2015年10月14日水曜日

第28回勉強会のお知らせ

下記の日程で、第28回の勉強会を開催いたします。
御多忙のところと存じますが、ご参加をお待ちしております。

日時:2015年11月14日(土) 14:00~17:00
会場:京都商工会議所 第二会議室(※3階です)

発表者:西野浩二氏
タイトル:
「天理大学附属図書館と天理教」

要旨:
天理図書館は、天理教の発展と共に設けられ、国内の一級史料を所蔵する施設となった。その施設を作ったのは、天理教二代真柱中山正善である。近代から戦前、戦後と天理教の歴史を追いながら、図書館がどのように変化していったかを考える機会となれば幸いである。


会終了後は、懇親会を予定しております。

おおよその人数を把握したいので、参加ご希望の方は
会合の一週間前までを目安に、
事務局<toshokanshi.kansai @ gmail.com(@は半角)>までご一報ください。
twitterアカウント@k_context宛にご連絡いただいても構いません。

2015年9月10日木曜日

ku-librarians合同勉強会のお知らせ

京都大学の若手図書系職員を中心とした勉強会ku-librariansとの合同企画で、勉強会を開催いたします。日程は下記のとおりです。

日時:2015年9月26日(土) 14:00~17:00
会場:京都大学附属図書館 3F 共同研究室5

※学外からの参加は、お名前を確認できるものをご持参の上、カウンターでの手続きが必要となります。詳細はku-librariansのサイトにてご確認ください。



発表者:今野創祐氏、小松原記子氏、中込栞氏、宮田怜氏

タイトル:『(仮称)図書館人物事典』を書いてみました!

内容:
日本図書館文化史研究会によって出版企画が持ち上がった『(仮称)図書館人物事典』の項目執筆に、京大の図書系職員4名が挑戦しました。このたび、執筆のための調査の経緯を発表します。取り上げる人物は、赤星軍次郎、安馬弥一郎、田口高吉、星野(山中)弘四、安藤勝一郎です。出席された皆様からのご意見をお待ちしております。

なお、今回は事前申し込みは不要です。直接会場にお越しください。

2015年6月27日土曜日

第27回勉強会のお知らせ

下記の日程で、第27回の勉強会を開催いたします。
御多忙のところと存じますが、ご参加をお待ちしております。

日時:2015年7月26日(日) 14:00~17:00
会場:京都商工会議所 第三会議室(※3階です)

発表者:長坂和茂氏
タイトル:
「徳川頼倫と日本図書館協会 ~とある華族の社会貢献(ノーブレス・オブリージュ)~」

会終了後は、懇親会を予定しております。

おおよその人数を把握したいので、参加ご希望の方は
会合の一週間前までを目安に、
事務局<toshokanshi.kansai @ gmail.com(@は半角)>までご一報ください。
twitterアカウント@k_context宛にご連絡いただいても構いません。

2015年6月10日水曜日

第26回勉強会(2015年5月9日)報告

 第26回勉強会(2015年5月9日)報告
「衛藤利夫をめぐって」(テキスト輪読)
日時:2015年5月9日(土) 14:00-17:00
会場:京都商工会議所 第三会議室
発表者:佐藤 明俊氏
参加者数:11名
当日の出席者によるtwitter上のつぶやきをまとめたものはこちら

1.はじめに
・まず、テキストで衛藤利夫の章を担当した田中隆子について。1980年頃、若い図書館員が衛藤を知らないことに驚いて本書を執筆したとある。ちなみにここでいう「若い図書館員」は昭和15(1940)年生まれ位か。立花隆や麻生太郎、津川雅彦と同世代。
・田中隆子は大正3(1914)年に大連で生まれ、昭和23(1948)年に国立国会図書館に入館。昭和35(1960)年には職員組合の委員長となった人物。衛藤の伝記執筆に指名されたのは大陸生まれという共通点によるものとも思われる。ただし小黒浩司論文では(2017.3.2発表者の訂正により修正。この部分の出典は東條文規の著作とのこと)衛藤は「右」寄りの政治スタンスを持つ人物と評されており、思想的には隔たりがあるようにも見える。

