1追記)

どうぞよろしくお願いいたします。

2011年12月4日日曜日

第10回勉強会(2011年12月3日)報告

「書物としての三国志」
日時:2011年12月3日(土) 14:00〜17:00
会場:キャンパスプラザ京都第1演習室
発表者:長坂和茂

今回の発表では、日本で広く読まれている三国志について、正史の成立、演義の成立、各版本の系統から日本における受容まで、大きな視野から紹介がなされた。
当日の参加者を中心とするtwitterでの言及のまとめはこちらを参照。
以下に概要を紹介する。

零.前提知識
三国時代は184年の黄巾の乱から280年の呉滅亡までをいう。名目上は、229年孫権が皇帝を名乗り、呉を建国してからが三国時代ともいえるが、そこから234年の諸葛亮没まではわずかしかなく、三国志関係の創作ものはそれ以降をほとんどおまけとして扱う。見方によっては三国志のハイライトは、三国時代になる前にほとんど終わっているともいえる。三国志(正史)の撰者は晋の陳寿、これに劉宋の裴松子が注をつけた。紀伝体で書かれたものである。

一.陳寿本文について
三国志撰者である陳寿(ちんじゅ、233-297)は、元々蜀の人。蜀滅亡後に魏にわたり、魏晋革命により晋に仕える。生まれた翌年に諸葛亮が没しており、ほぼ同時代の歴史として三国志を編む。そのような立場なので、漢・魏・晋を正統の国として評価するが、曹操が不徳であることを示す為に、欠点のある人物として描く。劉備はかつて仕えていた国の人なので、悪く書けないが、蜀正統を打ち出す事も出来ない。孫権については、魏から見れば賊であり、蜀漢から見てもせいぜい同盟相手なので、呼び捨てにされている。司馬炎は今現在仕えている皇帝なので命にかかわるため批判が書けない、等々のバイアスがかかっていることを踏まえないといけない。ただ、その後唐代に書かれる晋書のような国家プロジェクトでなく、陳寿個人の著作として書かれたものでもあるので、避諱など厳密でないところもある。三国志は全65巻からなり、魏志が30巻、蜀志が15巻、呉志が20巻。

二.裴松子注について
裴松子(はいしょうし、372-451)はもともと魏に仕えていた一族で、西晋・東晋を経て劉宋に仕える。陳寿本文がごく簡潔な記述に止まるため、文帝から命じられて、裴松子が注の作成を命じた。裴松子注はとにかく資料を集めて引用するもので、引用した資料は200以上と言われる。またそのうちのほとんどが散逸してしまっている。引用元の書名か著者が書かれているので、引用されている記述のバイアスがある程度推測できる。また、出典が書いてあるので、『諸葛亮集』など、散逸した資料の復元に使われている。歴史小説の素材にもなる。後漢書で三国志と重複するものの出典を確認するために使う、等々の利点がある。

三.刊本について
三国志の現存する刊本で最も古いものは紹興本、紹熙本。このほか呉書だけだが、咸平本(実際は北宋末か南宋初頃と推定される)などがある。紹熙本は宮内庁書稜部所蔵(1~3巻を欠く)。咸平本呉書は静嘉堂文庫所蔵。なお中華民国期に編まれた百衲本二十四史では、書稜部の紹熙本が使用されている。なお、清代考証学の成果として色々な学者によって唱えられた説をまとめた三国志集解(しっかい)もある。

四.歴史から小説へ
三国志は六朝時代に入ると、老荘思想などの影響もあって小説・講談で語られるようになった。そうした講談の種本をまとめたのが三国志平話。中国で散逸してしまっていて、現在は内閣文庫にあるものが「天下の孤本」。このほか、関羽の架空の息子が活躍する花関索伝があり、これの発見によって、三国志演義の版本の研究が進む。民衆に人気があった。ここから、荒唐無稽な内容や、大幅に史実に反する内容を排除し、士大夫の読み物に仕立て上げたのが、羅漢中(らかんちゅう、生没年不詳。元末明初の人)の三国志演義である。

