2012年12月17日月曜日

第17回勉強会(2012年12月16日)報告

「長田史料について」
日時:2012年12月16日(日) 14:00-17:00
会場:京都商工会議所 第一会議室
発表者:門上 光夫氏
出席者:15名

 当日の出席者によるtwitter上のつぶやきをまとめたものはこちら

 今回は、十五年戦争期に大阪府立図書館長だった長田富作(おさだ・とみさく)が遺した図書館活動に関する史料を紹介していただいた。長田は広島高等師範学校卒業後、大阪府視学、大阪府立夕陽丘高等女学校長等を歴任した後昭和3年に大阪府立図書館司書となった。書誌学者で図書館学に関する著作はなく、また田島清『回想のなかの図書館』での評価も芳しくない。
 同史料群は長らく大阪府立中之島図書館に置かれていたが、発表者の門上氏が関わっていた『中之島百年』編纂時に使用された。書簡と文書に分かれ、文書については一通り整理が完了し、今回の報告となった。書簡については今後整理を進める予定だという。
 史料群は大阪府立図書館の庶務・展示会・貸出文庫関係、また大阪や近畿地方の連絡組織関係、日本図書館協会関係、中央図書館長協会関係のものが全480点存在している。
 報告では史料群のなかから、府立図書館出納手講習用に用いられた「図書館概論」や青年層のための国民精神総動員文庫関連の史料、戦地への「貸出」記録、読書会の史料、大阪文化施設協会の史料、日本図書館協会や中央図書館長協会関係の議事次第や名簿などがあることが紹介された。
 また、門上氏から、戦時期の図書館活動に関する一次史料の発掘をこれから進めていく必要があること、並びに戦時期の図書館活動を日本の近代の歴史の中にどう位置づけて行くかという点について問題提起がなされた。

主な質疑は以下のとおり。

  • 大阪の公文書が焼けてしまっている中で貴重なものと考えられるが、残存している分の公文書(起案文書等)とこの長田史料の文書は連動しているか。→公文書についてはいつどのようなものが作成されたか、年表も作って調査してみたが、長田史料に残っているものと時期的にズレており、府が発信して図書館で受信した(あるいはその逆)のような関連性は長田史料のなかからは認められないように思う。なお庶務関係文書は人事や給与、施設などお金が絡むものが中心で、これで全部というわけではない。
  • この史料群を、長田「史料」として命名してよいか。出所などはどうなっているか。→命名は『中之島百年』編纂以来のもの。元々長田の退任後に風呂敷包にくるんで別置してあったものなので、他のグループからの混入はなく、比較的まとまった塊だと考える。
  • 未整理の書簡の点数は何点くらい?→残念ながらまだ確定できていないが、段ボール何箱というような量の多さではない。
  • 読書会の例で山田村が挙げられているが、ここは戦前争議が多かった地域で、『吹田市史』にも数多く史料発掘されているはず。見ると関連のものが出てくるかもしれない。
  • 戦時期の「発明文献」展示会は、前回阪大の田中敬についての報告でも似た話が出てきた。阪大と何か連動した企画などはあるのか。→今のところわからない。
  • 大阪市が作った『町会文庫』が入っている。この頃の府と市の関係は?また文化施設の連絡という点で、前任の今井館長は退任した後美術館長になっていたと思うが、何か長田さん以外の人の動きが見えてくる史料はあるか。→府市の連絡は不明。中央図書館に指定されたあとも各館にどういうことをやっていたか具体的にわかるものは発見できていない。今井貫一はこの当時亡くなっているので今井さんが動いたということはないが、今後も調べてみる。
  • 文化施設の連絡というのは、あまり聞いたことが無い、東京や京都のような大都市ではやっていないと思う。大阪独自という可能性もあるので、史料的な価値は高そう。
  • 大阪文化施設協会が面白い。文化講演会のお知らせ(プログラム?)があるようだが、どんな人が呼ばれていたのか。それによって同会の性格付けはできるか?→大阪商科大学長で経済学者の本庄栄治郎などを呼んでいる。地元の人を招いている。
  • 戦時下の巡回文庫に独自性があるとしたら、従来来なかった層に閲覧させていたということになると思うが、在郷軍人会とか、そういうところに本が行っていたのか。→来館出来ない層に届けるという面は確かにあり。戦時下はとくに就労すべき「青年層」の補修機能を強調している。
そのほか、こういった史料を書庫で見つけたらどうしたらよいかについて、様々な意見交換がなされた。
終了後は忘年会が催された。

2012年11月30日金曜日

文脈の会 東西合同合宿(2012年11月3日~4日)報告

日時:2012年11月3日(土)~4日(日)
会場:金沢文圃閣(石川県金沢市)
出席者:16名(東京11名、関西5名)

東京と関西に拠点をもちそれぞれ活動している文脈の会メンバーの親睦と研鑽を目的として、初の合宿を開催した。場所は図書館史・出版史・書誌学に関する精力的な出版を行なっている金沢文圃閣・田川氏のご厚意により、同店内の一角をお借りして実施した。
東西文脈の会から報告者を選び、以下に掲載する4本の報告が行われた。


◎徳川頼倫の人間関係(長坂和茂氏)

 紀州徳川家第15代当主・徳川頼倫(1872-1925)の人間関係について、図書館界との関わりを中心に報告がなされた。

頼倫は田安徳川家に生まれ、1880年に紀州徳川家当主・徳川茂承の養子となり、1890年に茂承の長女久子と結婚した。その後英国留学を経験し、1906年に茂承が亡くなると紀州徳川家当主となった。紀州徳川家当主となる前に南葵文庫を建設、当主となってからは史蹟名勝天然紀念物保存協会会長、日本図書館協会総裁、聖徳太子一千三百年遠忌奉賛会会長等を務め、様々な団体の設立・運営に携わった。

 頼倫は自らが南葵文庫を設立する一方、日本文庫協会の協会基金に寄附をしたり、全国図書館大会を南葵文庫で開催するなど、草創期の日本文庫協会(日本図書館協会)の有力な協力者であった。1923年に起きた関東大震災で東京帝大図書館の蔵書が焼失すると、頼倫は南葵文庫の蔵書を帝大図書館に寄贈し、文庫を閉館する。また同年12月に頼倫は5万円を日本図書館協会に拠出し、協会は毎年3千円の利子を受け取る約束を結んだ。

1925年に頼倫が亡くなった後、協会と紀州徳川家との関係は微妙なものになってゆく。紀州徳川家は震災の影響による地代収入の減少と1927年に十五銀行が破綻したこと等により、家の財政が窮迫していた。1931年に協会は社団法人に改組し、その際頼倫より寄附された5万円を基本財産として取り込む。ところが徳川家よりこの5万円の引き上げと利子給付打ち切りの申し出があり、この件は以後解決まで9年を要する争いとなった。

【質疑等】
  • 紀州徳川家顧問団の共通点は何か。 →上田貞次郎、小泉信三は父が紀州藩士。なお、1925年に徳川家家令鎌田正憲から日本図書館協会に対して上田、小泉を理事に加えるよう要求が出るが、小泉は慶應義塾大学図書館長を務めており図書館について全くの門外漢ではない。上田も東京商科大学教授であり、図書館と何らかの関係があった可能性あり。
  • 十五銀行は華族の叛乱防止を目的として華族から出資させていた銀行。その破綻は華族界全体にダメージを与え、松方巌はその責任を取らされた形となった。
  • 南方熊楠との関係 … 南方は頼倫に対して否定的評価をしている。
  • 史蹟名勝天然紀念物保存協会について→頼倫、達孝、戸川安宅、橘井清五郎など内務省関係者以外には徳川家のメンバーが多い。 丸山宏は、旧幕臣の文化的な復権を目指した、と指摘している。
  • 東京帝大図書館に寄贈された南葵文庫旧蔵書の中には、南葵文庫に寄託されていたものも含まれている可能性がある。
  • 家の跡継ぎが団体の総裁職を引き継ぐケースはあるか →そういった事例は見つけられなかった。その後の調査で聖徳太子奉賛会は総裁が久邇宮、会長が細川家によって引継がれていることが分かった。
  • 芝義太郎とは? →印刷機械製造大手の東京機械製作所社長。高柳との関係は不明。
  • 今後の検討の方向性としては、①頼倫の貢献を日図協の財政状況を追いながら丁寧に調べる、②1925年の状況について和田書簡などを再度精読し明らかにする、の2点が示唆された。

◎金森徳次郎と草創期の国立国会図書館-戦後日本におけるある「ライブラリアンシップ」の誕生-(春山明哲氏)
 国立国会図書館の初代館長を務めた金森徳次郎(1886-1959)を取り上げ、その生涯と業績について報告がなされた。

 金森は名古屋に生まれ愛知一中、第一高等学校を卒業後、1908年に東京帝国大学法科大学英法科に入学。1911年、東京帝大在学中に高等文官試験(行政科)に合格し、翌年東京帝大を卒業すると大蔵省に入省した。1914年に法制局参事官に転じ、以後法制官僚としての経歴を重ね、1934年には岡田啓介内閣の法制局長官に就任する。1935年の「天皇機関説事件」で委員会答弁をきっかけに攻撃され、翌年1月に法制局長官を辞任した。

 その後は終戦まで表舞台に出ることはなかったが、1945年11月に日本自由党の憲法改正特別調査会のメンバーとなり、憲法改正に関わることとなる。1946年、第一次吉田内閣で憲法問題担当の国務大臣に就任。1948年2月、初代国立国会図書館長に就任した。また同年4月には国会議員を中心に反対意見の多かった中井正一の副館長就任に同意し、中井を副館長に任命している。

 1950年1月から約2ヶ月間、金森は国会訪米視察団の一員としてアメリカを訪れ、米国議会図書館を始めとした米国内の図書館を視察している。この時金森はシカゴのアメリカ図書館協会で挨拶をし、その中で1947年に米国図書館使節として来日したヴァーナー・W・クラップ、チャールズ・H・ブラウンやダウンズ報告で知られるロバート・B・ダウンズに対する謝辞を述べている。

