2013年12月3日火曜日

第21回勉強会のお知らせ

下記の日程で、第21回の勉強会を開催いたします。
御多忙のところと存じますが、ご参加をお待ちしております。

日時:2014年1月18日(土) 14:00~17:00
会場:京都商工会議所 第三会議室

発表者:今野創祐氏
タイトル(仮):先輩司書について語る! ~天野敬太郎の人生~

また、会終了後は、新年会を兼ねた懇親会を予定しております。
おおよその人数を把握したいので、参加ご希望の方は
会合の一週間前までを目安に、
事務局<toshokanshi.kansai @ gmail.com(@は半角)>までご一報ください。
twitterアカウント@k_context宛にご連絡いただいても構いません。

どうぞよろしくお願いいたします。

2013年11月22日金曜日

第2回東西合同合宿(2013年11月2日~3日)報告

日時:2013年11月2日(土)~3日(日)
会場:シェアハウス鍵屋荘(京都府京都市)
出席者:22名(東京8名、関西14名、※一日のみ参加も含む)


昨年に続き、東京と関西に拠点をもちそれぞれ活動している文脈の会メンバーの親睦と研鑽を目的とし、京都を会場として第二回目の合宿を開催した。
東西文脈の会から報告者を選び、以下に掲載する報告が行われた。


●「滋賀県における文化行政と図書館整備」(中込栞氏)


 1970~80年代の滋賀県の文化行政と図書館振興政策の関わりについての報告。報告者の卒業論文を元にした内容である。

 滋賀県の図書館振興政策について論じた先行研究は、滋賀県を見習う「べき」、という振興策ありきの論調であり、そもそも振興策がなぜ作られたのか、という点への問いかけが少なかった。そこで行政全体に関わる広義の「文化行政」に焦点を当てることで、教育委員会所管の事業にとどまらず、行政全般と図書館振興策との関連を検討した。

 1974年12月から1986年にかけて、滋賀県知事を務めたのが武村正義氏である。武村知事は琵琶湖の富栄養化の防止に関する条例等に代表される「草の根県政」を標榜。文化行政の面では、「県政に文化の屋根をかける」をスローガンとして、県教育委員会に文化部を設置。その中の文化振興課が中心となって、1979年から「文化の屋根事業」が始まる。武村氏が知事に就任する以前の1970年ころから県立図書館の新館建設要望は出ていたが、1979年に新館建設起工。工事と並行して文化振興課による館長探しが行われ、日野市立図書館長などの経験を持つ前川恒雄氏に依頼し、図書館運営を任せた。(1)貸出中心(2)県立図書館による市町村立図書館のバックアップ(3)専門職重視、という理念に基づく運営で、滋賀県の図書館は大きく前進した。

 1980年に、①住民の図書館欲求の育成、②市町村立図書館整備策の二つを柱とする『図書館振興に関する提言』がまとめられた。これらのうち、①は「草の根図書館」として、②は資料費補助を伴った図書館整備補助として実現する。この『図書館振興に関する提言』は単なる図書館整のための提言ではなく、知事の目指す草の根県政の実現の手段としての図書館像を描いている。またその後整備状況によって、効果的に改訂が加えられていった。
 
 武村知事にとって、図書館振興は「草の根県政」実現のための手段であり、図書館の振興は政策的に有効と判断されるものであった。時代的背景や、行政・現場双方からの図書館に期待する役割像が一致していたなど、図書館の世界だけに留まらない行政全体としての様々な要因が加わった結果、滋賀県の振興策は成功したのだと考えられる。

◆質疑
  • 滋賀県立図書館長時代の前川氏にインタビューを行ったことがある。行政担当者としての手腕や、先進的にコンピュータを導入したことなど、図書館経営者としてマネジメント能力のある人だという印象をもった。
  • 新館建設前の県立図書館を使ったことがある。武村県政と西武グループの滋賀県への進出とが歩を合わせている様に見受けられる。  →その通り。プリンスホテルの進出、西武百貨店の誘致etc...
  • 県立図書館論について調べたことがあるが、武村知事、前川氏による滋賀県の図書館振興への意向・意志を詳しく書き残したものはほとんどない。何故か。かなり後の岸本岳文氏による記述しかまとまったものがないのが不思議。
  • 滋賀は元々、近江商人の地として、近世から書籍や情報にあふれていた印象がある。その意味で、図書館という輸入された近代的装置がそれほど求められなかったのではないか。現在の「文化行政」論の場合、方法として行政側のみの視点におうおうにしてなりがち。地域側からの視点や特性をどう入れるかが今後の議論の発展に重要になる。また、「革新官僚」としての武村知事の在り方も検討を要するのではないか。


●「竹林文庫史料から見る田中稲城」(長尾宗典氏)


 報告者による田中稲城(1856~1925)に関する研究の中間報告。初代帝国図書館長である田中については、戦前期の竹林熊彦による伝記的研究があるが、戦後はあまり研究がなされていない。同志社大学所蔵竹林文庫に含まれる田中稲城の文書は、デジタル化され提供されているが、田中の伝記的研究の欠を補うに足る一次史料であり、丁寧に見ていくことでさらなる知見が得られると期待される。
報告者は竹林文庫史料の履歴書などを使い、田中の年表作成を試みた。また、竹林が使用しているによる田中稲城文書の年代比定にも疑問点がある。この他にも田中宛の書簡から浮かび上がってくる人間関係には意外なつながりもある。