五.三国志演義の刊本
三国志演義の版本には、嘉靖本、周曰校本、李卓吾本、毛宗崗本(毛本)がある。毛本は、現在演義の翻訳として販売されているものの底本。また李卓吾本は、日本での湖南文山の通俗三国志の元となり、これが吉川英治、横山光輝を経て現在に流布している三国志イメージを作っている。日本人が知っている三国志エピソードを中国人が知らないのはこのためでもある。

六.日本における受容
三国志が中国語以外の言語に翻訳されたのは、清初の満州語訳が最初と言われるが、日本でも元禄年間に湖南文山が李卓吾本を底本として翻案・翻訳した『通俗三国志』が出された。毛本をもとに翻訳したのは1912年の久保天随による『新訳演義三国志』が初。1930年代の流行の背景には戦争の影響がある。また、1970年代の日中国交正常化の影響も大きい。横山光輝が、国交正常化でようやく資料が入ってきたため、関羽・張飛の武器の設定変更などを行なったのはその一例。1990年代には、ちくま文庫から正史が刊行されたため、ブームは演義から正史へ。サブカルとの融合も進みながら現在に至っている。

主な質疑とその応答は以下の通り。

  • 版本で一番古いものは原文のままなのかどうか。→最近、トルファンで発見された呉書の残巻など、晋~唐代ころのものと思われる巻と紹熙本を比較すると、若干異同があり、実は文字が少し変わっているのかもしれない。だが量が少なく、これからの研究にまつところが大きい。
  • 陳寿が蜀漢を重視しているのに、蜀志の巻数が一番少ないのは何故?→劉備が史官を置かず、記録が曖昧なのが原因。劉備流浪時代の記述が少なすぎる。曹操の不徳を批判し、蜀を讃えるならば、赤壁の戦いで曹操軍を破ったことなどアピールできるのに書かれていない。
  • 最古期の版本が日本にあるというのは、国内?世界的に見て?→これは世界的に見て。戦乱が続く中国で散逸してしまったものはかなりある。
  • 花関索伝で演義の研究が進んだというのは?→関羽の三男とされている関索が実在したのかどうかという長い論争に決着がついた。このほか演義に登場し、正史に登場しない人物が実在したのかしなかったのか、創作なのかどうかについても、研究が進んでいる。

このほか、サブカルへの融合を考えると、NHKの人形劇も重要では?といった意見も出された。
終了後は忘年会が行なれ、今年の関西文脈の会はマクロに始まりマクロに終わったという意見が出された。

2011年10月17日月曜日

第10回勉強会のお知らせ

下記の日程で、第10回の勉強会を開催いたします。
御多忙のところと存じますが、ご参加をお待ちしております。

日時:12月3日(土) 14:00~
会場:キャンパスプラザ京都 第1演習室
※会場へのアクセスはこちら

今回は、テキストの輪読はありません。

発表者:長坂和茂氏
タイトル:「書物としての三国志 -歴史(history)から物語(story)ができるまで-」


会場費は参加者で割りたいと思いますのでご承知おきください。
差し入れ歓迎いたします。

また、終了後、少し早いですが、
関西文脈の忘年会も合わせて行なえればと考えています。
土曜日は忙しいが夜の部だけでも…という方がいらっしゃいましたら
お気軽に事務局<toshokanshi.kansai @ gmail.com(@は半角)>までご相談ください。
(※メールアドレスを誤って記載していたため修正いたしました。大変申し訳ありませんでした)

twitterアカウント@k_context宛にご連絡いただいても構いません。

どうぞよろしくお願いいたします。

2011年9月12日月曜日

第9回勉強会(2011年9月11日)報告

『図書館を育てた人々 日本編I』を読む(6)
石井敦「民衆のサービスに徹した人:佐野友三郎」
日時:2011年9月11日(日) 14:00-17:00
会場:京都商工会議所第一会議室
発表者:佐藤久美子
出席者:12名