 金森は1948年に就任してから1959年に亡くなる直前に辞任するまでの約11年間、国立国会図書館長を務めた。この11年間は1948~1952年を前期、1953~1959年を後期とすることができる。1952年は5月に中井副館長が死去し、12月に建築委員会で新庁舎建築計画が決定した画期となる年であった。

 金森の功績としては(1)文化財・学術資料の保存、(2)調査及び立法考査局の拡充整備、(3)科学技術資料の整備、(4)憲政資料の収集・整備、が挙げられる。(1)は静嘉堂文庫、東洋文庫、大倉山文化科学図書館を「支部図書館」とし、財閥の文庫の支援を嫌うGHQの反対を押し切って文化財と学術資料の保存を図ったものである。(2)は訪米の成果であるが、米国議会図書館が国立国会図書館のモデルである、としてその後の組織整備に道筋を付けた。金森は図書館・書物文化の表現の場として雑誌『読書春秋』の刊行に力を注ぎ、みずから全105冊に随筆等を執筆した。一方では1958年に起きた「春秋会事件」に見られるように、組織運営における諸課題については、問題を指摘される面もあった。

 人事の上では中井正一を副館長としたことは成功として評価されている。また法制局時代から交友関係にあった佐藤達夫は金森の追悼文の中で、点字図書館を支援したこと、受刑者のための愛の図書運動を行ったこと等を挙げて、その「図書館人」としての功績を評価している。なお佐藤は1955年から1962年まで専門調査員として国立国会図書館に勤務しており、その間の最も重要な仕事として『日本国憲法成立史』全4巻の執筆が挙げられている。


【質疑等】
  • 戦後、吉田内閣閣僚としての国会答弁では、図書館使節団の来日前に議会図書館の必要性等を訴えている。
  • 中井正一のNDL副館長就任にはその前歴・思想から反対意見が多かった。金森もその任命に当たっては消極的承諾という態度。

◎竹林熊彦 -五つの論点(よねい・かついちろう氏)


 図書館学・図書館史研究者として知られる竹林熊彦(1888-1960)を取り上げ、その言説について報告がなされた。

 竹林については、関係者による顕彰的なもの、竹林文庫に関するものを除けば専論は少ない。その専論も評伝、あるいは図書館史研究者・史料発掘者としての言及・評価が主となっており、竹林の図書館員の労働問題・戦後の学校図書館運動への関わりなどと彼の主な研究領域であった図書館史研究との連関が明らかにされていない。また図書館史研究についても、その業績の中で「戦後歴史学」的価値観ではマイナスと考えられた点については棚上げした評価となっており、こうした点を含めてトータルとして把握する姿勢に乏しい。

 これらの課題を踏まえて今回の報告では、今後における,竹林が精力的に活動した時代(戦前から戦後初期)の図書館史の見直しを念頭におきつつ,報告者により5つの論点が提示された。なお,発表については,後日,発表者により文章化されると聞いている。

【質疑等】
  • ・戦前来「図書館の大衆化」をあれほど主張した竹林が,戦後,図書館発展の戦略として,地域における比較的少数の読書人を目標とした公共図書館運動を主張することとなった契機は何か。この契機が明らかにならなければ,彼は単に状況にあわせて言を左右したということにしかならないのではないか。 →残念ながら質問の点については,資料的に明らかにすることはできなかった。戦後の彼なりに,戦争を支えた当時の公共圏の流動化に対する反省的な認識があったようにも思えるが発表者の推測の域をでない。今後の重要な課題である。
 
◎中央図書館長協会について(鈴木宏宗氏)


 1931~1943年にかけて存在した中央図書館長協会を取り上げ、改正図書館令(1933年)以後の昭和前期の公共図書館の状況と中央図書館制度を調べる前提として、その事実紹介がなされた。

 1933年の改正図書館令は、日本の図書館史上重要な意味を持っている。特にこの第一条に盛り込まれた文言の解釈をめぐっていわゆる「附帯施設論争」が起こり、中央図書館制度にも言及されることが多い。にもかかわらず、この改正図書館令の実態を解明した研究は少ない。また中央図書館長協会についても、これに焦点を当てたものはほとんどない。

 中央図書館長協会設立の背景を探る際には、1931年に社団法人化した日本図書館協会の状況や当時の図書館界で形成されていた各グループのあり方を考える必要がある。当時既に図書館令改正に向けた活動が行われており、1930年3月には文部省が主催する全国図書館長会議が開かれ、そこで文部大臣から「現行図書館関係法規上ニ於テ改正ヲ要スル事項如何」との諮問がなされている。

 中央図書館長協会が成立したのは、1931年10月に開かれた全国道府県図書館長会議(帝国図書館主催)においてである。当時の帝国図書館長・松本喜一は師範学校長の経験があることから、これは師範学校長協会と文部省の関係を参考にした可能性がある。なお会の構成員は、「官立図書館長」「道府県立図書館長及之ニ準スヘキ公立図書館長」「六大都市ニ於ケル代表図書館長」とされた。

 同会の活動としては、1943年に会が解消するまでに7回協議会が開かれている。このうち、1933年5月の第2回協議会では中央図書館制度の導入が建議され、同年改正図書館令第十条には中央図書館制度を導入する旨が示された。1935年の第3回協議会では、「中央図書館ノ充実ニ関シ最モ適切ナル方策如何」との文部大臣諮問に対して答申している。この協議会と相補うものとして、文部省が主催する中央図書館長会議があった。参加メンバーも両者はほぼ重なるが、協会の協議会が“協議”なのに比べると、後者では訓示、指示事項等の構成となるなどの相違点もあった。

 また同会の機関誌として、『中央図書館長協会誌』が3号まで刊行されている。このうち、1939年に刊行された1号と2号は石川県立図書館長の中田邦造が編集を担当している。中田は翌年5月から『図書館雑誌』の編集となっており、報告者は中田の中央図書館長協会構成員としての経験が1940年8月に『図書館雑誌』に発表された中央図書館制度拡充意見につながっているのではないかとした。

 会の活動内容の究明とその転換点を明らかにすること、また他の協議会・教育関係団体との同時代比較が今後検討を要する点として挙げられた。

【質疑】
  • 改正図書館令は文部省が単独で起案しているのか。 →第三条など図書館行政にとどまらない内容もあるため、起案時に内務省に内々に交渉している。

 ※全ての発表が終了した後、金沢文圃閣さんのバックヤードを見学させていただいた。
 普段は目にすることのない事務スペースや書庫まで通していただき、じっくりと本を探すことができた。

2012年11月17日土曜日

第17回勉強会のお知らせ

下記の日程で、第17回の勉強会を開催いたします。
御多忙のところと存じますが、ご参加をお待ちしております。


今回は門上氏に、大阪府立図書館第二代館長を務めた長田富作氏に関する
関係史料をご紹介いただける予定です。


日時:12月16日(日) 14:00~
会場:京都商工会議所 第一会議室
http://www.kyo.or.jp/kyoto/kyosho/access.html
発表者:門上 光夫氏
タイトル:「長田史料について」


参加ご希望の方は、事務局<toshokanshi.kansai @ gmail.com(@は半角)>までご一報ください。
twitterアカウント@k_context宛にご連絡いただいても構いません。

なお、会終了後は忘年会を兼ねた懇親会を予定しております。
時節柄、会場の混雑が予想されますので、懇親会参加ご希望の方は
できれば今月中にその旨を事務局までお知らせください。

どうぞよろしくお願いいたします。

(2012/11/18 会場確定しました)

2012年10月30日火曜日

第16回勉強会(2012年10月21日)報告

『図書館を育てた人々 日本編I』を読む(8)
岩猿敏雄「幅広い図書館学の研究者:田中敬」

日時:2012年10月21日(日) 14:00-17:00
会場:シェアハウス鍵屋荘
発表者:土出 郁子氏
出席者:11名

今回はテキストから、東北帝国大学附属図書館、大阪帝国大学附属図書館などに勤めた田中敬を取り上げ、輪読を行った。当日のtwitterによるつぶやきをまとめたまとめはこちら


0.田中敬の略歴
・明治13(1880)年、現在の篠山市に生まれる。
・明治44(1911)年、東北帝国大学の図書館に雇用される。
・昭和8(1933)年、大阪帝国大学附属図書館へ移る。
・昭和25(1950)年に京都大学・大阪大学を依頼免職。同年に新制大学として発足した近畿大学図書館に事務嘱託として入る。
・昭和33(1958)年死去。
・テキストによれば、明治以降の図書館関係のうちでも和田万吉、竹林熊彦と並んで論著の多い人物。しかし田中の図書学・図書館学上の業績はあまり中央に評価されてこなかったとする。


1.東北帝大時代
・田中の大学での専攻は中国哲学であった。図書館に関わるきっかけとなったのは、東北帝国大学の初代総長となった澤柳政太郎との出会いと思われる。
・大正7(1918)年、『図書館教育』を著す。図書館の目的は資料の利用増大であり、図書館は社会教育施設であると主張したもの。大正8(1913)年に日本図書館大会で澤柳が行った講演の影響が強く伺われる。
・また『図書館教育』では大量の外国文献が引かれており、猛勉強ぶりが窺える。「開架式(open shelf)」「参考司書(reference librarian)」などの訳語を作っている。我が国において実務からでなくライブラリサイエンスを志向した初めての書と言われる(岩猿)。カード目録を縦書きから横書きにすること、ローマ字表記の採用なども主張していた。
 参考:田中敬「図書館教育
・明治45(1912)頃、狩野亨吉の蔵書(狩野文庫)が東北帝大に受け入れられる。狩野亨吉とは教育者にして蔵書家であった人物。田中敬自身の回顧によると、当時国立の図書館は狩野の希望である全ての蔵書受入が不可能であった中、東北大はできたばかりで蔵書がなかったことに加え、総長の澤柳が狩野と中学で同級であった縁もあり、受け入れることになった。沢柳自身も仙台に国立図書館を作りたいといった希望があったようだ。当時で10万円くらいの額になる蔵書を3万円くらいで譲った。
 参考:狩野文庫画像DB


