2012年10月30日火曜日

第16回勉強会(2012年10月21日)報告

『図書館を育てた人々 日本編I』を読む(8)
岩猿敏雄「幅広い図書館学の研究者:田中敬」

日時:2012年10月21日(日) 14:00-17:00
会場:シェアハウス鍵屋荘
発表者:土出 郁子氏
出席者:11名

今回はテキストから、東北帝国大学附属図書館、大阪帝国大学附属図書館などに勤めた田中敬を取り上げ、輪読を行った。当日のtwitterによるつぶやきをまとめたまとめはこちら


0.田中敬の略歴
・明治13(1880)年、現在の篠山市に生まれる。
・明治44(1911)年、東北帝国大学の図書館に雇用される。
・昭和8(1933)年、大阪帝国大学附属図書館へ移る。
・昭和25(1950)年に京都大学・大阪大学を依頼免職。同年に新制大学として発足した近畿大学図書館に事務嘱託として入る。
・昭和33(1958)年死去。
・テキストによれば、明治以降の図書館関係のうちでも和田万吉、竹林熊彦と並んで論著の多い人物。しかし田中の図書学・図書館学上の業績はあまり中央に評価されてこなかったとする。


1.東北帝大時代
・田中の大学での専攻は中国哲学であった。図書館に関わるきっかけとなったのは、東北帝国大学の初代総長となった澤柳政太郎との出会いと思われる。
・大正7(1918)年、『図書館教育』を著す。図書館の目的は資料の利用増大であり、図書館は社会教育施設であると主張したもの。大正8(1913)年に日本図書館大会で澤柳が行った講演の影響が強く伺われる。
・また『図書館教育』では大量の外国文献が引かれており、猛勉強ぶりが窺える。「開架式(open shelf)」「参考司書(reference librarian)」などの訳語を作っている。我が国において実務からでなくライブラリサイエンスを志向した初めての書と言われる(岩猿)。カード目録を縦書きから横書きにすること、ローマ字表記の採用なども主張していた。
 参考:田中敬「図書館教育
・明治45(1912)頃、狩野亨吉の蔵書(狩野文庫)が東北帝大に受け入れられる。狩野亨吉とは教育者にして蔵書家であった人物。田中敬自身の回顧によると、当時国立の図書館は狩野の希望である全ての蔵書受入が不可能であった中、東北大はできたばかりで蔵書がなかったことに加え、総長の澤柳が狩野と中学で同級であった縁もあり、受け入れることになった。沢柳自身も仙台に国立図書館を作りたいといった希望があったようだ。当時で10万円くらいの額になる蔵書を3万円くらいで譲った。
 参考:狩野文庫画像DB


2.図書学への取り組みと和漢書目録
・東北帝大時代の田中は狩野文庫の整理に尽力。田中の追悼文などの記述からすると10年程かけて仕事をしていたらしい。その中にあった『景徳傳燈録』という書物の由来を調査したことをきっかけに、図書そのものの研究に打ち込んでいくこととなった。
・大正13(1924)年『図書学概論』を上梓。図書学とは「図書に関する一切の事項を研究する学問」と田中は定義。広義のbibliographyを意識しつつ、その範囲に含まれる事象を「学問」として系統立てて網羅的に記述。なお岩猿によればbibliographyは当初「書史学」と称されていた。「書誌学」という言葉になったのは大正末年頃。ちなみに後に長澤規矩也が司書講習の科目で「図書学」という言葉を再度使っている。
・昭和7(1932)年、『粘葉考 : 蝴蝶装と大和綴 上,下』刊行。大和綴と粘葉装は違うものであると主張。両方を体感できるよう、上は大和綴、下は粘葉装で作られている。狩野文庫の『景徳傳燈録』についても触れている。→現物を回覧。
『粘葉考』を出した頃が、田中がもっとも盛んに活動していた時期か。

・この頃、田中は和漢書目録編纂規則にも関わっていた。大正13(1924)年、帝国大学附属図書館協議会が発足。この協議会で和漢書目録編纂概則が議題となり、田中は植松安(当時、東京帝大司書官)とともに原案起草を委嘱された。『図書館雑誌』の記述を追うと、昭和3(1928)の第5回会議で委嘱があり、昭和4(1929)3月の委員会で原案が提示され、寄せられた意見の反映等を経て、第6回の会議で報告された模様。『図書館雑誌』によれば第5回までの会議は公表されなかったらしい。ただし京城帝大からの修正案の提出が遅れたこともあり最終決定に至らず、成案を公表したのは昭和17(1942)年ともいう。
・当時、日図協でも和漢図書目録法改訂事業を行っていた。元になるのは、明治26(1893)年に田中稲城の提議により作られた和漢書目録編纂規則。昭和5(1930)年に日図協内に「目録法調査委員会」が設置され、田中もこれに参加。当時の委員長は今井寛一であった。


3.大阪帝大時代

・昭和8(1933)年、田中は大阪帝国大学附属図書館へ移る。大阪大学五十年史によると、当時の大阪帝大には附属図書館と工学部分室があり、館長1名と司書2名といった少人数で運営。司書以外のスタッフをあわせると両館で14名であったという。
・なお大阪大学附属図書館にはまとまった通史がない。戦前の大阪帝大附属図書館の業績としては『大阪帝国大学雑誌目録』(昭和12(1937)年)、『大阪帝国大学洋書目録』(昭和17-8(1942-3)年、全3篇)、『大阪学術雑誌目録』(昭和19(1944)年)など。
・昭和7(1939)年には『和漢書目録法』を著す。日図協理事長松本喜一からの勧めによる。日図協との関係は常に良好であったようだ。
・戦中・戦後は、図書の形態・活字・版木等に関する執筆がほとんどとなる。その後、昭和23(1948)年には京都大学の講師も兼務。関西圏の大学で、図書館学(主に書誌学)を担任。