 現在までのところ、竹林の伝記も含め、田中への論級は明治の中ごろ。米国に留学してから帰朝して帝国図書館設立に至るまでの時期に集中しており、明治末期から大正にかけての田中の事績は不明な点が多い。ただし、『図書館雑誌』創刊や図書館員講習、小松原訓令の起草など図書館史上重要な事柄にも関与しており、決して重要でないわけではない。これらをどのような文脈に位置付けられるかは今後の課題である。

◆質疑
  • 竹林が「土」に連載した文章中に、田中稲城関係史料が竹林に寄託される経緯の記述がある。これ以前の竹林による田中稲城論は、竹林が個人的に収集した史料によるものか。しかし、私的な書簡がそんなに流通するものか疑問。 →竹林の田中研究はきわめて重要だが、ほとんど彼だけが研究しているので、使っている史料の面からも、批判的に吟味していく必要があると考える。
  • 田中の名の読みは「イナギ/キ」か「イネギ/キ」か。サミュエル・グリーンなど、海外の人物からの書簡が残っているようなので、手掛かりになるのでは。
  • 田中稲城を研究する意義とは。帝国図書館史研究にどうつなげるか。人物から組織を研究する際の問題点・課題を整理する必要がある。また、人物研究でもその人物の個人的資質だけでなく、組織運営能力その他の検証が必要。


●「「長田富作資料」について」(門上光夫氏)

 十五年戦争期に大阪府立図書館長だった長田富作(おさだ・とみさく)が遺した図書館活動に関する資料について紹介された。なお、この資料については第17回関西文脈の会勉強会(2012年12月)で報告いただいており、今回はそれ以降の資料整理の成果も踏まえた報告となった(長田の経歴等については、リンク先等を参照)。文書については一通り整理が完了し、前回報告時に未整理だった書簡については今年から整理が進められている。

 資料群は大阪府立図書館の庶務・展示会・貸出文庫関係、また大阪や近畿地方の連絡組織関係、日本図書館協会関係、中央図書館長協会関係のものからなり、全480点存在している。最近発行されたばかりの『大阪府立図書館紀要』第42号(2013年10月発行)に、目録を掲載してある。

 報告では資料群のなかから、青年層のための国民精神総動員文庫関連の史料、戦地への「貸出」記録、読書会の史料、大阪文化施設協会の史料、日本図書館協会や中央図書館長協会関係の議事次第や名簿などがあることが紹介された。
門上氏からは、戦時期の図書館活動に関する一次史料の発掘をこれから進めていく必要があること、並びに戦時期の図書館活動を日本の近代の歴史の中にどう位置づけて行くかという点について問題提起がなされた。

◆質疑
  • レジュメの内容紹介にある「注意」とはどんな史料か。 →提供時注意すべき資料(左派系と目されていた資料)。逆にいえばそういった資料も所蔵していた、ということ。
  • 書簡は大体何点くらいか? → 150~200点
  • 大阪文化施設協会の会則について、「文化施設」は文部省の課の名前でもある。戦時中、社会教育的な分野で施策を行う場合、「文化」の名の下に行っている。図書館史だけでなく、博物館史や戦時文化運動の史料ともなろう。
  • 中央図書館長協会についての研究でも文化施設協会の在り方は関連するのではないか。
  • 「文化」「科学」という語が広く喧伝され始めるのは1940年代から。敗戦後、唱えられたかのように思われがちだが、戦中期からのもの。これが戦後初期のスローガンのひとつ「文化国家」にスライドしてくる。この視点から捉え直す必要がある。

●「田中一貞と慶應義塾図書館」(田村俊作氏)

 慶應義塾図書館の初代監督を務めた田中一貞(たなか・かずさだ(「いってい」と読む史料もある)1872~1921)について、『慶應義塾図書館史』などを元に、経歴をたどりつつ、彼の人となりや図書館観などについて紹介がなされた。

 田中は山形県、鶴岡の出身。同郷の縁もあって若き高山樗牛とも親交を持った。慶應義塾を卒業後、アメリカ、フランスに留学し、社会学を修めた。明治37年(1904)帰国後は、慶應義塾において社会学と仏語を講じた。翌年、書館が「図書館」と改められると初代「監督」を兼任し、目録カード編成や図書館規則の制定に尽力した。長く塾長を務め、福沢没後の義塾の発展に尽くした鎌田栄吉の信任が厚く、半年以上に及ぶ欧米巡遊にもともに出かけている。

 田中の人となりについては、「開放主義」と呼ばれる人柄で、来客は夫人とともに迎え入れるような人が集まるタイプの人だったらしい。また、留学中、フランスで洋画家グループと交流を持ったこともあり、大の美術品収集家であった。病弱な一面もあったという。福沢諭吉のことをたいへんに尊敬し、「赤誠熱愛のハート」を持った教育者であったと回想している。

 図書館については、開架の提唱や塾外者の利用を認めるなど、利用者の便宜を重視する運営をした。図書館建築に一家言を持っていた人で、図書館は“防火性”“効率性”“拡張性”が重要だと述べているが、こうした田中の考えに基づいて作られた慶應義塾図書館旧館は、空襲に耐え、二度の拡張により70年に渡って本館として使われた(また田中は美観も重視し、例えば、慶應義塾図書館内のステンドグラスは、田中の発案によるものである)。大学図書館長として早稲田の市島春城とはかなり違った個性だが、ユニークな図書館人として評価できる。

