2012年11月30日金曜日

文脈の会 東西合同合宿(2012年11月3日~4日)報告

日時:2012年11月3日(土)~4日(日)
会場:金沢文圃閣(石川県金沢市)
出席者:16名(東京11名、関西5名)

東京と関西に拠点をもちそれぞれ活動している文脈の会メンバーの親睦と研鑽を目的として、初の合宿を開催した。場所は図書館史・出版史・書誌学に関する精力的な出版を行なっている金沢文圃閣・田川氏のご厚意により、同店内の一角をお借りして実施した。
東西文脈の会から報告者を選び、以下に掲載する4本の報告が行われた。


◎徳川頼倫の人間関係(長坂和茂氏)

 紀州徳川家第15代当主・徳川頼倫(1872-1925)の人間関係について、図書館界との関わりを中心に報告がなされた。

頼倫は田安徳川家に生まれ、1880年に紀州徳川家当主・徳川茂承の養子となり、1890年に茂承の長女久子と結婚した。その後英国留学を経験し、1906年に茂承が亡くなると紀州徳川家当主となった。紀州徳川家当主となる前に南葵文庫を建設、当主となってからは史蹟名勝天然紀念物保存協会会長、日本図書館協会総裁、聖徳太子一千三百年遠忌奉賛会会長等を務め、様々な団体の設立・運営に携わった。

 頼倫は自らが南葵文庫を設立する一方、日本文庫協会の協会基金に寄附をしたり、全国図書館大会を南葵文庫で開催するなど、草創期の日本文庫協会(日本図書館協会)の有力な協力者であった。1923年に起きた関東大震災で東京帝大図書館の蔵書が焼失すると、頼倫は南葵文庫の蔵書を帝大図書館に寄贈し、文庫を閉館する。また同年12月に頼倫は5万円を日本図書館協会に拠出し、協会は毎年3千円の利子を受け取る約束を結んだ。

1925年に頼倫が亡くなった後、協会と紀州徳川家との関係は微妙なものになってゆく。紀州徳川家は震災の影響による地代収入の減少と1927年に十五銀行が破綻したこと等により、家の財政が窮迫していた。1931年に協会は社団法人に改組し、その際頼倫より寄附された5万円を基本財産として取り込む。ところが徳川家よりこの5万円の引き上げと利子給付打ち切りの申し出があり、この件は以後解決まで9年を要する争いとなった。

【質疑等】
  • 紀州徳川家顧問団の共通点は何か。 →上田貞次郎、小泉信三は父が紀州藩士。なお、1925年に徳川家家令鎌田正憲から日本図書館協会に対して上田、小泉を理事に加えるよう要求が出るが、小泉は慶應義塾大学図書館長を務めており図書館について全くの門外漢ではない。上田も東京商科大学教授であり、図書館と何らかの関係があった可能性あり。
  • 十五銀行は華族の叛乱防止を目的として華族から出資させていた銀行。その破綻は華族界全体にダメージを与え、松方巌はその責任を取らされた形となった。
  • 南方熊楠との関係 … 南方は頼倫に対して否定的評価をしている。
  • 史蹟名勝天然紀念物保存協会について→頼倫、達孝、戸川安宅、橘井清五郎など内務省関係者以外には徳川家のメンバーが多い。 丸山宏は、旧幕臣の文化的な復権を目指した、と指摘している。
  • 東京帝大図書館に寄贈された南葵文庫旧蔵書の中には、南葵文庫に寄託されていたものも含まれている可能性がある。
  • 家の跡継ぎが団体の総裁職を引き継ぐケースはあるか →そういった事例は見つけられなかった。その後の調査で聖徳太子奉賛会は総裁が久邇宮、会長が細川家によって引継がれていることが分かった。
  • 芝義太郎とは? →印刷機械製造大手の東京機械製作所社長。高柳との関係は不明。
  • 今後の検討の方向性としては、①頼倫の貢献を日図協の財政状況を追いながら丁寧に調べる、②1925年の状況について和田書簡などを再度精読し明らかにする、の2点が示唆された。

◎金森徳次郎と草創期の国立国会図書館-戦後日本におけるある「ライブラリアンシップ」の誕生-(春山明哲氏)
 国立国会図書館の初代館長を務めた金森徳次郎(1886-1959)を取り上げ、その生涯と業績について報告がなされた。