2.図書学への取り組みと和漢書目録
・東北帝大時代の田中は狩野文庫の整理に尽力。田中の追悼文などの記述からすると10年程かけて仕事をしていたらしい。その中にあった『景徳傳燈録』という書物の由来を調査したことをきっかけに、図書そのものの研究に打ち込んでいくこととなった。
・大正13(1924)年『図書学概論』を上梓。図書学とは「図書に関する一切の事項を研究する学問」と田中は定義。広義のbibliographyを意識しつつ、その範囲に含まれる事象を「学問」として系統立てて網羅的に記述。なお岩猿によればbibliographyは当初「書史学」と称されていた。「書誌学」という言葉になったのは大正末年頃。ちなみに後に長澤規矩也が司書講習の科目で「図書学」という言葉を再度使っている。
・昭和7(1932)年、『粘葉考 : 蝴蝶装と大和綴 上,下』刊行。大和綴と粘葉装は違うものであると主張。両方を体感できるよう、上は大和綴、下は粘葉装で作られている。狩野文庫の『景徳傳燈録』についても触れている。→現物を回覧。
『粘葉考』を出した頃が、田中がもっとも盛んに活動していた時期か。

・この頃、田中は和漢書目録編纂規則にも関わっていた。大正13(1924)年、帝国大学附属図書館協議会が発足。この協議会で和漢書目録編纂概則が議題となり、田中は植松安(当時、東京帝大司書官)とともに原案起草を委嘱された。『図書館雑誌』の記述を追うと、昭和3(1928)の第5回会議で委嘱があり、昭和4(1929)3月の委員会で原案が提示され、寄せられた意見の反映等を経て、第6回の会議で報告された模様。『図書館雑誌』によれば第5回までの会議は公表されなかったらしい。ただし京城帝大からの修正案の提出が遅れたこともあり最終決定に至らず、成案を公表したのは昭和17(1942)年ともいう。
・当時、日図協でも和漢図書目録法改訂事業を行っていた。元になるのは、明治26(1893)年に田中稲城の提議により作られた和漢書目録編纂規則。昭和5(1930)年に日図協内に「目録法調査委員会」が設置され、田中もこれに参加。当時の委員長は今井寛一であった。


3.大阪帝大時代

・昭和8(1933)年、田中は大阪帝国大学附属図書館へ移る。大阪大学五十年史によると、当時の大阪帝大には附属図書館と工学部分室があり、館長1名と司書2名といった少人数で運営。司書以外のスタッフをあわせると両館で14名であったという。
・なお大阪大学附属図書館にはまとまった通史がない。戦前の大阪帝大附属図書館の業績としては『大阪帝国大学雑誌目録』(昭和12(1937)年)、『大阪帝国大学洋書目録』(昭和17-8(1942-3)年、全3篇)、『大阪学術雑誌目録』(昭和19(1944)年)など。
・昭和7(1939)年には『和漢書目録法』を著す。日図協理事長松本喜一からの勧めによる。日図協との関係は常に良好であったようだ。
・戦中・戦後は、図書の形態・活字・版木等に関する執筆がほとんどとなる。その後、昭和23(1948)年には京都大学の講師も兼務。関西圏の大学で、図書館学(主に書誌学)を担任。


4.晩年
・昭和31(1956)年に、東洋大学より文学博士学位授与。その2年後の昭和33(1958)年、78歳で没した。
   参考:田中敬 博士論文「図書形態学と活版印刷発明史研究上へのその応用」

【質疑・コメント】
  • 27-8歳で東北帝大に行くまでの間の田中の履歴は書き残されていないか? →不明。田中が没した際、図書館雑誌で追悼特集が組まれたが、ここに書いているのも東北帝大の人でありそれ以前のことは分からない。なおそれと別に、平成元(1989)年に近畿大学の図書館報『香散見草』11号で、1987年の私立大学図書館協議会の研究会に田中の娘さんに来ていただいて話をしてもらったという記事があった。
  • 田中の人柄について分かることは? →追悼文によれば真面目で礼儀正しく、夜中の1-2時まで机に向かって仕事をしていた。近畿大学図書館長時代、部下の中に飲み屋に入り浸っている人がいて、大学までツケを取りに来られた。その際田中は「部下の不始末は上司の不始末であるから」と、自分のボーナスでツケを払ったというエピソードがある。
  • 中国哲学専攻だった田中が図書館に関わるきっかけとなった澤柳政太郎について。彼は戦前の教育や大学図書館を考えるのに外せない重要な人物。文部官僚の切れ者で、文化に関わる色々な制度の立ち上げに関わった。40代で東北大総長になり、2年ほどで京大に移ったが、教授を解雇しようとして反発を受けたため、辞めて成城大に行った。以後も影響力は持ち続けた。澤柳の資料は成城学園教育研究所に残されている。田中と親しかったのなら、書簡などもあるかもしれない。
  •    参考:澤柳政太郎について(成城学園教育研究所) 
  •    参考:沢柳政太郎研究 
  •    参考:成城学園沢柳研究会 沢柳研究双書
  • 田中は沢柳とのつながりが強かった当初は教育系の論考を書いているが、やがて図書系の要素が強くなっていく。狩野文庫に出会って変わったのかもしれない。
  •  (会場で回覧された大阪大学附属図書館所蔵の『粘葉考 : 蝴蝶装と大和綴 上,下』について)見返しに波多野重太郎から田中鉄三という人物への謹呈と記されている。波多野はこの本の出版者。田中鉄三は1925年に九州大学の司書であり、1939年に退職して陽明文庫に勤めた人物。この本が阪大に所蔵されるに至った経緯を知りたい。
  •    参考:「九州大学百年の宝物」余話
  • 昭和19(1944)年『大阪学術雑誌目録』について。これは大阪帝国大学と、阪神地区書大学の間の雑誌の所在を明確化し、特に科学技術資料の相互利用を目指したもの。田中の関与は不明。ただし田中は1948年に『総合目録編纂法覚書』という著作を残しており、総合目録の編纂にも関わっていたかもしれない。
  • 田中の著述は昭和10年代以降、図書学に急速に傾いていったように見えるが、総合目録に関わっていたとすると、そうした形で社会との関わりを持った活動もしていたと言える。1944年には「ソ連出版界の展望」という論文を書いているが、これなどもやや異色。
  • 1940年代、時局を反映して、自然科学系の専門学校や学部増設が増えた。科学系の資料の需要が跳ね上がるいっぽうで、肝心の資料は入ってこない。という状態。こうした資料不足に対応するために、戦後には専門図書館がたくさん立ち上がって協力体制ができた。特に大阪帝大のような理系の大学では厳しい状況だったはず。決裁文書の綴りなどが残っていれば何か分かるかもしれないが。
  • 昭和初期に大阪図書館に勤めていた人の自伝で、戦争中の一時期に科学情報の学習や共有を進める動きがあったと触れられていた記憶がある。この件と関係があるかもしれない。
  •    参考:回想のなかの図書館
  • 和漢書目録の原案について、京城大からストップがかかったという話があった。中野三敏『和本のすすめ』によれば台北大学には日本の古典籍がたくさんあるというが、京城にもあったのかもしれない。
  • 田中の著作を見ると、図書館としては思想家というより実務者であったという印象がある。書物展望社とのつながりが気になる。また昭和12(1937)年には台湾愛書会の雑誌『愛書』にも何度か寄稿している。とにかく本が好き、書痴というような人物像だったか。

  • 以前本会で取り上げた植松安が、田中と共に帝大附属図書館協議会の和漢書目録編纂概則の原案起草を委嘱されたのが昭和3(1928)年。その翌年に植松は台北へ渡っている。植松がいなくなったり、田中が所属を変わったりした関係で事業が進まなかったのでは。
  • 石上宅嗣卿顕彰会 編『石上宅嗣卿』で、顕彰碑の設立への寄付者一覧の中に田中の名前が出ていた。
  • 田中は大阪にもいたが、青年図書館員聯盟とのつながりが見られない。田中に限らず大阪帝大自体も青聯に関連して動きが見えないが、日図協とのつながりが強かったためか。


終了後、懇親会が開かれた。

2012年9月29日土曜日

第153回Ku-librarians勉強会報告

事務局2号です。

既報の通り、9月13日、第153回Ku-librarians勉強会で「図書館史の勉強から見えてきたこと」と題してお話しさせていただきました。

勉強会ページはこちら(togetterもあります)

簡単ですが、その要旨を掲げ、勉強会報告とさせていただきます。「関西文脈の会について」「なぜいま「図書館史」なのか」「見えてきたこと」の三つを中心に構成しました。

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発表概要


1.関西文脈の会について
 関西文脈の会について、名称の由来、設立経緯などをお話しさせていただいた。文脈の会は、2009年の夏に東京本館で、NDL職員、OB、公共・大学図書館の職員、大学の先生方を集めてスタートしたこと、「文脈」の名称はLibrary in contextというコンセプトから付けられた名前です。「マニアックな歴史事項を取り上げてのトリビアリズムに陥らず、図書館が置かれてきたコンテクストを見失わないようにしたいですね」という話から付けられたものであることを紹介した。関西では2010年から、2か月に1度、勉強会をやっており、テキストには、石井敦先生の『図書館を育てた人々』日本編1を使っているほか、自由論題による発表を合わせて開催している。