2. ~奉天図書館
・衛藤は明治16(1883)年熊本生まれ。旧制第五高等学校に入るが明治41(1908)年に中退。理由を本人の回顧録では「学校生活に飽きた」等とするが、実際は当時五高で起こった教頭排斥運動に関わったためか。この運動の中心は大川周明。
・明治44(1911)年、東大文学部選科美学史専攻卒。その後翻訳などで生計を立てる。大正4(1915)年和田万吉の招きにより東大図書館に就職。当時の衛藤の日記を見ると、サラリーマン根性に堕することを自戒する言葉などが並ぶ。
・なお、この日記は戦後遺族の手元にあり、昭和31(1956)年刊行の『韃靼』編纂時に閲覧を許されたということで言及されている。しかし全文公開はされず、現存しているかどうかも不明。
・大正9(1920)年に奉天簡易図書館に勤め、大正11(1922)年に新築された奉天図書館の館長となる。
・館長時代の衛藤が奉天図書館を大図書館に仕立てたとの評価あり。これに対し小黒論文では衛藤の功績を過大評価することを批判し、当時の満鉄自体の方針が追い風となっていたこと、また衛藤には精神主義的な面が強かったとしている。
・昭和17(1942)年に奉天図書館を退職。直後の本人回顧録では「図書館生活は失敗だった」としているが、そう判断した理由は不明。

3.満鉄の図書館
・南満州鉄道は明治39(1910)年発足の半官半民会社。鉄路に加え、会社の付属地では行政権を持ち、調査業務を多く行った。国策会社として政治の影響を受けやすい。
・調査に力を入れていたので本も蓄積されていく。付属地の住民向け図書館も作られた。
・大正8(1919)年に衛藤と柿沼が満鉄図書館へ引き抜かれる。
・大正9(1920)年、全国図書館大会が満州と朝鮮で開かれる。昭和4(1929)年に満鉄図書館業務研究会発足。
・昭和6(1931)年に満州事変。衛藤は、出征兵士のための「陣中慰問文庫」、関東軍向けの特別閲覧室「時局文庫」など様々な取り組みを行う。一部は衛藤が独断で始め、満鉄が追認したもの。
・在職中には地元新聞、満州教育専門学校、満州国大同学院の講師や顧問を務める。
・昭和11(1936)年に二・二六事件。衛藤瀋吉(衛藤の四男)の回想によると、警察からの尋問を受けたり、手紙の束を焼くなどしていたという。以後は政治活動から距離を置いた模様。また、それ以前から満州国に対して疑問を持つようになっていた。
・昭和12(1937)年の満鉄附属地は満洲国へ移譲される。これに伴い満鉄図書館も、哈爾濱・奉天・大連を除き、満洲国に移譲される。図書館側は移譲に反対していたが押し切られた。
・以後満鉄は調査活動に一層力を入れ、図書館は調査部の付帯施設となっていく。衛藤自身はこの方針に反対で、奉天図書館『収書月報』などで批判。
・昭和15(1940)に衛藤は奉天図書館長を辞任、館長事務嘱託となる。昭和17(1942)年に満鉄東京支社嘱託となり帰国。


4.東亜文献の解題と紹介
・衛藤には、稀覯書や名著の解題・紹介などの著作が多い。図書館学に関する著作は少ない。和漢書と洋書の整理一元化の実践など。
・時局問題を扱った論考は希少、東洋文献研究の著述でもアジア主義等に展開する傾向は見られない。
・衛藤は「右翼」人脈の中にいたことは確か。満洲国建国への協力もしている。しかし協力は図書館や文献を通じたものに限られており、思想家というよりは文献史家であり図書館人というのが本質。あるいは、植民地人のひとりとしての協力。