 金森は名古屋に生まれ愛知一中、第一高等学校を卒業後、1908年に東京帝国大学法科大学英法科に入学。1911年、東京帝大在学中に高等文官試験(行政科)に合格し、翌年東京帝大を卒業すると大蔵省に入省した。1914年に法制局参事官に転じ、以後法制官僚としての経歴を重ね、1934年には岡田啓介内閣の法制局長官に就任する。1935年の「天皇機関説事件」で委員会答弁をきっかけに攻撃され、翌年1月に法制局長官を辞任した。

 その後は終戦まで表舞台に出ることはなかったが、1945年11月に日本自由党の憲法改正特別調査会のメンバーとなり、憲法改正に関わることとなる。1946年、第一次吉田内閣で憲法問題担当の国務大臣に就任。1948年2月、初代国立国会図書館長に就任した。また同年4月には国会議員を中心に反対意見の多かった中井正一の副館長就任に同意し、中井を副館長に任命している。

 1950年1月から約2ヶ月間、金森は国会訪米視察団の一員としてアメリカを訪れ、米国議会図書館を始めとした米国内の図書館を視察している。この時金森はシカゴのアメリカ図書館協会で挨拶をし、その中で1947年に米国図書館使節として来日したヴァーナー・W・クラップ、チャールズ・H・ブラウンやダウンズ報告で知られるロバート・B・ダウンズに対する謝辞を述べている。

 金森は1948年に就任してから1959年に亡くなる直前に辞任するまでの約11年間、国立国会図書館長を務めた。この11年間は1948~1952年を前期、1953~1959年を後期とすることができる。1952年は5月に中井副館長が死去し、12月に建築委員会で新庁舎建築計画が決定した画期となる年であった。

 金森の功績としては(1)文化財・学術資料の保存、(2)調査及び立法考査局の拡充整備、(3)科学技術資料の整備、(4)憲政資料の収集・整備、が挙げられる。(1)は静嘉堂文庫、東洋文庫、大倉山文化科学図書館を「支部図書館」とし、財閥の文庫の支援を嫌うGHQの反対を押し切って文化財と学術資料の保存を図ったものである。(2)は訪米の成果であるが、米国議会図書館が国立国会図書館のモデルである、としてその後の組織整備に道筋を付けた。金森は図書館・書物文化の表現の場として雑誌『読書春秋』の刊行に力を注ぎ、みずから全105冊に随筆等を執筆した。一方では1958年に起きた「春秋会事件」に見られるように、組織運営における諸課題については、問題を指摘される面もあった。

 人事の上では中井正一を副館長としたことは成功として評価されている。また法制局時代から交友関係にあった佐藤達夫は金森の追悼文の中で、点字図書館を支援したこと、受刑者のための愛の図書運動を行ったこと等を挙げて、その「図書館人」としての功績を評価している。なお佐藤は1955年から1962年まで専門調査員として国立国会図書館に勤務しており、その間の最も重要な仕事として『日本国憲法成立史』全4巻の執筆が挙げられている。


【質疑等】
  • 戦後、吉田内閣閣僚としての国会答弁では、図書館使節団の来日前に議会図書館の必要性等を訴えている。
  • 中井正一のNDL副館長就任にはその前歴・思想から反対意見が多かった。金森もその任命に当たっては消極的承諾という態度。

◎竹林熊彦 -五つの論点(よねい・かついちろう氏)


 図書館学・図書館史研究者として知られる竹林熊彦(1888-1960)を取り上げ、その言説について報告がなされた。

 竹林については、関係者による顕彰的なもの、竹林文庫に関するものを除けば専論は少ない。その専論も評伝、あるいは図書館史研究者・史料発掘者としての言及・評価が主となっており、竹林の図書館員の労働問題・戦後の学校図書館運動への関わりなどと彼の主な研究領域であった図書館史研究との連関が明らかにされていない。また図書館史研究についても、その業績の中で「戦後歴史学」的価値観ではマイナスと考えられた点については棚上げした評価となっており、こうした点を含めてトータルとして把握する姿勢に乏しい。