2.なぜいま「図書館史」なのか?
 図書館史の勉強について、図書館関係者だけではなくて、むしろ歴史学や思想、文学の研究者、あるいはもっと広い意味でのユーザーに、図書館の歴史を語りたいと考えていることを述べた。というのは、図書館史の論文や本を読み始めてみるうちに、あまり意識してこなかったものの、日本近代の思想史にとって図書館は大事だという印象を持つようになり、これはもったいないことであると思うようになったことが大きい。自分が図書館にいることを活かす意味でも、日本史の研究者に向けて図書館史を発信して行くようにすれば、図書館と日本史研究者を繋げることができ、それが自分の強みになるのではないかと考えた。
 また、発表者は小野則秋の『日本文庫史』に「国民的教養としての文庫史」とあるのを読んでから、図書館史って誰のものなんだろうかと思うようになったことを紹介した。図書館は図書館員のためのものなのか、それだけではない。図書館に関わるユーザのものであろう。いや、たんにユーザだけではたりない。広い意味での広報―public rerationsとしての―図書館のPRということを念頭に置くならば、あらゆるステークホルダーに向けて、図書館とはこういう来歴があって、こういうことをしているんですよと丁寧に説明していく努力が今こそ必要で、そのために図書館史の知識が必要なのではないかと述べた。

3.見えてきたこと
 最近、図書館史の研究は活況を呈しつつあるかに見える。館種別の議論が公共中心から、だんだん豊富になってきたこと、図書館人個人に光を当てる研究が増えていることなども奥泉和久先生や三浦太郎先生の論文で指摘されている。だが他方で、教科書の規範となるような歴史の枠組みが形成された時期の図書館像と、今の図書館像がズレてきている面もある。発表者を含む若手図書館員の間では、ちょっと前まで確固として存在していた「べき論」を共有できなくなっている。しかもそれは私たちの勉強不足のせいばかりとはいえず、周りの環境がそれを許さなくなってきているところが大きい。

 むしろ、これから図書館史に向かうにあたっては、あるべき姿ではなく、見通しが立たないからこそ、かつて色々な形での模索があったことを知り、武器としての図書館史を学んでいく必要があるのではないか。その上で大きなヒントになるのは、地域の視点ではないかと考えている。
 とくに関西は図書館の歴史の宝庫である。明治時代、日本初の公共図書館で、今の京都府立図書館の源流とされる集書院の存在があった。また、日図協と対をなす存在として京大中心に結成された関西文庫協会があり、あるいは昭和初期には、日本図書館研究会の源流となった青年図書館員聯盟の結成があり、戦後も、神戸市立を中心にしたレファレンス・サービスの理論化があり、そして阪神淡路大震災の後の震災文庫の取り組み、近年でも京大の電子図書館開発、府県立では大阪府立中之島のビジネス支援サービス、奈良県立図書情報館の各種イベントなど、色々な取り組みが続けられている。

 何故、これほど関西で活発な図書館活動が続けられたのか。それを見ていくと、東京(関東)で出来ないことを「関西」でやってやる、という強い意志のようなものが一貫して感じられる。京大が出来た時、初代総長の木下広次は、東京の帝国図書館一個だけではだめなので、京大の図書館を広く一般にも公開して、西日本の中心にする、歴史や宗教の典籍はむしろ京都の方が東京よりも豊富だから、西にも図書館が必要だと論じていた(ただし、一般公開は実現しなかった)。以上のことは、まだ印象にとどまり、実証には届いていないが、このことは、日本の図書館が横並びで実は一つのサービスに重点的に取り組むのではなくて、むしろ、それぞれの図書館が例えば地域的に東西に分かれたところでそれぞれの個性を発揮することで発展してきたことを示唆する。自館が図書館・地域・社会全体のなかでどういう機能を担うかに目を向けることで、これからの展望が開けるかもしれないと云うことが、図書館史の勉強を初めて今までやってきて、ようやく見えてきたことになる。今後は、例えば地域の図書館運動を担って来て、今は退職されて第一線を引かれた方への聞き取りなどもやってみたいと考えている。

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なお、本発表終了後、発表者が業務で担当した図書館史の展示会について
『カレントアウェアネス-E』に下記記事を発表させていただいたので
(物凄い手前みそですが…)関連記事として紹介させていただきます。

E1343 - 記念展示会「関西の図書館100年,関西館の10年」を企画して
カレントアウェアネス-E
No.223 2012.09.27

2012年9月2日日曜日

第16回勉強会のお知らせ

下記の日程で、第16回の勉強会を開催いたします。
御多忙のところと存じますが、ご参加をお待ちしております。

日時:10月21日(日) 14:00~

会場:シェアハウス鍵屋荘
地下鉄五条駅から5分くらいです。
場所をご存知でない方は事務局宛にご連絡ください。


テキスト
図書館を育てた人々. 日本編 1 / 石井敦. -- 日本図書館協会, 1983.6
http://opac.ndl.go.jp/recordid/000001644230/jpn
http://webcat.nii.ac.jp/cgi-bin/shsproc?id=BN01584842

から、「田中敬」を取り上げます。
発表者:土出 郁子氏

参加ご希望の方は、事務局<toshokanshi.kansai @ gmail.com(@は半角)>までご一報ください。
twitterアカウント@k_context宛にご連絡いただいても構いません。
どうぞよろしくお願いいたします。

第153回Ku-librarians勉強会で発表します。

京都大学の若手図書系職員のみなさんが開いているKu-librarians勉強会にて、関西文脈の会についてのお話をさせていただけることになりました。

第153回 Ku-libraians勉強会
日時:9月13日(木) 19:00~
会場:京都大学附属図書館3F 共同研究室5
タイトル:「図書館史の勉強から見えてきたこと」

発表者:長尾 宗典(国立国会図書館関西館)

勉強会詳細ページはこちらです。


どうぞよろしくお願いいたします。

2012年9月1日土曜日

第15回勉強会(2012年8月26日)報告

「占領期京都と京都図書館協会の成立 」
日時:8月26日(日) 14:00~17:00
会場:京都商工会議所第二会議室
報告者:福島 幸宏氏(京都府立総合資料館)

今回は福島氏から、占領期京都という文脈のなかで、1947年に設立された京都図書館協会の展開について発表いただいた。

当日のtwitterによるつぶやきまとめはこちらから。

はじめに、本報告では、当事者による回顧や断片的な記述から脱却した占領期京都の図書館史をデッサンすることを目的とするという位置づけが述べられ、研究史の批判的整理を踏まえて、とくに二つの方法的な視点が述べられた。一つは、「占領期京都」という特殊性を意識した検証するという地域の視点、もう一つは、制度史や個人の伝記的研究に傾斜しがちな研究史の枠組みを超えて、団体の活動を取り上げるという視点であった。

 京都府立総合資料館にある簿冊二冊と京都図書館協会の会報を基礎資料として行なわれた。

 1.占領期京都と文化政策

 京都の占領期研究はまだ事実の掘り起こし段階にとどまっているとされるが、大都市のなかでは比較的軽微な被害に留まり、占領軍にとって西日本の拠点になったこと、大学の街であり、知識人層が流入してきたこと、同志社を中心とするキリスト教人脈があり、占領政策の中での民主教育推進のモデル地区として京都が日米両国から期待される場であったことが指摘された。

2.京都図書館協会への胎動


 占領期京都では協会設置に繋がるいくつかの動きが存在した。大佐三四五(おおさ・みよご、日本外政協会・米軍将校倶楽部図書館長)や西村精一(府立図書館長)が議論に参加した図書館法制定への関与、青年図書館員聯盟の後を受けて誕生した日本図書館研究会、図書館員同志社図書館講習所の存在、第六軍司令官クルーガー大将が残したクルーガー図書館の活動、などである。図書館法制定に向けて大佐が中心となり、戦前の議論に占領軍の意向をふまえた議論が行なわれた。戦争下で沈黙されられていた人々(たとえば青聯)の復活に見えるが、連続性だけでなく、ここで新たな人材が入って来ていることも重要だと指摘された。

3.京都図書館協会の設立

 こうした中で、1947年10月に京都図書館協会が設立される。準備委員会では座長に小野則秋が、11月の発会式では湯浅八郎が会長に就任した。これは新しいアメリカの図書館技術を吸収するための対外的貫禄を持った人物が会長に相応しいという期待によるものであった。初期の規則案には「求人求職の斡旋及び推薦」の項目もあった。京都市内の参加が多かったが、ユニークなのは、島津製作所伏見工場の工場長が代表として参加していたことである。初期協会の特徴としては、同志社を中核とする戦前から実績ある大学系の図書館員を軸にした活動だったこと、学校図書館中心の活動・講習会、読書サークル活動を行なっていたことが挙げられる。学校図書館中心の活動は、学校教育法の図書館必置義務に対応するためだったとも指摘された。また、和辻春次顕彰のために創立された和風図書館(ここでいう和風とは、和辻の遺風の意で洋風に対立する概念ではないらしい)が結節点となり、戦後の文化運動の一つの拠点になっていたことも指摘された。

 4.京都図書館協会の展開

 京都図書館協会の展開のなかで重要な役割を担ったのが、和風図書館の北村信太郎であった。北村は社会教育課主事となり、大佐に代わって府の図書館行政の中心的役割を果たしていくことになる。協会は1948年以降、学校図書館に関する意見書を頻繁に提出し、こうした運動は近畿、やがて全国レベルでの結集につながっていくことになった。また1949年4月には、京都図書館協会は日本図書館協会の京都支部を兼ねる文書も存在している。1950年に京都で行なわれた全国図書館協会では400名が参加し、大佐が府県協議会と日図協の連携強化を提案したりした。また、文部省や設立直後の国立国会図書館を頼りにするのではなく、協会が統一的に活動して、出版社とも連携しながら良書普及を行なって行くことを事業として確認していた。同じ頃、北村は、同志社の小野、竹林熊彦らとともに、府内各地で講習会の地方開催を行なっていった。しかし、協会は全国図書館大会が行なわれた1950年を画期として、協会の運動団体としての性質は変わっていった。湯浅の東京への異動、小野の教職追放等のほか、求職斡旋など当初の協会が保持してきた独占的地位は次第にくずれたこと、また1950年に図書館法が公布されて大学での司書課程が整備されていったことなどが理由として挙げられた。

 結論として、設立当初の京都図書館協会は、良書推薦や京都知識人との連携を武器に活動し、占領初期の重層的な動向が反映した組織だったことが述べられた。また、最後に図書館史における戦前と戦後の連続/非連続が論じられ、テクニカルな部分での連続性は強く認められるものの、思想的な断絶ということも意識されるべきではないかという問題提起がなされた。