◆質疑
  • 田中が「図書館の専門家」でなく「素人」というのは、和田万吉らがしきりに言っていた専門性論と関係がある?田中は社会学者の顔も持っており、そこに一種の誇りも持っていたのでは。
  • 田中という人の業績は、普通に評価すると図書館建築に一家言あった人という程度に見えてしまうが。 →図書館人の歴史的評価が何によってなされるべきかという重要な指摘。今までは書いたものの図書館観が立派なら、それで評価されていたかもしれないが、図書館経営の評価はそれでははかれない。言説だけでなく、運営実態や、機能する施設といった実務業績も見るべき。

このほか、柳与志夫氏から「短報」として、大阪府立中之島図書館の歴史を振り返りつつ、橋下市政下における同図書館の改革に関する検討動向について簡単な話題提供があった。


また、終了後はオプショナル・ツアーとして、同志社大学図書館および本会メンバーである春山明哲氏のご厚意により、同図書館竹林文庫の見学会を開催した。

2013年10月9日水曜日

第20回勉強会(2013年10月6日)報告

第20回勉強会(2013年10月6日)報告
「司書養成科目「図書・図書館史」を考える 問題編と解答編」
日時:2013年10月6日(日) 14:00-17:00
会場:京都商工会議所 第一会議室
発表者:佐藤 翔氏
参加者数:11名

当日の出席者によるtwitter上のつぶやきをまとめたものはこちら

  • はじめに
発表内容は2つに分ける。
前半が問題編で、図書・図書館史の分析。教科書の内容から、司書課程で教えられている図書館史を分析したもの。後半は解答編として、前半で分析した現状を踏まえて、自分なりに考えた図書館史の授業についてお話しする。
 2012年6月5日に筑波大学図書館系勉強会で行った発表に、プラスαした内容になる。

  • なぜ図書館史に興味を持ったか?
自分の本業はアクセスログなど、分析畑の人。もともと図書館史に興味はなかった。
 興味を持つようになった遠因は、2009年に川崎良孝先生の図書館史についての講演を聴いたこと。これが面白かった。たとえば「民主主義の砦」といった文脈で語られる事の多いボストン公共図書館が、移民を文化的に洗脳してアメリカ化するという使命を持っていたことなど。
◆参考資料:「手に負えない改革者―メルヴィル・デューイの生涯」

 近因としては、関西文脈の会の存在。ウェブなどで活動の様子を見ると面白そうで、関西では図書館史の勉強が盛んなのだなという印象を持った。また、近年刊行された図書館史系の本にも興味をそそられた。
◆参考資料:「図書館を届ける」、「越境する書物」「新たな図書館・図書館史研究―批判的図書館史研究を中心にして」「国史大辞典を予約した人々」

 さらに直接的な理由として、教員として図書館史を教えるにあたり、自分自身体系的に図書館史を学ぶ必要が生じたこと。基本を押さえなくてはならない、では教科書を読んでみようと考えた。
 司書養成課程を受講した人でも、図書・図書館史の授業を受けた人は少ない。というのは選択科目だから。最近カリキュラムが改訂されたが、趣旨はあまり変わっていない。しかも図書館史は、カリキュラム改訂の度に削除されそうになっている科目でもある。一方で、教科書は複数社から出ており、開講している大学も多いという現状がある。



  • 調査方法
では、どこの教科書がいいか。司書養成課程において一番多くテキストとして使われているものはどれか、調査した。調査に使ったのは「日本の図書館情報学教育」(2005)。この資料で、図書館史の開講大学を確認。大学のHPでシラバスを確認し、テキストが指定されている場合にはどこの教科書を使っているか調べた。
 結果は以下のとおり。
・2012年現在「図書・図書館史」を開講しているのは65大学。うち教科書が指定されているのは33大学で、残りは配布プリントや「参考資料(=紹介されているが買わなくてもよい)」。
・33大学で指定されている教科書は計10種類。
・うち2大学以上が使っているのは4点。上位3位を以下に挙げる。
 1位:JLAの図書館情報学テキストシリーズ「図書及び図書館史」。14大学で採用されている。
 2位:樹村房の新図書館学シリーズ「図書及び図書館史」(1999)。10大学で採用。
 3位:東京書籍「図書及び図書館史」。2大学で採用。

 読んでみると、共通して押さえている事柄はある一方、重視するポイントや全体の構成には差がある。
 東京書籍版では、日本史/西洋史に分ける。古代から近現代までがだいたい均等。
 JLAの旧版「図書及び図書館史」では、メディア史・西洋史・日本史という分け方。図書史と図書館史が分かれている。日本の近現代が中心。海外史は新版よりは厚いが、おおむねさらっとまとめている。JLA新版でも構成は同様。メディア史の部分が長く、全体の半分くらい。それ以外はだいたい西洋史。書き手が比較的若いことも特徴。
 樹村房では、西洋史・中国史・日本史という構成。西洋史が厚い。明治以降の日本の図書館モデルは西洋だから当然ではある。新版では、まず時代区分を採用。中国・インド・イスラム圏の記述が厚いことと、前近代についての記述が充実していることが特徴。ちなみに同志社でもこれを採用。