5.図書館界の指導者として
・昭和17(1942)年に衛藤は帰国、東京に戻る。このころ日本図書館協会(以下、日図協)の理事となっていた。満洲事変の際の衛藤の行動力に期待した中田邦造の説得による。
・同年、小諸会議が開かれる。文部省と日図協で読書会指導要綱案を検討したもの。かつて読書普及活動を愚劣と批判していた衛藤だが、この時は寝食を忘れて取り組む。
・昭和21(1946)年、無給で日図協の理事長兼事務局長に就任。事務局の全面入れ替えを行う。総務部長兼指導部長に有山崧、配給部長に越村捨治郎。越村は大川周明の影響を受け国家主義運動に参加していた人物。
・戦後、衛藤の論考は理事長名の3本のみ。就任時に図書館雑誌に掲載した挨拶では図書館の戦争責任に触れる。東條文則論文ではこの衛藤の姿勢を批判しているが、衛藤にとっては満洲国建国の高揚感と国家再建のそれは通じるものだったのかもしれない。
・衛藤が理事長だった昭和21-24(1946-1949)の日図協は多くの課題に直面。財団法人から社団法人への再改組、戦後復興、引揚図書館員の就職問題、国立国会図書館設立、図書館法など多くの課題に直面。
・しかしこれらの課題に対して、衛藤の活躍はあまり見えない。背景には、衛藤が当時健康を害していたことが考えられる。昭和22(1947)年には病気で辞任を申し出るが理事会で拒まれて再任、昭和24(1949)年に辞任。昭和28(1953)年に没する。
・「衛藤神話」が生まれた理由としては、衛藤に心酔していた有山崧の果たした役割が大きいと思われる。

6.質疑(主なもののみ、適宜まとめている)
・満鉄図書館の蔵書には軟らかい本があったのか。→大連・奉天には小説戯曲はなし。その他の館には通俗小説、児童書、落語講談などの本があった。
・「時局文庫」はどのように実施したのか。→時局文庫と陣中慰問文庫を並行して行っていた。前者がレファレンス、後者がアウトリーチ的なもの。衛藤が独断で始めて、会社に追認させた面もあり。
・衛藤を招いた当時の日図協にはどんな課題があったか。→人間関係のトラブル、戦時体制で文部省の締め付けが厳しくなるなど。当時の社会状況から、「右」人脈を持つ人の方が有利。
・戦後の日図協の、引揚図書館員の就職斡旋とはどのような内容か。→図書館雑誌上でポストの空き情報を知らせてくれるよう呼びかけ、日図協で集約した情報をもとに斡旋。


終了後、懇親会が行われた。

2015年4月22日水曜日

第26回勉強会のお知らせ

下記の日程で、第26回の勉強会を開催いたします。
御多忙のところと存じますが、ご参加をお待ちしております。

日時:2015年5月9日(土) 14:00~17:00
会場:京都商工会議所 第二会議室
※いつもの第一会議室とは異なり、3階です。ご注意ください。

発表者:佐藤明俊氏

テキスト
図書館を育てた人々. 日本編 1 / 石井敦. -- 日本図書館協会, 1983.6
http://opac.ndl.go.jp/recordid/000001644230/jpn
http://webcat.nii.ac.jp/cgi-bin/shsproc?id=BN01584842
から、「衞藤利夫」を取り上げます。

 
会終了後は、懇親会を予定しております。
おおよその人数を把握したいので、参加ご希望の方は
会合の一週間前までを目安に、
事務局<toshokanshi.kansai @ gmail.com(@は半角)>までご一報ください。
twitterアカウント@k_context宛にご連絡いただいても構いません。

2015年1月26日月曜日

第25回勉強会(2015年1月18日)報告

第25回勉強会(2015年1月18日)報告
「伏見の図書館史」
日時:2015年1月18日(日) 14:00-17:00
会場:京都商工会議所 第一会議室
発表者:小篠景子氏
参加者数:12名
当日の出席者によるtwitter上のつぶやきをまとめたものはこちら

