2012年6月26日火曜日

第13回勉強会(2012年6月24日)報告

江上敏哲『本棚の中のニッポン:海外の日本図書館と日本研究』(笠間書院、2012)合評会
日時:2012624日(日) 14:00-17:00
会場:シェアハウス鍵屋荘(京都市下京区)
発表者:岡部晋典氏(近大姫路大学)・梶谷春佳氏(京都大学附属図書館)※五十音順
出席者:22

会場風景

今回は関西文脈の会メンバーである江上敏哲氏の『本棚の中のニッポン』出版を記念し、参加者による合評会を行った。
当日のtwitterによるつぶやきをまとめたまとめはこちらを参照
著者による本書紹介についてはこちらを参照
版元による紹介ページはこちらを参照

まず、梶谷氏から、現在従事されている参考調査業務と絡めて本書の評価を述べていただいた。梶谷氏は、欧米のサブジェクトライブラリアンの生の声が聞けるというのが、本書を読んでまず印象に残った点だとしつつ、本書が絶えず問題にしている、日本資料のデジタル化の遅れについて、それが何故上手くいかないのか、課題はどこにあるのかについて、はっきりとした回答を著者は本文中で述べていないのではないか、という疑問も提示された。また、有料でもいいから資料情報が欲しいという海外のニーズに積極的に応えていくためには、PORTAやリサーチ・ナビのような大きなものからは零れてしまう情報を、まとめて発信していくことがレファレンスライブラリアンのこれからの仕事の一つとして考えられるのではないかという点が指摘された。また、英語について苦手意識を感じる職員でも、サービスを継続的に行っていくために、たんに語学に堪能な人が担当になったときに一挙に英語版ページを作るというのではなく、引き継いでいける仕組みを構築していくことも重要だと述べられた。
次いで岡部氏からは、「本棚ノ中ニ居リマス―本棚の中のニッポンをどう読んだか」と題し、本書の不足部分、気付かされた点、本書が求める「援軍」についてどういうことができるかについて、研究者・司書課程講師の視点から読み解いて発表をいただいた。まず不足部分として、優れた事例ばかりが取り上げられ過ぎているため、逆により小さな規模で奮闘している普通の規模の図書館が委縮してしまう危険はないかという点、クールジャパンについての紹介をもっと取り上げてほしいという点について要望が出された。また、本書の耐用年数はどのくらいを想定しているのかという疑問も出された。そのほか、日本語で書かれた自然科学系論文(たとえば稲作の研究など)の扱い、ナショナリズムと図書館の関係にどう意識的に向き合うのか、という論点も提示された。逆に、本書の長所として、海外で求められる情報は、論文抄録レベルの英文化だけでも十分に意義があることが示されたこと、平易な叙述であり、ILLなど、実務の話について司書課程講義でそのまま読み上げても学生に理解されるだろうこと、美しいあとがき、が指摘された。
休憩を挟んで江上氏から、発表者の二人は、若手の実務家・研究者として、それぞれ一番伝えたい想定読者の代表であったと感謝が述べられた。また発表者から出された質問につき回答があった。デジタル化がうまく日本で進まない理由について、それが知りたくて本書を書いた、書いた後いろいろなリプライをもらって深めていきたい。クールジャパンについてのより詳細な記述は私には難しかったと応答。本書がはらむナショナリズム的な要素については、現地のライブラリアンの代弁しようとした面もあったと述べられた。
その他参加者から出された主な質疑応答は以下の通り。
  • 日本の図書館員は国際会議に出るべきという主張について→研修のあり方が問われる。日本から研修に行くと、日本人は自分が調べたいことばかり調べて帰ってしまい、日本から提示するものがないという点への不満を、決して言葉には出さないが現地のライブラリアンの取材を通じて肌で感じた。
  • 本書を図書館のさらに外に向けて開いていくための戦略は?→まさに今からの課題。書評依頼は考えているが、ほかにもアイデアをいただきたい。
  • 日本資料の範囲が、1930年と2008年、あるいは1972年以前の沖縄が入るかどうか、違いが出てきて、一概にいえないのでは?→この点はあまり自覚的でなかったかもしれない。「日本」の範囲は問題がないとはいえないが、執筆時はむしろ、向こうの図書館で言うと、日本は「東アジア」部門で括られているということが念頭にあった。
  • 海外ILLの仕組みについて、工夫すべき点は?→語学が不得手でも、資料が特定できればその次に進めるので、ISBNその他ユニークなIDを探して使えるようにする利用者教育とインターフェースの開発が必要。抄録英文化の話が出たが、「登山口の整備」として私がいいたかったのはむしろそれ以前の、英文タイトル記述等、そういったところからまずはじめてもらいたいと考えている。
  • 日本資料の集積について、和田敦彦先生の一連の研究と繋がる部分もあると思うのだが、和田先生の研究に対して本書のセールスポイントはどのあたりと考えるか?→和田先生のファンなので言いにくいが…重視したのは①実務者の視点で書くということ、②和田先生が歴史的な部分をフォローされているので、「現在」の話に力点を置くこと、③図書館をtoolとしてどう使えるか、上手く使ってもらいたいという思いから書いた。
  • 「近代デジタルライブラリー」が高く評価されているが、日本資料のデジタル化という場合、近デジのような古いものばかりでよいのか、現在のもののデジタル化について、海外日本図書館の反応はあるのか→考え方によるが、手に入る本はデジタル化していなくてもよい。むしろ絶版で日本に来ないと見られないようなものをデジタル化してほしいという意見はある。