 しかし教科書を読んでも、そもそもなぜ歴史を学ぶのかが分からない。たとえば世界史であれば、山川出版社の教科書だと冒頭で歴史を学ぶことの意義を書いているが、それが無い。また個別の歴史的事実は書いてあるが、その歴史的意味について書いていない。事象の相互関係や、全体の流れも分からない。
 関西文脈の第6回勉強会で谷航さんが発表された「マクロ図書館史」では、メディアの発展の流れから始めていた。まさにそういう話が、教科書にもあってほしい。何が面白いのか。教員がつまらんものを学生が面白がる訳がない。
【質疑】
・授業はすべてパワーポイントで行う?→だいたいそう。メディア史のほうが食いつきがいい。現物も見せる。授業用に羊皮紙を買った。
・最終的に樹村房の教科書にした理由→時代区分を採用しているのが自分のやりたい方向と合っていたから。

  • 解答編(初回の授業を再現)
「図書館」の「歴史」なんて、自分には関係ないし興味がないと思うかもしれない。しかし実際は図書館に限らない。実験・研究・着想といった情報の精算、そして流通、保存というサイクルの歴史であり、その手段や技術の歴史でもある。
 キーワードは「共有」ということ。情報や知識をいかに共有するか。このことは図書館員に限らず、すべての人が携わることになる。特に現代では、富の源泉が知識情報になりつつある。

 では、歴史を学ぶのはなぜか。むしろ現在と未来のためにこそ過去が必要。
 古代の図書館はどんなだったか。Googleで「古代 図書館」で検索すると、ファイナルファンタジーの画像が出てくる。本がいっぱい並んだ本棚のある空間。
 しかしほんとうの古代図書館では、これはあり得ない。そもそも古代の図書館にあった本は巻子。冊子体の本(=コデックス)が生まれたのが古代ローマであり、普及したのは中世ごろ。アレキサンドリア図書館でも資料は巻子だった。西洋史においては冊子よりも巻子・板だった時代のほうが長い。「本とは何か」という定義は時代と社会の状況で変わる。
 図書館は静かにすべき場所というイメージも近代以降。そもそも昔の読書は音読だった。古代ギリシャでも黙読は行われていたが、それなりの訓練の要るスキルだった。今でいうと速読のような感じ。声に出して読むのが当たり前だった。
 このように今の認識や制度は当たり前のものではない。「図書館とはこういうもの」「これが伝統」というものについ縛られてしまうが、それを打ち破るのが、歴史を学ぶということ。現在を相対化する。過去を知ることが、過去に縛られないことになる。

 巻子が冊子に置き換わっていった過程。パピルスというのは片面印刷しかできず、巻いて保管するのに向いていた。冊子本は両面印刷。後者の方が優れている点は色々あるが、置き換えは便利さだけの問題ではない。パピルスの材料はエジプト特産。当時大きな図書館があったペルガモンはエジプトと仲が悪く、パピルスを手に入れるのが難しかった。そこで羊皮紙が発達した。パピルスに向いている巻子本という形態よりは、羊皮紙に向いていると冊子本という形態が使われることになった。特に冊子本を積極採用したのは原始キリスト教で、キリスト教の普及と共に冊子隊体が普及することになった。
 冊子体の本は片手で読める。また、途中からでも読める。巻子本は両手で持って読んでいたので、注釈を入れるのが難しい。これはテキストに注釈を入れたり、同じ個所を参照しあうことを容易にした。このように、知識の生産や消費の様式も変わる。
 歴史を学べば未来が予想できるという訳ではない。ただ、そのようにして変わるということの覚悟や自覚が得られる。見てきたような過去の変化も、変えた人自身は意識していないだろう。

 この授業で学んでほしいことは二つ。現在を相対化すること。知識の共有主体と社会は、相互作用を及ぼしつつ変化すること。
 授業は全15回。最後は図書館史を踏まえて現代の図書館のあり方を俯瞰する授業としたか
ったが、時間が足りなくなってしまった。そこで最終レポートでは、幻の15回の授業案を作
ることをレポートとして課す予定。

 現時点での弱点は、東洋が弱い。確かに近代図書館史には影響が薄いが、図書史という観点からは不可欠。時間が足りない。近現代はもっと時間をかけたい。
【質疑】
・受講生の反応は?
 →反応箇所は、相対化・相互作用、音読・黙読、巻物・冊子体、Chained libraryの順。
・情報技術の歴史については話すのか。
 →詳しいところは図書館情報技術論の方で話してもらう。こちらの授業では重要なポイントにさらっと触れるのみ。マンハッタン計画など。
・博物館学においては、博物館の歴史というのは養成過程の中であまり重視されていない。文部科学省から求められる項目にも割合が少ない。図書館ではなぜそれほど歴史を重視するのか。
 →図書館の歴史を学ぶ意義については、図書館文化史研究会で声明を出していた。
 →図書館史は研究する人が多くない。図書館情報学系では少ない。図書館の歴史研究の方法論の本は出ているが、一般的な歴史研究とは少し違う。