主な質疑と応答は以下の通り

  • 竹林熊彦の著作を読んでいると、戦前戦後の断絶や変化は表立って出てこない。それでも思想的断絶を重く見るということか? →竹林の中で矛盾するかしないかの問題ではない。竹林自身が矛盾を感じていないことは確かだろうが、それが見えなくなるのが今回批判したかった個人史の限界でもある。竹林が新しい状況に対して論じるべき問題を何故論じなかったのかという問題は残る。書かれたものだけでなく書かれなかったものを重く見たい。とくに竹林は理念的な話が多く、実践の話をしない。したがって同時代の人の話が出てこない。その辺が事態をわかりにくくしている。
  • 出版社と関わっての良書推薦とは? →日本図書館協会の選定図書などのようなもの。戦前・戦後で、良書の基準は変わるけれど、構造は変わらない。図書館が出版社に働きかけてもっと良い本を出してくだいとお願いするというもの。
  • 同志社の資料は誰でも見られる? →公開されている。
  • 求職支援とか、いまこういう運動は必要か? →ギルドの意味はあるが、むしろ文化資源を扱う者同士、図書館に限らず広くMALUIで連携して行ったほうがいいというのが報告者の立場(会場からも複数の意見あり)。
  • 京都読書サークルの論文をあまり見たことが無いので知っている人がいたら是非教えて欲しい。
  • 話がどんどん広がってしまうけれど、非常に興味深いテーマなので。一つは、協会主力メンバーが新しいアメリカの図書館(CIE図書館)をどう見たかの問題。先行研究で批判されたCIE事例と今日の事例を組み合わせるとどういう占領期像が浮かんでくるのか。史料の掘り起こしは大変だと思うが知りたい。また、京都から近畿圏へ拡大したというお話があるが、大阪(府立)や神戸(市立)と比べたときにどうだったのか。そのなかでこそ、占領期京都の地域的特殊性の話は活きるように感じた。

今回は福島氏と江上氏の協力により初めてのUstream中継(生放送)にも取り組み、20名以上の視聴があった。
終了後は懇親会が催された。

2012年8月7日火曜日

第15回勉強会のお知らせ(追記あり)

事務局2号です。

下記の日程で、第15回の勉強会を開催いたします。
御多忙のところと存じますが、ご参加をお待ちしております。

今回は福島さんに占領期の文化行政についてお話をお願いしました。

日時:8月26日(日) 14:00~
会場:京都商工会議所3階第二会議室
(いつもの部屋とフロアが異なりますのでご注意ください)

報告者:福島 幸宏氏(京都府立総合資料館)
演題:「占領期文化行政と京都図書館協会の成立(仮)」


参加ご希望の方は、事務局<toshokanshi.kansai @ gmail.com(@は半角)>までご一報ください。
twitterアカウント@k_context宛にご連絡いただいても構いません。

また、終了後は懇親会を予定しておりますので、そちらの参加希望も
合わせてお知らせいただけると助かります。

どうぞよろしくお願いいたします。
(8/7会場確定しました)

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今回、初めての試みとして、Ustreamによる音声配信を行ないます。

チャンネルはこちらです。また本日の資料はこちらに掲載しています。

是非ご覧ください(8/26追記)

2012年8月6日月曜日

大学図書館問題研究会 第43回 全国大会(京都)‎/第14回勉強会 報告

「和田万吉の事績と大学図書館」 
―『図書館を育てた人々 日本編I』を読む(8)
森崎震二「国際感覚で指摘した図書館発展への道  和田萬吉」
日時:201285日(日) 9:00-11:30
会場:コミュニティ嵯峨野
発表者:長尾宗典(国立国会図書館関西館)

大学図書館問題研究会全国大会の第六分科会大学図書館史に関する分科会との共催の形で、第14回の勉強会を行ないました。文脈の会の輪読形式にのっとって、テキストから和田万吉を取り上げました。
大会の企画についてはこちらをご参照ください。

以下に発表の概要を掲げて、勉強会報告に代えさせていただきます。
朝早くから、また普段の文脈の会だけでは集まることが難しい、各地の大学図書館の方にお集まりいただき、分科会幹事の方をはじめ、ご参加いただいたみなさまにはこの場を借りて厚くお礼申しあげます。

***

今回の報告では、初代東京帝国大学附属図書館長の和田万吉を取り上げ、その事績を紹介し、彼と大学図書館との関わりを考えた。和田は、「欧米の図書館学を日本化した」「近代図書館建設の第一人者」(武居権内)という評価が存在するが、和田自身は、図書館学に限らず書誌学や古典文学や歴史についての浩瀚な著作群があり、また「終生大学図書館長であったにもかかわらず、大学図書館を正面からとりあげて論じた文章は一篇もない」(岩猿敏生)ため、本格的な研究がなされていない。ただ、そのような和田を取り上げることで、公共図書館史の研究が中心であった研究状況下で、帝国図書館や大学図書館などの参考図書館がはたしてきた役割の意味を問い直し、図書館とは何かを考え直すヒントは得られるのではないかと提起した。
報告は彼の前半生と後半生にわけ、前半を「和田万吉と大学図書館」後半を「図書館学の形成」とした。

前半では、和田万吉の若い頃をまとめた。和田万吉は大垣藩の出身で、大学では国文学を専攻した。多方面の学芸に達し、厳格な学者肌ではあるが、滑稽を解する一面もあったという。また、食通ではあるが、酒は嫌いであったという回顧もある。和田が帝国大学図書館に勤務を始めたのは明治23年、そのときの「管理」だった田中稲城の下で、『帝国大学図書館和漢書分類目録』(1893)の編纂に携わり、また自身が田中の後をうけて管理心得に就任すると、明治29年(18966月、31歳のときに「帝国大学図書館ノ規模拡張ニ関スル建議」を総長宛に提出し、職務人員、待遇、勤務時間、評議会の設置、図書館学を一個の専門学科とする立場から、職名などについて改善を求めて行った。またこの間、日本文庫協会(日本図書館協会)では幹事となって主として機関誌の発行のために尽力したが、慎重派の田中稲城会長との間にはしばしば意見の対立があったことを紹介した。

 後半では、和田が図書館学を形成していく過程を扱ったが、そのなかで大きな転機となったのは、明治42年(1909)の約1年間にわたる欧米視察だったのではないかと指摘した。このとき和田は学校図書館を中心に大小合わせて100余りを視察したが、それまで文献を通じてのみ把握していた欧米の現場では、いまだ「旧風」が残っており、また図書館学を専門学科としない風潮があった。和田はこのことに驚き、戸惑ってしまったのである。この体験は、欧米図書館の理想化・絶対化から離れ、是々非々で欧米図書館事情を考える方向へ、和田自身の視点が移動したことを意味すると思われ、同時に、和田自身の図書館学構築への意志の基底にあったとも考えられる。和田が日本や欧米の図書館史を研究し始めるのは、各国の図書館の発展段階、特徴への理解を深め、先進的な事情を性急に輸入するのではなく、「之を持つに到るだけの苦労」が何なのかを確かめることが必要であるとの思いによっていた。

こうして和田は、大正7年(19183月に東京帝国大学文科大学教授になると、国語学国文学第一講座担任となり書史学を講じた。この講義草稿は、未発表であったが、「図書館学大綱」として弥吉光長により復刻されている。同講義は「内外の学問に従いながら、かなり程度の高い進んだ体系」と評価されている。和田によれば、図書館学とは、図書館を経営するに必須の事項を研究する学問で1.図書館即ち図書の置場に関する研究=図書館管理法(Library Economy)と、2.図書館其物に関する研究=書史(誌)学(bibliography)から構成される。講義中では厳しい「図書館長」の条件なども述べられており、非常に興味深い。

大正後期の和田は、図書館学の構築とともに、機をとらえて様々な発言を行なっていた。テキストでも、和田のこの時期の活動は大正デモクラシー下の提言として高く評価されている。「地方文化の中心としての図書館」等、民衆文化に共感し、公共図書館の拡充を訴えるものも多いという評価である。

 研究史上では、同時期の「図書館運動の第二期」『図書館雑誌』第50号(1922.7)もそうした評価の上に解釈されており、『中小レポート』などでも、一層の公共図書館の拡充を謳ったもののように受け止められている。しかし、和田自身は同論文でもう少し違うことを提起しようとしていたのではないか、というのが本報告の最大の論点であった。同論文は、①既成図書館の充実、②図書館の普及、③館種の違いの意識、④国立図書館の充実、⑤学校図書館の発達の5点を掲げているが、その中で、なんと和田は、「図書館事業が今日行詰つたやうに見えるは、世間をして図書館を余りに単調のものゝ如く見させた所の結果もあるかと思はれます。即ち今日の図書館は男女老幼貴賎上下の一般に広く公共図書館(Public Library)で無ければならぬと固く思込ませ過ぎたやうであります」と言い切っているのである。とすれば、第二期に入った図書館運動の中で和田が必要と考えていたのは、素直に読めば、館種の個性を発揮して図書館の普及に努めて行こうという希望ということになる。

 そのなかに、実は一篇も主題として書かれたことのないと言われている和田の「大学図書館」についての意見を読み取ることも可能なのではないか。「大学図書館」論が戦前期にあまり発展しなかったとすれば、その理由を大正後期以降の和田の図書館論を読み直すことも、「大学図書館史」を考える上では貴重な示唆を与えてくれるのではないかと結論付けた。

2012年7月5日木曜日

大学図書館問題研究会 第43回 全国大会(京都)‎に参加します

事務局2号です。

以下の日程で、大学図書館問題研究会の第43回全国大会が
京都で行なわれることになりました。

関連記事:【イベント】大学図書館問題研究会第43回全国大会(8/4-6・京都) - カレントアウェアネス・ポータル


大学図書館問題研究会(略称は大図研=だいとけん)は、大学図書館に関心のある人が集まって、1970年につくった研究会で、現在の会員数は約500名です。月刊誌「大学の図書館」を編集・発行しています。
その他に「大学図書館問題研究会誌」、「大図研シリーズ」を編集・発行しています。