0.伏見の図書館について
・明治以降の大まかな流れ。伏見集書会社の時代→伏見十六会による図書館経営の時代(伏見文庫→伏見図書館)→京都府立図書館伏見分館の時代。
・京都集書院の設立にかかわった京都集書会社。この支部のような形で、伏見集書会社が明治5年に設立した。開始後5年で解散。
・並松信久氏の論文では、のちの伏見文庫は伏見集書会社を接収してつくられたとしている。ただしこの説の根拠となった史料は不明。


1.人見喜三郎と伏見十六会
・伏見十六会の生みの親が人見喜三郎。兵庫県の出身で、11-12歳頃に伏見に出てきて丁稚奉公。当時から読書家であった。
・明治41年~43年まで伏見町長を務めた。当時の伏見町は、陸軍第十六師団誘致に関わる寄付金の工面など、色々な課題を抱えていたが、これらを解決。本人によると、町長は自分の希望ではなく、十六会の反対勢力による悪意の推薦によりやむなく就任したとしている。
・伏見十六会とは、明治28(1895)年、人見ら16名の青年により設立された社会事業団体。設立の背景として、当時の伏見の衰退がある。
・また、明治25年頃設立の良友倶楽部という団体があった。各種職業の青年が集まって自分の調べてきたことを発表研究する集まりであったが、27年頃には活動が形骸化していた。人見は実業家としての活動ができる団体の必要性を感じ、同じ商店員の村田・安良とともに脱会して伏見十六会を設立。

2.伏見十六会の事業
・貯金部。資金がなくてはどうしようもないということで、明治28(1895)年から貯金部の活動を開始。当初は小口貯金だったが、日清戦争後の恐慌時に、営業資金の貸付や住宅購入補助なども開始。また元々は年一回の抽選で前渡金を受け取る頼母子講方式であったものを、大正3(1914)年の規約改正により貯金のみを目的とする仕組みとした。
・伏見信用組合。伏見十六会を母体として、明治38(1905)年に設立。頼母子講に対する取締まりの強化なども背景にあった。伏見十六会破綻後も営業を続け、伏見信用金庫となり、平成13(2001)年に京都中央信用金庫へ事業譲渡。
・教育部。大正4(1915)~12(1923)年の私立伏見実業補習学校。大正5(1916)年~の伏見商業学校。これは伏見十六会破綻後に京都市へ移管され、現在の京都市立桃山中学校の前身となった。
・救済部。明治40(1907)年創設。奨学金、無料診療所済生園など。
・出版事業。明治39(1906)年、伏見で初めての新聞である『伏見実業新報』創刊。のち十六新聞と改め、明治41(1908)年に『明治新聞』へ号数引継ぎ。大正2(1913)年からは伏見十六会専属の機関誌『十六会報』を創刊。いずれも現存不明。ほか、図書も刊行。

3.国の動きとの関連
・明治40(1907)年、大日本産業組合中央会会頭の平田東助が伏見十六会を視察。これをきっかけに内務省嘱託の留岡幸助、内務参事官井上友一と接触。明治41(1908)年に社団法人化。
・背景には地方改良運動の存在。内務官僚を中心に、大衆みずから地方の自治振興に協力していくことを奨励する動き。全国的に、この気運にのって設立された図書館も多い。
・伏見十六会は地方改良運動を進める立場から見て良いモデルケースであったらしく、多くの視察を受け入れ、『斯民』『産業組合』『社会事業』などの雑誌に掲載されている。

4.伏見十六会の図書館
・明治38(1905)年9月、日露戦争の戦勝記念事業として伏見文庫を設立。
・伏見十六会会員は雇われ人が多く、読書の資金も乏しく、正式な教育を受けていない人も多かったことから、地域への教育機会の提供として行われた。
・伏見文庫には誰でも入会可能。会費制。貸出も行っていた。
・文庫長は尋常小学校長、幹事は教育家と伏見十六会役員が半数ずつ。前者は選書等、後者は庶務会計を担当。
・京都府立図書館からの貸与も受けた。