 終了後、懇親会が行われた。

2013年9月2日月曜日

第20回勉強会のお知らせ

下記の日程で、第20回の勉強会を開催いたします。
御多忙のところと存じますが、ご参加をお待ちしております。

日時:2013年10月6日(日) 14:00~17:00
会場:京都商工会議所 第二会議室

(9月3日追記) 
発表者:佐藤翔
タイトル:司書養成科目「図書・図書館史」を考える 問題編と解答編


また、終了後は、懇親会を予定しております。

おおよその人数を把握したいので、参加ご希望の方は
会合の一週間前までを目安に、
事務局<toshokanshi.kansai @ gmail.com(@は半角)>までご一報ください。
twitterアカウント@k_context宛にご連絡いただいても構いません。
どうぞよろしくお願いいたします。

2013年8月5日月曜日

第19回勉強会(2013年7月28日)報告

『図書館を育てた人々 日本編I』を読む
(9)升井卓弥「反骨の図書館学文献学者:鈴木賢祐」

 日時:2013年7月28日(日) 14:00-17:00
 会場:京都商工会議所 第三会議室
 発表者:服部 智氏 出席者:10名
  今回はテキストから、和歌山高商図書館、県立山口図書館などに勤務し、『図書館雑誌』の編集委員も務めた鈴木賢祐を取り上げ、輪読を行った。当日のtwitterによるつぶやきをまとめたまとめはこちら

 0.鈴木賢祐の略歴
 ・明治30(1897)年、出生。吉敷郡小郡町出身。
 ・大正12(1923)年より、和歌山高商図書館に勤務。その後上海の近代科学図書館、九州帝国大学などで勤務。
 ・昭和15(1940)年より、『図書館雑誌』編集委員を務める。
・昭和25(1950)年より、山口県立山口図書館で館長を務める。


1.和歌山高商時代
1-1.和歌山高商での鈴木
 ・鈴木の図書館員としてのキャリアは大正8(1919)年5月、大阪府立図書館への就職をもって始まる。この頃は図書館より創作に興味があり、劇作家等と接近。
 ・大正12(1923)年11月、和歌山高等商業学校に移る。この頃カッターの展開分類法されたが、鈴木はこれに傾倒。DC(デューイ十進分類法)、 EC(展開分類法)、LC(議会図書館分類法、SC(件名分類法)と比較し、「これらの中でも東洋的文献の分類に適し」ていると評価。自ら展開分類法日本版を作成。
・この時期、毎年数編のペースで論文を発表。青年図書館員聯盟の機関誌『?研究』(?=くにがまえの中に「書」)を主な発表の場とした。
・昭和2(1927)年、『図書館雑誌』21(1)に掲載された「我が国図書館の浄化」など、全国専門高等学校図書館協議会への批判を多く行った。「我が国~」は、媒体に載った鈴木の最初の論考であり、優秀な図書館員がいない理由として待遇の低さと専門養成機関の未備を挙げ、かなり強い調子で専門職養成の提案を行っている。

1-2.標準分類表をめぐる論争
・大正15(1926)年に全国専門高等学校図書館協議会の第三回大会で、中島猶次郎起草の標準分類表具体案が提出され、翌年これを基礎として第三区分まで展開された案を理事校が提出。この両案につき、鈴木は3つの点から批判を行った。
・批判点その1:手続き上の難点。26年案は理事会一任となっていたが、27年案については決議の準備ができていない。また、協議会外部の権威者・諸団体との連携が不十分。
・批判点その2:制定方針上の難点。両分類表案は粗略であり、大規模館から小規模館まで等しく使えるものになっていない。
・批判点その3:体系自体の難点。本案の元になったデューイ十進分類法には難点もあるが、普及している。本案のように改修して使うのではメリットはない。原体系とまったく異なる「理想的な日本体系」を作るか、せめてデューイ十進分類法の難点を訂正すべき。
・昭和4(1929)年8月に分類表三案が刊行された。乙部泉三郎、毛利宮彦、森清の案。鈴木はこれらを検討し、リチャードソンの「実用分類法の標準」およびこれに対するセイヤーズの指摘を折衷した基準によって比較。その結果、森案のみが標準分類表としての要件備えていると評価した。翌年には、これに対する毛利宮彦の反論に再反論。
・標準分類表に関して、和田万吉とも論争を展開。「個々の図書館員が自ら学問的知識を身につけ、帝国図書館の分類表など既存の分類表を参考にしながら運用すればよいのではという和田に対し、変通性を維持しながら個々の図書館員の無駄を省くのが標準分類表であると主張。
・目録体系について田中敬にも疑問を示した。
・升井氏のテキストによると「用語問題には余裕を示」していたとあるが、原典に照らして明らかな誤用には厳しい姿勢。

2.『図書館雑誌』編集委員時代
・昭和12(1937)年4月、和歌山高商を退職。会計係との衝突がきっかけだったとも言われる。
・同年12月、上海近代科学図書館に移る。これは北清事変の賠償金で作られた文化施設であり、鈴木と同時に森清が渡っている。
・昭和14(1939)年8月、九州帝国大学に移る。
・この時期、米国議会図書館(LC)でHervert Putnamに代わりArchibald MacLeishが就任。MacLeishは図書館業務に関して門外漢であったため、ALA挙げて反対運動が起こる。背後にはLCの立法参考部長であったGeorge J.Schulzが年報で館の内情とPutnam館長を批判し、罷免されるに至った事件があったとされる。鈴木はこの館長人事を嘆き、あわせて日本の館長人事を批判。
・昭和15(1940)年4月、図書館雑誌の編集委員に就任。同年7月に東京帝国大学に移る。
・昭和17(1942)年に東京帝大を辞職。同年日本図書館協会の主事、翌年理事となる。
・昭和19(1944)年12月に満州国中央図書館に移る。
・昭和23(1948)年12月再び東京大学図書館へ。翌年には図書館職員養成所講師を兼務。