毎年、夏に開催される全国大会には各地から100名以上の大学図書館員が集まります。毎年、初夏におこなわれる「大図研オープンカレッジ」は、様々なテーマから大学図書館の半歩先を考える研究集会です。
(以上、HPより適宜引用、加工)
 
日時: 2012年8月4日(土)~6日(月)
場所: コミュニティ嵯峨野(全国手話研修センター)
                                            [JR 嵯峨嵐山駅横]
大会についてはこちらをご参照ください。
また要旨については、こちらをご参照ください。

大会2日目(8月5日)の午前に行なわれる第6分科会 大学図書館史は
関西文脈の会と合同で企画させていただくことになりました。

今回は、従来使っているテキストから、草創期の大学図書館の歴史のなかで
欠かすことのできない和田万吉を取り上げ、
大学図書館問題研究会のみなさまを交えてディスカッションします。

2012年6月26日火曜日

第13回勉強会(2012年6月24日)報告

江上敏哲『本棚の中のニッポン:海外の日本図書館と日本研究』(笠間書院、2012)合評会
日時:2012624日(日) 14:00-17:00
会場:シェアハウス鍵屋荘(京都市下京区)
発表者:岡部晋典氏(近大姫路大学)・梶谷春佳氏(京都大学附属図書館)※五十音順
出席者:22

会場風景

今回は関西文脈の会メンバーである江上敏哲氏の『本棚の中のニッポン』出版を記念し、参加者による合評会を行った。
当日のtwitterによるつぶやきをまとめたまとめはこちらを参照
著者による本書紹介についてはこちらを参照
版元による紹介ページはこちらを参照

まず、梶谷氏から、現在従事されている参考調査業務と絡めて本書の評価を述べていただいた。梶谷氏は、欧米のサブジェクトライブラリアンの生の声が聞けるというのが、本書を読んでまず印象に残った点だとしつつ、本書が絶えず問題にしている、日本資料のデジタル化の遅れについて、それが何故上手くいかないのか、課題はどこにあるのかについて、はっきりとした回答を著者は本文中で述べていないのではないか、という疑問も提示された。また、有料でもいいから資料情報が欲しいという海外のニーズに積極的に応えていくためには、PORTAやリサーチ・ナビのような大きなものからは零れてしまう情報を、まとめて発信していくことがレファレンスライブラリアンのこれからの仕事の一つとして考えられるのではないかという点が指摘された。また、英語について苦手意識を感じる職員でも、サービスを継続的に行っていくために、たんに語学に堪能な人が担当になったときに一挙に英語版ページを作るというのではなく、引き継いでいける仕組みを構築していくことも重要だと述べられた。
次いで岡部氏からは、「本棚ノ中ニ居リマス―本棚の中のニッポンをどう読んだか」と題し、本書の不足部分、気付かされた点、本書が求める「援軍」についてどういうことができるかについて、研究者・司書課程講師の視点から読み解いて発表をいただいた。まず不足部分として、優れた事例ばかりが取り上げられ過ぎているため、逆により小さな規模で奮闘している普通の規模の図書館が委縮してしまう危険はないかという点、クールジャパンについての紹介をもっと取り上げてほしいという点について要望が出された。また、本書の耐用年数はどのくらいを想定しているのかという疑問も出された。そのほか、日本語で書かれた自然科学系論文(たとえば稲作の研究など)の扱い、ナショナリズムと図書館の関係にどう意識的に向き合うのか、という論点も提示された。逆に、本書の長所として、海外で求められる情報は、論文抄録レベルの英文化だけでも十分に意義があることが示されたこと、平易な叙述であり、ILLなど、実務の話について司書課程講義でそのまま読み上げても学生に理解されるだろうこと、美しいあとがき、が指摘された。
休憩を挟んで江上氏から、発表者の二人は、若手の実務家・研究者として、それぞれ一番伝えたい想定読者の代表であったと感謝が述べられた。また発表者から出された質問につき回答があった。デジタル化がうまく日本で進まない理由について、それが知りたくて本書を書いた、書いた後いろいろなリプライをもらって深めていきたい。クールジャパンについてのより詳細な記述は私には難しかったと応答。本書がはらむナショナリズム的な要素については、現地のライブラリアンの代弁しようとした面もあったと述べられた。
その他参加者から出された主な質疑応答は以下の通り。
  • 日本の図書館員は国際会議に出るべきという主張について→研修のあり方が問われる。日本から研修に行くと、日本人は自分が調べたいことばかり調べて帰ってしまい、日本から提示するものがないという点への不満を、決して言葉には出さないが現地のライブラリアンの取材を通じて肌で感じた。
  • 本書を図書館のさらに外に向けて開いていくための戦略は?→まさに今からの課題。書評依頼は考えているが、ほかにもアイデアをいただきたい。
  • 日本資料の範囲が、1930年と2008年、あるいは1972年以前の沖縄が入るかどうか、違いが出てきて、一概にいえないのでは?→この点はあまり自覚的でなかったかもしれない。「日本」の範囲は問題がないとはいえないが、執筆時はむしろ、向こうの図書館で言うと、日本は「東アジア」部門で括られているということが念頭にあった。
  • 海外ILLの仕組みについて、工夫すべき点は?→語学が不得手でも、資料が特定できればその次に進めるので、ISBNその他ユニークなIDを探して使えるようにする利用者教育とインターフェースの開発が必要。抄録英文化の話が出たが、「登山口の整備」として私がいいたかったのはむしろそれ以前の、英文タイトル記述等、そういったところからまずはじめてもらいたいと考えている。
  • 日本資料の集積について、和田敦彦先生の一連の研究と繋がる部分もあると思うのだが、和田先生の研究に対して本書のセールスポイントはどのあたりと考えるか?→和田先生のファンなので言いにくいが…重視したのは①実務者の視点で書くということ、②和田先生が歴史的な部分をフォローされているので、「現在」の話に力点を置くこと、③図書館をtoolとしてどう使えるか、上手く使ってもらいたいという思いから書いた。
  • 「近代デジタルライブラリー」が高く評価されているが、日本資料のデジタル化という場合、近デジのような古いものばかりでよいのか、現在のもののデジタル化について、海外日本図書館の反応はあるのか→考え方によるが、手に入る本はデジタル化していなくてもよい。むしろ絶版で日本に来ないと見られないようなものをデジタル化してほしいという意見はある。

その他、「ニッポン」の紹介の着地点をどこに見出していくか。政策的な議論に組み込んでいくための話題提供が可能かどうか。国民国家とナショナリズムの話が出されたが、その枠組みの変化のなかで問われているのは、「ニッポン」だけでなく、それを収めておく「図書館」自体の価値も問われるところに来ているのではないかといった意見も出された。
最後は江上氏から、本書で扱えなかったテーマ・地域については、すぐ続編とはいかないかもしれないが、無理せずライフワークとして引き続き追いかけていくつもりであると抱負が述べられ、盛会の内に終了した。
終了後は、江上氏がこよなく愛するギネスのあるところで、懇親会が催された。

2012年5月19日土曜日

第13回勉強会のお知らせ

こんにちは、事務局3号です。
新年度と思っている間に、早や燕も渡ってきました。みなさまいかがお過ごしでしょうか。

さて、下記の日程で、第13回の勉強会を開催いたします。
みなさまのご参加をお待ちしております。


日時:2012年6月24日(日) 14:00~
会場:シェアハウス鍵屋荘
地下鉄五条駅から5分くらいです。
場所をご存知でない方は事務局宛にご連絡ください。

今回は、関西文脈の会メンバーでもある江上敏哲氏の近著
『本棚の中のニッポン』(笠間書院、2012.5)の合評会を行います。
※参考ブログ:『本棚の中のニッポン』blog

発表者:
近大姫路大学 岡部晋典氏、京都大学附属図書館 梶谷春佳氏

合評会ですので、できるだけ江上氏の著書をご持参の上お集まりください。

参加ご希望の方は、事務局<toshokanshi.kansai @ gmail.com(@は半角)>までご一報ください。
twitterアカウント@k_context宛にご連絡いただいても構いません。
どうぞよろしくお願いいたします。

2012年4月20日金曜日

日本の図書館史研究の「いま」がわかる論文

またまた事務局2号です。連投すみません。

明治大学の三浦太郎先生のご論文「日本図書館史研究の特質 ―最近10年間の文献整理とその検討を通じて―」『明治大学図書館情報学研究会紀要』N0.3(2012)が発行され、明治大学の機関リポジトリで閲覧可能になっています。


近年の日本の図書館史研究に顕著な特色として、
  1. 図書館史研究を方法論的に問い直す試み
  2. 戦後日本の図書館に対する歴史的評価
  3. 人物への注目
の3点が指摘され、それぞれの観点から文献が紹介されています。

また、

「米国など海外における研究手法に学び、プリント・カルチャーや読書史をはじめとする周辺領域の視座、研究成果を横断的に活用することは、今後ますます、日本図書館史の研究においても重要視されるようになると思われる」と指摘されています。

三浦先生にはすでに2008年の時点で、『カレント・アウェアネス』に「図書館史」の文献レビューを発表されていますが、今回のご論文では、その後刊行・発表された研究成果を踏まえて、現時点での図書館史の研究文献がわかります。

戦前期「外地」で活躍した図書館員の研究報告書

事務局2号です。
 京都ノートルダム女子大学の岡村敬二先生による科学研究費補助金研究成果報告書「戦前期「外地」で活動した図書館員に関する総合的研究」(研究課題番号:21500241)が刊行されました。2号宛に一冊いただきましたので、感謝を込めて目次をご紹介します。
 論文はもちろんのこと、とにもかくにも、巻末の人名リストが圧巻です。