・大正4(1915)年、新たに建物を作って伏見図書館を設立。設立申請の行政文書が京都府立総合資料館にある。当時の新聞記事によると、開館式には京都府立図書館長の湯浅による講演も行われた。
・伏見図書館は大正11(1922)年に移転。隣接していた商業学校に建物を譲って、十六会事務所の一部に入る。
・館長は伏見町の高等小学校長。幹事は伏見町の小学校教員から嘱託し、選書等。事務は伏見十六会員が行った。
・伏見図書館になって貸出を廃止。理由は閲覧室が整備されたこと。
・文庫時代から図書館基本金を積み立て、この利子を運営資金にあてていた。会合に遅刻した者は図書館に寄付するというルールを設けたりしていた。
・大正10(1921)年文部省による「全国図書館に関する調査」から、私立図書館の平均と伏見図書館を比較。蔵書冊数で5千冊程度、一日閲覧人数で5名程度、費用で300円程度伏見図書館の方が上回っている。なお同調査では伏見図書館の附帯事業として「運動倶楽部」を挙げているが、内容不明。

5.伏見十六会の破綻
・昭和8(1933)年2月、人見死去。
・昭和9(1934)年、伏見十六会が破綻。当時の新聞によると、昭和7(1932)年に貯金事業が銀行法に抵触するとの指摘を受けたことが背景にあり、貸付金の回収が難航したことなどで取り付け騒ぎに至った。
・伏見図書館は昭和9(1934)年6月の京都府広報で廃止認可。その後の消息は不明。
・旧蔵書の行方。京都府立総合資料館、立命館大学図書館の所蔵する資料に「伏見図書館」の印記を持つものがある。また、昭和10年付けで京都府立京都図書館に寄贈された資料に「これと同じ複本を伏見図書館に寄贈した」と著者により書かれているものがある。詳細は不明。

6.戦後の伏見の図書館
・昭和25(1950)年、伏見信用組合の2階に京都府立図書館伏見分館を開館。
・昭和29(1954)年、館舎を新たに建設して伏見分館移転。建設にあたっては土地の寄付など、地域から支援があったとされている。
・昭和62(1987)年、京都市伏見中央図書館が開館。翌年3月に伏見分館が閉館。


7.質疑(主なもののみ、適宜まとめている)
・伏見図書館が設立された当時(大正11年頃)、伏見図書館のような存在は珍しかったか?
→似た活動をしているところはある程度あった。青年団が公民館の一室を図書室として開放していたようなものがこれにあたる。

・伏見図書館に勤めていた書記の月給15円は、給与として高かったのか?
→かなり安かった。同時期の尋常小学校教員の初任給が50円ほどだったことからも、現在のアルバイトもしくはパートのようなもので、書記だけで生活していくことはできなかったと考えられる。

・昭和2(1927)年の金融恐慌と昭和5(1930)年の昭和恐慌の伏見図書館への影響は
→金融恐慌の影響に関しては、否定はできないものの乗り切ることに成功したとみられる。一方の昭和恐慌の影響は大きく、不動産担保貸付金の回収が困難になるなどした。

・十六会が破綻したのちも、伏見信用組合は伏見信用金庫として存続した。信用組合はあくまで十六会を母体として設立されたのであり、十六会が破綻したからといって信用組合も破綻することはなかった。なお、伏見信用金庫は平成13(2001)年まで営業を続け、京都中央信用金庫に事業譲渡した。

・伏見図書館が所蔵していた饗庭篁村『曲亭馬琴』(児童読本第5編、博文館、1912年)は現在立命館大学図書館に入っているがなぜなのか?
→立命館大学には後藤丹治という軍記物語の研究者がおり、この資料の書誌情報にも「後藤蔵書」印がある。そのため、後藤の研究のために立命館大学にはいったのではないか。他の伏見図書館の蔵書も、閉館後は分野ごとに分かれてさまざまな機関に移動していったのではないか。


終了後、懇親会が行われた。