【質疑・コメント】
・和歌山高商を退職した理由は会計係との衝突とあるが、何があったのか。→冊子体の目録を刊行した際、費用のことで揉めたようだ。
・上海近代科学図書館では館運営をめぐって鈴木が館長と対立し、森清が館を去ることになったらしい。→鈴木は「一流人にはここは合わない」といった批判を残している。また鈴木が亡くなった際に間宮不二雄が述べた弔辞によれば、上海に行った時点から本意ではなかったようだ。
・日本の館長人事を批評した際、鈴木は「女学校長ノ古手デアラウト又ハ新聞記者の上リデアラウト」と述べているが、ここで具体的に誰かを想定していたのか。→不明。
・LC館長問題に関連して。Schulz事件の後LC事務局の理事にベルナール・クラップという人物が就任しているが、これはのちにGHQのクラップ勧告を行ったバーナード・クラップのことか。→そう。


4.山口県立山口図書館長時代
4-1.山口図書館長としての鈴木
・昭和25(1950)年6月、山口県立山口図書館長に就任。終戦直後で混乱していた図書館の運営を立て直した。混乱ぶりの一例として、県立山口図書館は、戦争末期に山口県の県紙(新聞統制令のため県に1紙とされていた)である防長新聞の社屋として提供されており、これが1950年まで続いていた。
・県立山口図書館の初代館長は佐野友三郎(明治36(1903)~大正9(1920)年)。当時山口図書館では当時としては先進的なサービスが色々実施されていた。これらは佐野が始めたもの。児童室、夜間開館、巡回文庫、公開書架など。
・山口図書館長としての鈴木は、児童室を廃止して山口市立児童図書館の新設援助を行うなど、多くの事業を行った。山口図書館は参考図書館としてあるべきと考え、個人貸し出し用の図書収集は圧縮。統計を取った時、参考図書の割合が高すぎて間違いだと思われたというエピソードがあるほど。こうした方針の背景に、それまで大学図書館や専門図書館を多く経験してきた鈴木のキャリアがあるかもしれない。
・佐野館長以来採用されてきた山口図書館式分類法という独自の十進分類法があったが、当時この分類法は行き詰まりつつあった。鈴木の館長就任とNDC6版の交付をきっかけに資料の再整備が行われた。
・新しい整理体系では、NDC6版を最大限展開して採用。文学には分類記号を与えない、別置記号を分類記号に冠するなどの特色があった。
・『山口図書館だより』において、鈴木は県立図書館の持つ性格や、市立図書館との役割分担などについて言及。佐野館長以来の児童サービスについては、「利用者圏が最も局限されがちな性質のもの」であり、全圏域を対象とする建前の県立図書館で敢えて実施することの意味を問うている。

4-2.人材育成
・昭和25(1950)年4月に図書館法が公布され、司書・司書補という職種が設定された。現職者のため、昭和26(1951)年から旧帝大を中心とした全国の大学で司書講座を開設。鈴木も九州大・広島大・山口大などで司書講座の講義を担当。講義が分かりにくいと、受講生からの評判はあまり良くなかった。昭和32(1957)年の山口大での講義では持ち時間の半分を升井氏に話させたりしており、鈴木自身も欠点は自覚していた模様。

4-3.山口県文書館の創設
・山口県文書館は日本最初の文書館であり、昭和34(1959)年開館。実現まで5年かかった。これに先立ち鈴木は、昭和32(1957)年の論文の中で文書館の歴史を概察し意義を述べている。
・山口文書館創設の略年表。昭和26(1951)年に山口図書館に毛利文庫が受け入れられた。毛利文庫とは長州藩の歴代文書資料や古典籍、記録などを集積したもの。これが文書館を作るきっかけとなった。昭和30(1955)年の山口県地方史学会理事会で県立史料館の創立を協議したのが文書館創設運動の萌芽と思われる。
・鈴木は、本音としては図書館の書庫を増築したかったが、「書庫増築では前向きの事業にならないので、文書館創設を合わせることにしたのでは」と升井氏は推察している。
・昭和34(1959)年に新書庫が落成したが、鈴木はその後の文書館の進路について不満があった。日本史に偏っており文書館ではなく史料館になっている、県文書こそが前面に押し出されるべきと主張。

5.その後の鈴木
・昭和34(1959)年4月、日本初の図書館学専任として東洋大学に勤務。
・セイヤーズとランガナタンに関心を持つ。郷土資料について、NDCに代わる独創的な分類体系を構想し、升井氏に作成を求めていた。資料の主題と、資料に書かれている時代と、その資料が紹介している地域を組み合わせたもの。
・昭和42(1967)年1月11日逝去。