 本研究の研究概要はこちらに掲載されています。
 またすでにこちらなどで、「快挙!」の声も聞かれています

はじめに―研究の目的と研究経費

Ⅰ.研究成果の概要

Ⅱ.研究成果

 論文
  1.  “戦前”で終わっていた父橋本八五郎の人生(橋本健午)
  2.  佐竹義継の事跡(佐竹朋子)
  3.  尾道市立図書館の高橋勝次郎(よねい・かついちろう)
  4.  満鉄図書館時代の大佐三四五(鞆谷純一)
 資料紹介・訪書記
  1.  衛藤利夫「本を盗まれた話」再録にあたって(岡村敬二)
  2.  「本を盗まれた話」再録(衛藤利夫)
  3.  秋田県立図書館訪書(岡村敬二)
  4.  内藤湖南生誕の地毛馬内を訪ねて 付載 大阪府立図書館展覧会の歴史 図書館ものがたり その1(岡村敬二)
  5.  岩手県立図書館訪書記(岡村敬二)
 人名リスト
  •   戦前期「外地」活動の図書館員リスト(岡村敬二)

2012年4月17日火曜日

第12回勉強会(2012年4月15日)報告

『図書館を育てた人々 日本編I』を読む(7)
中里龍瑛「東大図書館の復興に尽力:植松安」

日時:2012年4月15日(日) 14:00-17:00
会場:京都商工会議所第一会議室
発表者:服部智
出席者:10名

今回はテキストから、東京帝国大学附属図書館の司書官だった植松安を取り上げ、輪読を行った。当日のtwitterによるつぶやきをまとめたまとめはこちら


0.植松安の略歴

・1885(明治18)年生、1908(明治41)年に東京帝大卒。同年は東京帝大の大学官制が改正され、初めて司書官職が図書館に置かれた年でもある。
・1914(大正3)年に東京帝大文科大学で助教授兼司書官となる。1920(大正9)年に日本図書館協会副会長に就任、この時の会長は今澤慈海。
・1921(大正10)年より一年間の海外出張。各地の図書館を視察し『図書館雑誌』に寄稿。
・1923(大正12年)9月の関東大震災にて東大図書館は壊滅的な被害を受け、植松は姉崎館長の元で復興に尽力。また南葵文庫の東大図書館寄贈に関わる。
・1929(昭和4)年に台北帝大文政学部講師として赴任、翌年教授となり、国語学・国文学を担当。
・1946(昭和21)年、台北から日本へ引き揚げる船中にて死去。

1.東京帝大時代の植松
・東京帝国大学図書館の人々が主体となった書物同好会に関わる。1925(大正14)年に『書誌』を発刊。なおこの雑誌は途中で出版社が変わっているが、編集方針等を巡りトラブルがあったため。
・上代の国文学者として、神宮文庫本古事記裏書の解説をしたりしていた。また東大図書館に寄贈された本居文庫に関心が高かった。背景として、植松の曽祖父が本居宣長の門弟であったという先祖の縁も考えられる。
・植松、山田珠樹、田中敬らが帝大の目録規則の基礎を作成。東京帝大図書館では和漢書の基本カードを事務用にしていた。これは植松の考えによるといわれる。植松が去った後、山田司書官が書名カードを著者名カードに書き換えたため、書名からの利用ができなくなり不便な状態となった。現在も東大の総合図書館参考室にあるカードは著者名カードのみ。同館には現在も、和田万吉や植松が関わった目録の名残が随所に見られる。

【質疑・コメント】
  • 植松の一年間の海外出張は、東京帝大図書館としての業務だったのか。→【発表者】不明。帰国した時の歓迎会を日本図書館協会で開催しているので、そちらの業務だったのかも知れないが、団体の仕事で一年も外遊できるものか。

2.ローマ字普及活動
・植松はローマ字普及推進者であった。全編ローマ字で書かれた著書などがNDLに所蔵されている。漢字の方が目録カード作成の際の労力が大きい、検索しにくい、意味を理解しにくいといった理由。「普通の図書館(public library)ではいかなる知識階級の人も相手にしなければならないのですから、これに対してはどうしても出来るだけ簡単な文字、紛れやすくない音順というものを用いねばならぬ」との言あり。1936(昭和11)年には賀茂真淵の墓前に『ローマ字万葉集』を供えた。


3.和田万吉との関係

・日本図書館協会の仕事を共にするなど、当時東京帝大図書館長であった和田にとって腹心の部下と言える。ただし和田の方は今澤慈海宛の書簡で植松を「狡獪」と評し、不信感を持っていた節もある。
・1923(大正12)年の関東大震災で、和田は被災の責任をとって図書館長を退職。この頃の今澤慈海宛書簡で、和田は植松が震災前後の混乱に乗じて自分を放逐したという趣旨をほのめかせ、怒りを露わにしている。

【質疑・コメント等】
  • テキストに載る植松のエピソードからは豪快な人柄が伺え、几帳面な和田万吉とは合わなかったのではないか。
  • 東京帝大図書館長交代の経緯。震災の時植松は現場におり、資料の救出などに尽力したと自ら書き記している。いっぽう和田はその場にいなかったことで責任を問われることになった。代わって館長となった姉崎正治は図書館商議会の筆頭であり、国際的知名度もあった。震災を受けての外国からの支援申し出に対応する意味でも姉崎が相応しかったと思われる。
  • 姉崎館長のもとで植松がどのような仕事をしたかは資料がなく、良く分からない。
  • 今澤と和田のやりとりした書簡は何故残ったのか?→今澤死去の後、未亡人から都立中央図書館に預けられたもの。日本図書館協会百年史を作る時に集められた資料の一部でもある。
  • このあたりの経緯は薄久代『色のない地球儀』(同時代社、1987)に詳しい。薄さんが東大の文書を整理して戦前の東大図書館について書いたもの。これらの文書は「東大図書館史資料目録」に掲載。東大百年史の図書館の項目執筆にも関わっていたはず。
  • 南葵文庫寄贈の時点では、徳川頼倫(日本図書館協会総裁)と和田と植松の関係は悪くなかったということか。→【発表者】徳川との関係については分からない。
  • 和田万吉は有力者なので、関係が悪化してから一年ぐらいの間は植松を日本図書館協会の中枢から外そうとしていた形跡がある。しかし和田以外の周囲はさほど悪感情もなく、業界全体において植松が孤立していた訳ではないかもしれない。
  • なお震災後、日本図書館協会の主導権が一時関西に移っている。大阪府立図書館長の今井貫一が理事になり、図書館雑誌の編集を間宮不二雄が行っていた。

4.台湾時代の植松安

・昭和4年に台湾に渡るまでの間の植松の活動は不明。休職したりしている。
・台湾での植松は国立台湾大学中央図書館で「蜻蛉日記」の新写本を発見、蜻蛉日記の注釈を行っていたが、中断した。上代国文学者である植松がなぜ「蜻蛉日記」に興味をもったのかは不明。中断した理由は、植松と同じ手法で喜多義勇が多大な成果を上げていたことから、敵わないと思ったのかもしれない。
・上記のような国文学関係の仕事と並行して、「忠君愛国」者としての著述活動を行う。特に昭和10年代からは思想的活動の方が目立つ。
・1933(昭和8)年、台湾日日新報社長河村徹と植松とのラジオ放送を機に台湾愛書会が発足。「書誌学を中心としての諸種の研究、並に大衆教化」を目的に、展覧会や講演会などを開催していた。会誌『愛書』は国立国会図書館のデジタル化資料にも入っている。

【質疑・コメント等】
  • 参考文献に挙げられた国文学関係の植松の著作を見るとあまり統一感がなく、興味の赴くまま色々なことを研究していたのではないか。
  • 植松のローマ字推進と、忠君愛国主義には接点があったのか。→【発表者】日本語を世界に広めたいという姿勢は感じられる。1916の雑誌記事『図書館とローマ字』でもそのような記述がある。ただし森有礼の英語国語化については批判しており、言葉そのものを置き換えようという考えとは一線を画している。
  • 戦前の図書館関係者にはローマ字推進を唱えた人物が多かった。代表的なのは間宮不二雄。この人物が関西の若手図書館職員を集めて作った青年図書館員連盟は、当時、日本図書館協会への対抗意識があったといわれる。日本図書館協会に属していた植松が、ローマ字推進を通じて間宮につながっていたとすると面白い。
  • 植松が忠君愛国主義に傾いていった時期である昭和10年は、美濃部達吉の天皇機関説事件があり、岡田内閣が国会で国体明徴声明を出した。思想史上大きなターニングポイントとなった年。これ以後、特に公職にある人の言論には大きな影響が出てくるので、植松個人の問題かどうかは慎重な評価が必要。
  • 当時の台北大学図書館の蔵書構成はどのようなものだったのか。現在日本では散逸してしまい、台湾でだけ残されているといった資料はないか。また、総督府との蔵書の違いは。→【会場】日本書紀の古い本や、蜻蛉日記等が発見されている。九州大学の中野三敏と松原孝俊が科研費での調査を行っている。中野の著書『和本のすすめ』でも言及があった。
  • <参考:cinii図書 - 台湾大学所蔵日本古典籍調査
  • <参考:台湾大学所蔵和本善本目録の刊行について
  • <参考:台湾大学図書館所蔵の日本研究文献から見た日本殖民史
  • 台北大学では学位授与などはされたのか。→【発表者】不明。ただ、台湾の人が日本文化について書いたものに植松は序文を寄せたりしている。

5.植松安の最期
【質疑・コメント等】
  • 植松は米軍のLST(戦車揚陸艦)で引揚げる途中の船内で息を引きとった。LSTは構造上、衝撃が強いので、病身の植松には過酷だっただろう。
  • 植松の亡くなったのは1946年3月23日であり、終戦後半年くらいは生きていた。その間の著述で、思想の転向などは見られるか。→【発表者】探した範囲では1940年以降の著述はない。