今回の発表では、日本公共図書館史のなかで続々と先進的なサービス導入に尽くしたとされる佐野友三郎(1864~1920)について、年譜を中心に佐藤氏から報告いただいた。佐野は前橋藩士の子として生まれ、群馬中学を卒業後、東京大学(のち帝国大学)に入学するが、卒業試験に際し外国語の教師と折り合わずに中退。米沢・大分で中学校の教師をした後、台湾総督府民政局に事務館として赴任する。秋田県知事の武田千代三郎の抜擢で秋田図書館長に就任すると、巡回文庫や夜間開館等様々な改革に着手した(1900~1902)。さらに彼の手腕は1903年に山口図書館長に移ってからも発揮された。
とかく佐野は著作が多く、また、図書館史のなかで言及されることも多いが、個々の業績についての評価が多く、参加者からは今回やっと全体像がわかった、という声も聞かれた。
 佐野についてはこちら(wikipedia)
 また、twitterによる当日のつぶやきのまとめはこちらをご参照ください。

主な質問・議論の要旨は以下のとおり。
  • 佐野の仕事は非常に多岐にわたっているが、彼の主要な業績というと何になるだろうか。巡回文庫、開架、児童サービスといったところかという質問があり、分類も加えるべきとの意見が出た。
  • 台湾総督府時代に行った調査業務経験が、佐野の文献収集に対する考えに大きく作用しているのではないか。佐野について書かれたもののなかには総督だった乃木希典や児玉源太郎らに可愛がられたという記述があるようだが、ほかに後藤新平とも縁があるのかもしれない(これについては、中京大学社会科学研究所から『領台書記の台湾社会』という資料集が出ており、そのなかに佐野の書いた報告書が収録されている旨、参加者から補足があった)
  • 佐野は何故矢継ぎ早にこれだけ色々なことができたのか、という疑問が出、報告者から、文献には「性格に慎重なところがない人であった」という人物評があることも伝えられた。
  • 何故佐野がこれだけの業績を挙げられたのか、という疑問について、テキストの石井氏は「確固たる図書館思想」を持っていたからだ、という。ところが佐野は図書館の素人として迎えられ、秋田でも地元の人の補佐なしではとても仕事が出来ない状態だったことが年譜からわかる。とすると佐野の図書館思想はいつ形成されたのか。論理が混乱していないか。佐野は思想家というより実務家であって、その人が試行錯誤しながら成功事例を積み重ねて理論を作ったというほうが、実態に即しているのではないか。佐野というと『米国図書館事情』が有名だが、佐野が実際に渡米するのは、田中稲城のように館長になる前に実地を見てくる形ではなくて、館長としての仕事が軌道に乗った第一次世界大戦中(佐野にとっては晩年)の事柄に属するので、いずれにせよ「確固たる図書館思想」から佐野を評価することは慎重になったほうがよいと思われる。
  • 石井敦氏による評価を要約すると、佐野は後進地域で、貧農やプロレタリアではない層に向けてサービスしたから成功した、と書いてあるが妥当なのかという疑問が出され、石井氏の見解についてはその後山口源治郎による批判が出、両者の間で意見のやり取りがあったと補足があった。
  • 後に共産党幹部となった長男佐野文夫の行状について、資料が法政大学図書館に残されており、佐野の旧蔵書も一部あるらしいという情報が寄せられた(『日本図書館文化史研究会ニューズレター』103号に、同文庫について発表された小川徹氏の報告要旨が掲載されています。9/17追記しました。K_y0ne1さん情報ありがとうございました)。また、佐野文夫と菊池寛との関わりについても質問が出た。
  • 佐野の交友関係について。和田万吉や太田為三郎と同級生だったというが、日図協などで交流しているのかどうか。また亡くなったときの追悼文を沢柳政太郎が書いているが、図書館関係者では誰か書いていないのか。佐野は田中稲城に師事して色々指導を受けている関係で、手紙なども残っているようで親しさが伺われる。
  • 佐野の思想に関連して、そもそも日本の図書館界では何故これほどまでにアメリカを参照軸とするのか。何故選ばれたのか。という大きな疑問が出され、意見交換がなされた。
終了後は、懇親会が開催された。