【質疑・コメント】
・鈴木は佐野友三郎をどう思っていたのか?→文章を見る限り、佐野を立てている。鈴木は館長になってからも教育長を飛ばして知事に直訴したりしている人なので、遠慮していたからとは考えにくく、本心だったのだろう。佐野の方針が気に入らなかったわけではなく、参考図書館にしたいという思いが強かったのでは。
・方針展開は非常に論争的なテーマ。公共図書館と参考図書館の思想は伝統的に対立しがち。わざわざ規定路線と違うことをしようとしたのは何故だろうか。
・鈴木が、県立図書館で児童サービスを行うことに対して否定的だったというのが興味深い。現代の県立図書館でも児童サービスを止めたところがあり、議論の的になっている。
・県立図書館と市立図書館の関係について触れられていたが、大正ごろには県と市の間に郡立図書館が存在した。郡単位で残った文書を蓄積するアーカイブ。市だけでおさまらない、たとえば水利関係の行政文書など。当時は郡単位での行政に意味があった。
・明治末からの通俗教育の流れでできた。教育参考館も郡で作っていた。郡立という名前でなくても、地元の青年団が作っていて実態としては郡立という場合もあったのでは。たとえば現在の洲本図書館は郡立図書館が元になっている。
・山口県は、私立も含めて図書館が多かった。陸軍軍人が私物の蔵書を元に文庫を築いたりしている。もちろん中央政府とのつながりが強かったり、毛利文庫にも藩校の資料がある。戦前から一般公開していたのか。素地があったのか。
・鈴木のキャリアにおいて、戦前の目録屋-戦後の保存屋という二つの顔はどう繋がるのか。配布資料の著作一覧を見ても、戦後には目録に関する論文を書かなくなっている。→戦前にあちこちで論争しているのは、標準分類表制定に関わるものであり、それが確立してしまったので論ずる必要がなくなったのでは。逆に、文書に関する関心は戦前にも持っていたのだろうか。

 終了後、懇親会が開かれた。

2013年6月26日水曜日

第19回勉強会のお知らせ


下記の日程で、第19回の勉強会を開催いたします。
御多忙のところと存じますが、ご参加をお待ちしております。

日時:2013年7月28日(日) 14:00~17:00
会場:京都商工会議所 第二会議室
 ※いつもの第一会議室とは異なり、3階です。ご注意ください。
 
発表者およびタイトルについては、決まり次第追記いたします。
→決まりました。以下の通りです(6/29)


テキスト
図書館を育てた人々. 日本編 1 / 石井敦. -- 日本図書館協会, 1983.6
http://opac.ndl.go.jp/recordid/000001644230/jpn
http://webcat.nii.ac.jp/cgi-bin/shsproc?id=BN01584842

から、「鈴木賢祐」を取り上げます。
発表者:服部 智


また、終了後は、懇親会を予定しております。

おおよその人数を把握したいので、参加ご希望の方は
会合の一週間前までを目安に、
事務局<toshokanshi.kansai @ gmail.com(@は半角)>までご一報ください。
twitterアカウント@k_context宛にご連絡いただいても構いません。
どうぞよろしくお願いいたします。

2013年3月15日金曜日

第18回勉強会(2013年3月9日)報告

「図書館“展示”の歴史について」
日時:2013年3月9日(土) 14:00-17:00
会場:京都商工会議所 第一会議室
発表者:長尾 宗典氏

 当日の出席者によるtwitter上のつぶやきをまとめたものはこちら 

はじめに

 今月で関西文脈の会が発足して3周年。本報告では図書館展示の「歴史的意味」について検討し、その現在の位置付けを踏まえた上で、今後の展望を考える。

1.「展示」とは何か-議論の前提として

 NDLでは東京本館に展示企画係を常設しているが、関西館小展示など多くの展示は委員会組織によるプロジェクト方式で企画・実施される。委員会方式は機動力がある代わりに、本務とのバランスの取り方が難しい。しかし、図書館では展示のための常設部署を置かないのはよくあること。
 展示を観る人(利用者)の意識はどうかと考えた場合、博物館・美術館と図書館を区別しないはず。博物館法では公立博物館の入館料等は原則無料としており、「無料」もあまり理由にならない。逆に近年、博物館では撮影可などの新しい試みも行われている。こうした状況を考えると、レベルの低い展示は図書館のイメージダウンになる、といえる。
 翻って博物館史に目を向け、日本の博物館の系譜を概観する。明治期において、日本の博物館には共進会・古社寺保護・教育博物館など複数の源流が存在した。戦後、明治百年事業を契機として博物館の数は大きく増加する。そして博物館の役割として画期となったのが、梅棹忠夫の「博情館」構想である。今日、梅棹の構想を振り返ると、その「博物館」は「図書館」にも置き換え可能であり、この点に図書館と博物館の近縁性を見ることもできる。
 それでは「展示」とは何か。用語としては、古くは「展覧」「陳列」。パリ万博が転回点となり、第二次大戦前夜には「物の観方」を提示する方へ傾いてゆく。

2.図書館″展示″の歴史

図書館学者の意見としては、展示(陳列)について肯定的なものが多い。法規的基礎の問題として考えた場合、改正図書館令(1933)において「附帯施設」条項が追加されたことが一つの画期といえる。この条項は、松尾友雄と中田邦造によるいわゆる「附帯施設論争」で知られるが、その中で「図書館は図書館として発達せしめよ」と論じた中田も、「展示」は図書館業務と考えていた形跡がみられる。そして戦後の図書館法(1950)で、図書館奉仕としての「展示」が位置づけられるに至る。
 戦前~戦後の主な図書館「展示」から指摘できるいくつかの傾向としては、「陳列」から「主題展示」への変遷、会期の長期化、展示資料点数の漸減、展示対象の多様化、が挙げられる。

3.図書館“展示”の意味とは?