終了後は懇親会が開かれた。

2012年3月28日水曜日

第12回勉強会のお知らせ

事務局2号です。
ご連絡が遅くなってしまい、申し訳ありません、

下記の日程で、第12回の勉強会を開催いたします。
御多忙のところと存じますが、ご参加をお待ちしております。

日時:4月15日(日) 14:00~
会場:京都商工会議所第一会議室
テキスト

図書館を育てた人々. 日本編 1 / 石井敦. -- 日本図書館協会, 1983.6
http://opac.ndl.go.jp/recordid/000001644230/jpn
http://webcat.nii.ac.jp/cgi-bin/shsproc?id=BN01584842

から、「植松安」を取り上げます。
報告者:服部 智氏

参加ご希望の方は、事務局<toshokanshi.kansai @ gmail.com(@は半角)>までご一報ください。
twitterアカウント@k_context宛にご連絡いただいても構いません。
どうぞよろしくお願いいたします。

(4/2 会場確定しました)
(4/8 申込方法追記しました)

2012年2月28日火曜日

第11回勉強会(2012年2月26日)報告

「日本近代文学館が設立された頃の話:今から半世紀くらい前に文学資料の未来を考えていた人々がその頃にいったい何をしていたのか」
日時:2012年2月26日(日) 14:00〜17:00
会場:京都市勧業館みやこめっせ第3多目的室
発表者:岡野裕行氏(皇學館大学文学部国文学科助教)


今回の発表では、岡野裕行「内なるMLA連携―日本近代文学館」NPO知的資源イニシアティブ編『デジタル文化資源の活用』(勉誠出版、2011)所収の内容を踏まえ、日本近代文学館設立に関わった様々な人々の考え方、協力の仕方が紹介された。

当日の関連するつぶやきをまとめたtogetterはこちらを参照

参考:日本近代文学館ホームページ



はじめに発表者から、どうして文学館の問題に取り組むようになったのか、自己紹介を兼ねた説明があった。図書館と文学をつなぐ視点を模索してきたという発表者は、はじめ書誌学(個人書誌)の作成を軸に研究活動を行ってきたが、より図書館に即した視点を考えているうちに、調査で利用していた文学館の機能そのものに注目するようになったという。文学館は博物館の一形態とみなされることもあるが、図書館の機能、アーカイブズの機能も備えている。発表者は2009年に文学館研究会も立ち上げ、文学資料の所在調査を行なってきたという。ここ最近は文学散歩、まちあるき、まちづくりというように、文学というテーマをもとにして、地域社会における文化情報資源の活用にも関心を拡げているとのことである。



以下、発表の内容である。発表は、日本近代文学館の歴史に沿って進められ、大きく分けて、設立の背景、初期の活動、サービスの順に展開していった。

日本近代文学館は、1962年に設立され、1967年に開館した。それまでも文学者を顕彰する形で、記念館は設立されていたが、固有名詞として「文学館」という名称を持つ施設はこれが初めてであり、以後全国に同じような施設が普及していった。なお、当初「プロレタリア文学図書館」「近代文学図書館」などの名称が考えられていたことに示されるように、そもそも文学館は図書館としての機能を期待されていた部分があった。また、プロレタリア文学の資料がもっとも散逸しやすかったということで、逆に資料保存の機運が高まっていたことも興味深い。


(文学館設立の背景)
文学館設立の背景になったのは、1961年に立教大学の小田切進研究室が学園祭で行った「大正昭和主要文芸雑誌展」である。文芸雑誌をまとまった形で見ることができなかった時期に、雑誌を集めて展示することは大きなインパクトがあった。ここから文芸雑誌など散逸しやすい資料収集保存が必要との問題意識が生まれ、文学館設立に向けた動きが進められていく。主な活動の中心となった人物は、小田切進と、川端康成そして高見順だった。


(活動初期の協力者)

文学館の設立には、多くの理解と協力・連携が必要不可欠であった。

文学館の設立にあたっては、学界・文壇・作家の遺族・出版業界・古書店業界・マスコミ・図書館業界・政財界さらに百貨店業界の協力があった。文壇関係者では、高見順・伊藤整らは、自らが文学の歴史を編んだ経験から、文学館設立の必要を認識しており、川端康成は、とくに広告塔として各方面への助力に奔走したとされる。初代理事長になった高見も、病をおして文学館設立の必要を訴え続け、その姿がマスコミに取り上げられることにより、設立の機運を醸成した。また、古書店業界からは、本郷・ペリカン書房の品川力が、文学館の意義を認めて商品を寄贈するという破格の協力を申し出た例もあった。品川力文庫目録として彼の資料は今も文学館に大切に残されている。

また、文学館がまだ竣工していない1964年の時点で、活動の意義が認められ菊池寛賞を受賞し、マスコミに大きく取り上げられたことが、決して順調ではなかった文学館設立への追い風になったと、当時を知る人は回顧している。また、文学館の建物が駒場に経つ以前には、日本近代文学館文庫が1964年に国立国会図書館支部上野図書館の片隅に開設された。このとき、森清をはじめとする整理担当職員が協力して、「日本近代文学館分類法」を作成している。同じ時期には、文学館では百貨店と連携しての展示活動なども積極的に行っていた。


(初期の文学館職員と図書館的業務)

活動初期の図書館的業務を担う職員として、約10年の現場経験を持つ大久保乙彦という人物が、都立日比谷図書館から移籍してきた。文学館が文学研究のための専門図書館を目指そうとする際に、専門知識を持つ職員が必要とされたため、設立運動関係者の一人と学生時代のからの友人であった大久保に白羽の矢が立った。(岡野裕行「文学館業務を形作った図書館職員・大久保乙彦の活動:1960年代の都立日比谷図書館と日本近代文学館」『第57回日本図書館情報学会研究大会発表要綱』2009,p.57-60)

文学館は、そのサービスとして資料提供と展示などの活動を中心に行っているが、そのほかにも初版本の復刻事業を積極的に行っていった。これらは図書館などの施設だけでなく、高度成長期のなかで家庭向けにもかなりの数が売れ、初期の文学館の財政面を助けたと考えられる。


主な質疑とその応答は以下の通り 。

  • 【会場】「文学館」の名前が出て来た経緯は面白い。スタッフに図書館の人もいるのに、なぜ最終的に図書館にしなかったのか?→【岡野】展示機能を重視するなど、図書館機能に収まらない部分が大きかったからだと思われる。なお、初期の関係者にプロレタリア文学研究の人が多く、図書館といって直ちに連想されるような公立の施設にはしたくなったということも考えられる(事務局注:日本近代文学館は設立当初から独立財政の施設であり、現在では公益財団法人の運営である)。
  • 【会場】図書館サービスと図書館の自己認識はつながっているように思うが、同じような意味で文学館サービスというものが一般的に考えられるのか?→【岡野】文学館の存在形態が多種多様であり、ケースバイケースのところはある。
  • 【会場】50~60年代の歴史学の分野で起こっていた資料保存の運動と、一連の動きとして捉えたら色々見えてくるものがあるのではないか。国文学研究資料館の設立の動きや、憲政資料室の一般公開、常民文化研究所、さらに学術会議の答申など。上から下までといっていいかわからないが、大きなうねりの中にあった出来事だと思う。
  • 【会場】『中小レポート』と同じ時期の話なのだけれど、あの経験が生きてハコがどんどん作られていったという通説はなく、実態はハコがあり、そのなかから成功事例が出て来たのではないかと思っている。今回の事例は、『中小レポート』の読み直しにも関わってくる気がして面白い。
  • 【会場】資料収集の基準は、開館当初と今では違うかもしれないし、また文学館がケースバイケースのところがあるので一般化できないかもしれないが、資料で見たとき、雑誌を重視するのか、作家の手紙を重視するのか、当初の方針ではどちらにウェイトがあったのか。→【岡野】何でも漏れなく集める方針だったと思う。ただし、複本をはじいたりせず、誰々が持っていた蔵書ということで、ある種原秩序のまま保存しようというアーカイブズ的な発想は当初からあった。→【会場】そのなかでもこれは文学館資料、これは要らないもの、という線引きは為されたはずで、捨てられてしまったものはもう確かめようがないかもしれないが、実はその部分が文学館のアイデンティティにも関わってくるのではないか。
  • 【会場】文学館の協力者たちのなかで、とくに事務員が主体性を発揮している様子が面白かった。彼らの思想がどういうものであったか、聞き取りや館の編集物を通じて掘り下げていったら、すでに質問が出たことにさらに色々な角度から光があてられると思う。

勉強会開始以来最高人数の出席者を得て、活発な議論が行われた。
終了後は懇親会が催された。

2012年1月8日日曜日

第11回勉強会のお知らせ

新年明けましておめでとうございます。
本年もどうぞよろしくお願いいたします。

さて、下記の日程で、第11回の勉強会を開催いたします。
御多忙のところと存じますが、ご参加をお待ちしております。

日時:2012年2月26日(日) 14:00~
会場:京都市勧業館みやこめっせ 第3多目的室
※通常の会場と異なりますのでご注意ください。
※会場へのアクセスはこちら。京都府立図書館の隣です。

今回は、テキストの輪読はありません。

発表者:岡野裕行氏(皇學館大学文学部国文学科助教)
タイトル:「日本近代文学館が設立された頃の話:今から半世紀くらい前に文学資料の未来を考えていた人々がその頃にいったい何をしていたのか」

会場費は参加者で割りたいと思いますのでご承知おきください。
差し入れ歓迎いたします。

参加ご希望の方は、事務局<toshokanshi.kansai @ gmail.com(@は半角)>までご一報いただけると助かります。
twitterアカウント@k_context宛にご連絡いただいても構いません。

※昨日の案内掲載後、早速多数の方から参加表明をいただきました。ありがとうございます。会場の都合により、多少狭くなる可能性がありますので、あらかじめご了承ください。(2011/1/9追記)

※先月中にいただいた参加ご希望が、会場の定員に達したため、次回の参加募集を終了させていただきます。事務局の不手際を深くお詫び申し上げます。当日の模様は、できる限り本ブログにも掲載したいと思いますので、ご理解いただきますよう、伏してお願い申し上げます。(2011/2/1追記)

どうぞよろしくお願いいたします。