 これらの課題を踏まえて今回の報告では、今後における,竹林が精力的に活動した時代(戦前から戦後初期)の図書館史の見直しを念頭におきつつ,報告者により5つの論点が提示された。なお,発表については,後日,発表者により文章化されると聞いている。

【質疑等】
  • ・戦前来「図書館の大衆化」をあれほど主張した竹林が,戦後,図書館発展の戦略として,地域における比較的少数の読書人を目標とした公共図書館運動を主張することとなった契機は何か。この契機が明らかにならなければ,彼は単に状況にあわせて言を左右したということにしかならないのではないか。 →残念ながら質問の点については,資料的に明らかにすることはできなかった。戦後の彼なりに,戦争を支えた当時の公共圏の流動化に対する反省的な認識があったようにも思えるが発表者の推測の域をでない。今後の重要な課題である。
 
◎中央図書館長協会について(鈴木宏宗氏)


 1931~1943年にかけて存在した中央図書館長協会を取り上げ、改正図書館令(1933年)以後の昭和前期の公共図書館の状況と中央図書館制度を調べる前提として、その事実紹介がなされた。

 1933年の改正図書館令は、日本の図書館史上重要な意味を持っている。特にこの第一条に盛り込まれた文言の解釈をめぐっていわゆる「附帯施設論争」が起こり、中央図書館制度にも言及されることが多い。にもかかわらず、この改正図書館令の実態を解明した研究は少ない。また中央図書館長協会についても、これに焦点を当てたものはほとんどない。

 中央図書館長協会設立の背景を探る際には、1931年に社団法人化した日本図書館協会の状況や当時の図書館界で形成されていた各グループのあり方を考える必要がある。当時既に図書館令改正に向けた活動が行われており、1930年3月には文部省が主催する全国図書館長会議が開かれ、そこで文部大臣から「現行図書館関係法規上ニ於テ改正ヲ要スル事項如何」との諮問がなされている。

 中央図書館長協会が成立したのは、1931年10月に開かれた全国道府県図書館長会議(帝国図書館主催)においてである。当時の帝国図書館長・松本喜一は師範学校長の経験があることから、これは師範学校長協会と文部省の関係を参考にした可能性がある。なお会の構成員は、「官立図書館長」「道府県立図書館長及之ニ準スヘキ公立図書館長」「六大都市ニ於ケル代表図書館長」とされた。

 同会の活動としては、1943年に会が解消するまでに7回協議会が開かれている。このうち、1933年5月の第2回協議会では中央図書館制度の導入が建議され、同年改正図書館令第十条には中央図書館制度を導入する旨が示された。1935年の第3回協議会では、「中央図書館ノ充実ニ関シ最モ適切ナル方策如何」との文部大臣諮問に対して答申している。この協議会と相補うものとして、文部省が主催する中央図書館長会議があった。参加メンバーも両者はほぼ重なるが、協会の協議会が“協議”なのに比べると、後者では訓示、指示事項等の構成となるなどの相違点もあった。

 また同会の機関誌として、『中央図書館長協会誌』が3号まで刊行されている。このうち、1939年に刊行された1号と2号は石川県立図書館長の中田邦造が編集を担当している。中田は翌年5月から『図書館雑誌』の編集となっており、報告者は中田の中央図書館長協会構成員としての経験が1940年8月に『図書館雑誌』に発表された中央図書館制度拡充意見につながっているのではないかとした。

 会の活動内容の究明とその転換点を明らかにすること、また他の協議会・教育関係団体との同時代比較が今後検討を要する点として挙げられた。

【質疑】
  • 改正図書館令は文部省が単独で起案しているのか。 →第三条など図書館行政にとどまらない内容もあるため、起案時に内務省に内々に交渉している。

 ※全ての発表が終了した後、金沢文圃閣さんのバックヤードを見学させていただいた。
 普段は目にすることのない事務スペースや書庫まで通していただき、じっくりと本を探すことができた。

1 件のコメント:

  1. 1段目の発表者の長坂です。
    すみません。日図協の社団法人化は1931年ではなく、1930年でした(11月4日に文部省から認可)

    私の発表時点での誤りでした。

    お詫びして訂正いたします。
    参考: http://www.jla.or.jp/jla/tabid/226/Default.aspx

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