4.晩年
・昭和31(1956)年に、東洋大学より文学博士学位授与。その2年後の昭和33(1958)年、78歳で没した。
   参考:田中敬 博士論文「図書形態学と活版印刷発明史研究上へのその応用」

【質疑・コメント】
  • 27-8歳で東北帝大に行くまでの間の田中の履歴は書き残されていないか? →不明。田中が没した際、図書館雑誌で追悼特集が組まれたが、ここに書いているのも東北帝大の人でありそれ以前のことは分からない。なおそれと別に、平成元(1989)年に近畿大学の図書館報『香散見草』11号で、1987年の私立大学図書館協議会の研究会に田中の娘さんに来ていただいて話をしてもらったという記事があった。
  • 田中の人柄について分かることは? →追悼文によれば真面目で礼儀正しく、夜中の1-2時まで机に向かって仕事をしていた。近畿大学図書館長時代、部下の中に飲み屋に入り浸っている人がいて、大学までツケを取りに来られた。その際田中は「部下の不始末は上司の不始末であるから」と、自分のボーナスでツケを払ったというエピソードがある。
  • 中国哲学専攻だった田中が図書館に関わるきっかけとなった澤柳政太郎について。彼は戦前の教育や大学図書館を考えるのに外せない重要な人物。文部官僚の切れ者で、文化に関わる色々な制度の立ち上げに関わった。40代で東北大総長になり、2年ほどで京大に移ったが、教授を解雇しようとして反発を受けたため、辞めて成城大に行った。以後も影響力は持ち続けた。澤柳の資料は成城学園教育研究所に残されている。田中と親しかったのなら、書簡などもあるかもしれない。
  •    参考:澤柳政太郎について(成城学園教育研究所) 
  •    参考:沢柳政太郎研究 
  •    参考:成城学園沢柳研究会 沢柳研究双書
  • 田中は沢柳とのつながりが強かった当初は教育系の論考を書いているが、やがて図書系の要素が強くなっていく。狩野文庫に出会って変わったのかもしれない。
  •  (会場で回覧された大阪大学附属図書館所蔵の『粘葉考 : 蝴蝶装と大和綴 上,下』について)見返しに波多野重太郎から田中鉄三という人物への謹呈と記されている。波多野はこの本の出版者。田中鉄三は1925年に九州大学の司書であり、1939年に退職して陽明文庫に勤めた人物。この本が阪大に所蔵されるに至った経緯を知りたい。
  •    参考:「九州大学百年の宝物」余話
  • 昭和19(1944)年『大阪学術雑誌目録』について。これは大阪帝国大学と、阪神地区書大学の間の雑誌の所在を明確化し、特に科学技術資料の相互利用を目指したもの。田中の関与は不明。ただし田中は1948年に『総合目録編纂法覚書』という著作を残しており、総合目録の編纂にも関わっていたかもしれない。
  • 田中の著述は昭和10年代以降、図書学に急速に傾いていったように見えるが、総合目録に関わっていたとすると、そうした形で社会との関わりを持った活動もしていたと言える。1944年には「ソ連出版界の展望」という論文を書いているが、これなどもやや異色。
  • 1940年代、時局を反映して、自然科学系の専門学校や学部増設が増えた。科学系の資料の需要が跳ね上がるいっぽうで、肝心の資料は入ってこない。という状態。こうした資料不足に対応するために、戦後には専門図書館がたくさん立ち上がって協力体制ができた。特に大阪帝大のような理系の大学では厳しい状況だったはず。決裁文書の綴りなどが残っていれば何か分かるかもしれないが。
  • 昭和初期に大阪図書館に勤めていた人の自伝で、戦争中の一時期に科学情報の学習や共有を進める動きがあったと触れられていた記憶がある。この件と関係があるかもしれない。
  •    参考:回想のなかの図書館
  • 和漢書目録の原案について、京城大からストップがかかったという話があった。中野三敏『和本のすすめ』によれば台北大学には日本の古典籍がたくさんあるというが、京城にもあったのかもしれない。
  • 田中の著作を見ると、図書館としては思想家というより実務者であったという印象がある。書物展望社とのつながりが気になる。また昭和12(1937)年には台湾愛書会の雑誌『愛書』にも何度か寄稿している。とにかく本が好き、書痴というような人物像だったか。

  • 以前本会で取り上げた植松安が、田中と共に帝大附属図書館協議会の和漢書目録編纂概則の原案起草を委嘱されたのが昭和3(1928)年。その翌年に植松は台北へ渡っている。植松がいなくなったり、田中が所属を変わったりした関係で事業が進まなかったのでは。
  • 石上宅嗣卿顕彰会 編『石上宅嗣卿』で、顕彰碑の設立への寄付者一覧の中に田中の名前が出ていた。
  • 田中は大阪にもいたが、青年図書館員聯盟とのつながりが見られない。田中に限らず大阪帝大自体も青聯に関連して動きが見えないが、日図協とのつながりが強かったためか。


終了後、懇親会が開かれた。