 これまでの図書館における展示には貴重書重視の傾向があったが、実際には必ずしも古典籍に限らないニーズがある。また古典籍は資料管理などの点で展示する際のハードルが高く、企画によっては単なる「陳列」になってしまうこともありうる。「とりあえず古典籍」という展示はそろそろ飽きられる。観た人に強い印象を残せるのがいい展示であり、規模はあまりリンクしなくなりつつある。
 職員のスキルアップのみを目標にしていいのか、という点も問題。図書館には資料についての「調査研究」義務はない。また図書館の展示は図書館奉仕であることから、職員以上に来館者の認識を高めることが重要になる。外部有識者に監修を依頼するのも一手ではないか。
 展示を広報戦略としてとらえた場合、どのレベルでの理解を求めるのか。Accountabilityを展示する、というのは一つのスタンス。レファレンスと絡めるのもありうる。
また、「展示」を見てもらう前提として、会場に来てもらわねばならない。遠隔サービスの拠点を謳う関西館で一生懸命「展示」する、というのは矛盾していないか。「集客」という指標の呪縛がある。この点をフォローするには、来場者へのお土産を充実させたり、巡回展示を企画するなど、その場にとどまらない工夫が必要。

おわりに-これからの図書館“展示”は何をするのか?

「図書館の展示を企画すること」は「新たな文脈を作ること」。


主な質疑は以下のとおり

・博物館でしているのは「展示のための研究」ではない。研究しているから展示をする。
 図書館で外部から人を呼んでまで展示をする意味は何か。
   →少なくともNDL、大学図書館は意味があるはず。
    図書館も諸館種ある中で、「展示」の在り方・意味を一律に規定する
    のは難しい。が、少なくとも学術情報支援を目的としている図書館は、
    職員がもっと資料研究すべき。

・「博物館」とは何か、という合意は博物館関係者の間でも取れていない
 =議論の基盤がない。では「図書館」はどうか?
   →「文化資源を見せる」ということから機能を再定義する、のもありでは
    ないか。

・図書館展示の特徴として、「無料」であることがよく挙げられる。
 しかしあまり認識されていないが、展示にかけるコストの問題がある。
   →コストを抑えるためにもコンテンツの蓄積が必要
    (使いまわせるものは使いまわす)

・常設の展示スペースを設けてはどうか。
   →情報提供目的。(@滋賀県の図書館)
    現実的には利用者の導線設定が課題だが、これは提供側の意識。
    利用者側からみるとどうか?

・誰と、どういう関係を結びたいか、によって展示コンセプトは決まるはず
   →一例としてはベタな資料をうまく展示することで、日頃そういった
    資料に触れる機会のない人に働きかけるアプローチが考えられる。
   →「広報としての展示」と考えるなら、しっかりマーケティングすべき。
  また単発で終わらせてはいけない。

・デジタルの展示について。正直見にくい。
 ←多くのデジタルコンテンツの主たる利点は検索できることなので、
  見やすさは第一優先ではないのでは?

・デジタル展示先行型としては、NDLの「本の万華鏡」がある。
 コストを下げる&ロングテールを狙う。
 近代デジタルライブラリーのPRという目的も。
  ※著作権が存続している資料は著作権の問題がネックになり、古い資料に
   流れがち。(現物の展示はできるが、ネットに上げられない)
 →Webとリアルの展示手法組み合わせ  
  *図書館(文字情報)のほうが博物館(立体)よりアドバンテージが
   あるかもしれない。

・展示のノウハウの蓄積が必要。
 →展示リストの記録・公開
 →図書館「展示」の理論化 *大学図書館で2000年以降活性化
  ※博物館でもあまり理論化されているわけではない。しかし近年、
  学芸員資格のための科目において、展示について多くのページを
  割いた教科書が出てきている。

そのほか、展示のあり方・方向性について、活発な意見交換がなされた。
終了後は懇親会が催された。

2013年2月14日木曜日

第18回勉強会のお知らせ


下記の日程で、第18回の勉強会を開催いたします。
御多忙のところと存じますが、ご参加をお待ちしております。

今回は長尾が、日本の図書館の展示について、明治以来のあゆみを振り返りつつ、取り上げます。発表者自身が担当した展示会経験を踏まえて、図書館の「展示」活動というのはどういう風にしたらよいだろうということをみなさまと共有させていただけたらと思っております。


日時:2013年3月9日(土) 14:00~17:00
会場:京都商工会議所 第一会議室

発表者:長尾 宗典(国立国会図書館関西館)
タイトル:「図書館“展示”の歴史について」

また、終了後は、懇親会を予定しております。

おおよその人数を把握したいので、参加ご希望の方は
会合の一週間前までを目安に、
事務局<toshokanshi.kansai @ gmail.com(@は半角)>までご一報ください。
twitterアカウント@k_context宛にご連絡いただいても構いません。
どうぞよろしくお願いいたします。

2013/3/6 追記 ***************************************

当日資料をこちらに掲載しました。

なお、当日の発表部分の配信は終了しました。
ご覧頂き、ありがとうございました。