「衛藤利夫をめぐって」(テキスト輪読)
日時:2015年5月9日(土) 14:00-17:00
会場:京都商工会議所 第三会議室
発表者:佐藤 明俊氏
参加者数:11名
当日の出席者によるtwitter上のつぶやきをまとめたものはこちら
1.はじめに
・まず、テキストで衛藤利夫の章を担当した田中隆子について。1980年頃、若い図書館員が衛藤を知らないことに驚いて本書を執筆したとある。ちなみにここでいう「若い図書館員」は昭和15(1940)年生まれ位か。立花隆や麻生太郎、津川雅彦と同世代。
・田中隆子は大正3(1914)年に大連で生まれ、昭和23(1948)年に国立国会図書館に入館。昭和35(1960)年には職員組合の委員長となった人物。衛藤の伝記執筆に指名されたのは大陸生まれという共通点によるものとも思われる。ただし
2. ~奉天図書館
・衛藤は明治16(1883)年熊本生まれ。旧制第五高等学校に入るが明治41(1908)年に中退。理由を本人の回顧録では「学校生活に飽きた」等とするが、実際は当時五高で起こった教頭排斥運動に関わったためか。この運動の中心は大川周明。
・明治44(1911)年、東大文学部選科美学史専攻卒。その後翻訳などで生計を立てる。大正4(1915)年和田万吉の招きにより東大図書館に就職。当時の衛藤の日記を見ると、サラリーマン根性に堕することを自戒する言葉などが並ぶ。
・なお、この日記は戦後遺族の手元にあり、昭和31(1956)年刊行の『韃靼』編纂時に閲覧を許されたということで言及されている。しかし全文公開はされず、現存しているかどうかも不明。
・大正9(1920)年に奉天簡易図書館に勤め、大正11(1922)年に新築された奉天図書館の館長となる。
・館長時代の衛藤が奉天図書館を大図書館に仕立てたとの評価あり。これに対し小黒論文では衛藤の功績を過大評価することを批判し、当時の満鉄自体の方針が追い風となっていたこと、また衛藤には精神主義的な面が強かったとしている。
・昭和17(1942)年に奉天図書館を退職。直後の本人回顧録では「図書館生活は失敗だった」としているが、そう判断した理由は不明。
3.満鉄の図書館
・南満州鉄道は明治39(1910)年発足の半官半民会社。鉄路に加え、会社の付属地では行政権を持ち、調査業務を多く行った。国策会社として政治の影響を受けやすい。
・調査に力を入れていたので本も蓄積されていく。付属地の住民向け図書館も作られた。
・大正8(1919)年に衛藤と柿沼が満鉄図書館へ引き抜かれる。
・大正9(1920)年、全国図書館大会が満州と朝鮮で開かれる。昭和4(1929)年に満鉄図書館業務研究会発足。
・昭和6(1931)年に満州事変。衛藤は、出征兵士のための「陣中慰問文庫」、関東軍向けの特別閲覧室「時局文庫」など様々な取り組みを行う。一部は衛藤が独断で始め、満鉄が追認したもの。
・在職中には地元新聞、満州教育専門学校、満州国大同学院の講師や顧問を務める。
・昭和11(1936)年に二・二六事件。衛藤瀋吉(衛藤の四男)の回想によると、警察からの尋問を受けたり、手紙の束を焼くなどしていたという。以後は政治活動から距離を置いた模様。また、それ以前から満州国に対して疑問を持つようになっていた。
・昭和12(1937)年の満鉄附属地は満洲国へ移譲される。これに伴い満鉄図書館も、哈爾濱・奉天・大連を除き、満洲国に移譲される。図書館側は移譲に反対していたが押し切られた。
・以後満鉄は調査活動に一層力を入れ、図書館は調査部の付帯施設となっていく。衛藤自身はこの方針に反対で、奉天図書館『収書月報』などで批判。
・昭和15(1940)に衛藤は奉天図書館長を辞任、館長事務嘱託となる。昭和17(1942)年に満鉄東京支社嘱託となり帰国。
4.東亜文献の解題と紹介
・衛藤には、稀覯書や名著の解題・紹介などの著作が多い。図書館学に関する著作は少ない。和漢書と洋書の整理一元化の実践など。
・時局問題を扱った論考は希少、東洋文献研究の著述でもアジア主義等に展開する傾向は見られない。
・衛藤は「右翼」人脈の中にいたことは確か。満洲国建国への協力もしている。しかし協力は図書館や文献を通じたものに限られており、思想家というよりは文献史家であり図書館人というのが本質。あるいは、植民地人のひとりとしての協力。
5.図書館界の指導者として
・昭和17(1942)年に衛藤は帰国、東京に戻る。このころ日本図書館協会(以下、日図協)の理事となっていた。満洲事変の際の衛藤の行動力に期待した中田邦造の説得による。
・同年、小諸会議が開かれる。文部省と日図協で読書会指導要綱案を検討したもの。かつて読書普及活動を愚劣と批判していた衛藤だが、この時は寝食を忘れて取り組む。
・昭和21(1946)年、無給で日図協の理事長兼事務局長に就任。事務局の全面入れ替えを行う。総務部長兼指導部長に有山崧、配給部長に越村捨治郎。越村は大川周明の影響を受け国家主義運動に参加していた人物。
・戦後、衛藤の論考は理事長名の3本のみ。就任時に図書館雑誌に掲載した挨拶では図書館の戦争責任に触れる。東條文則論文ではこの衛藤の姿勢を批判しているが、衛藤にとっては満洲国建国の高揚感と国家再建のそれは通じるものだったのかもしれない。
・衛藤が理事長だった昭和21-24(1946-1949)の日図協は多くの課題に直面。財団法人から社団法人への再改組、戦後復興、引揚図書館員の就職問題、国立国会図書館設立、図書館法など多くの課題に直面。
・しかしこれらの課題に対して、衛藤の活躍はあまり見えない。背景には、衛藤が当時健康を害していたことが考えられる。昭和22(1947)年には病気で辞任を申し出るが理事会で拒まれて再任、昭和24(1949)年に辞任。昭和28(1953)年に没する。
・「衛藤神話」が生まれた理由としては、衛藤に心酔していた有山崧の果たした役割が大きいと思われる。
6.質疑(主なもののみ、適宜まとめている)
・満鉄図書館の蔵書には軟らかい本があったのか。→大連・奉天には小説戯曲はなし。その他の館には通俗小説、児童書、落語講談などの本があった。
・「時局文庫」はどのように実施したのか。→時局文庫と陣中慰問文庫を並行して行っていた。前者がレファレンス、後者がアウトリーチ的なもの。衛藤が独断で始めて、会社に追認させた面もあり。
・衛藤を招いた当時の日図協にはどんな課題があったか。→人間関係のトラブル、戦時体制で文部省の締め付けが厳しくなるなど。当時の社会状況から、「右」人脈を持つ人の方が有利。
・戦後の日図協の、引揚図書館員の就職斡旋とはどのような内容か。→図書館雑誌上でポストの空き情報を知らせてくれるよう呼びかけ、日図協で集約した情報をもとに斡旋。
終了後、懇親会が行われた。
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