その他、「ニッポン」の紹介の着地点をどこに見出していくか。政策的な議論に組み込んでいくための話題提供が可能かどうか。国民国家とナショナリズムの話が出されたが、その枠組みの変化のなかで問われているのは、「ニッポン」だけでなく、それを収めておく「図書館」自体の価値も問われるところに来ているのではないかといった意見も出された。
最後は江上氏から、本書で扱えなかったテーマ・地域については、すぐ続編とはいかないかもしれないが、無理せずライフワークとして引き続き追いかけていくつもりであると抱負が述べられ、盛会の内に終了した。
終了後は、江上氏がこよなく愛するギネスのあるところで、懇親会が催された。

2012年5月19日土曜日

第13回勉強会のお知らせ

こんにちは、事務局3号です。
新年度と思っている間に、早や燕も渡ってきました。みなさまいかがお過ごしでしょうか。

さて、下記の日程で、第13回の勉強会を開催いたします。
みなさまのご参加をお待ちしております。


日時:2012年6月24日(日) 14:00~
会場:シェアハウス鍵屋荘
地下鉄五条駅から5分くらいです。
場所をご存知でない方は事務局宛にご連絡ください。

今回は、関西文脈の会メンバーでもある江上敏哲氏の近著
『本棚の中のニッポン』(笠間書院、2012.5)の合評会を行います。
※参考ブログ:『本棚の中のニッポン』blog

発表者:
近大姫路大学 岡部晋典氏、京都大学附属図書館 梶谷春佳氏

合評会ですので、できるだけ江上氏の著書をご持参の上お集まりください。

参加ご希望の方は、事務局<toshokanshi.kansai @ gmail.com(@は半角)>までご一報ください。
twitterアカウント@k_context宛にご連絡いただいても構いません。
どうぞよろしくお願いいたします。

2012年4月20日金曜日

日本の図書館史研究の「いま」がわかる論文

またまた事務局2号です。連投すみません。

明治大学の三浦太郎先生のご論文「日本図書館史研究の特質 ―最近10年間の文献整理とその検討を通じて―」『明治大学図書館情報学研究会紀要』N0.3(2012)が発行され、明治大学の機関リポジトリで閲覧可能になっています。


近年の日本の図書館史研究に顕著な特色として、
  1. 図書館史研究を方法論的に問い直す試み
  2. 戦後日本の図書館に対する歴史的評価
  3. 人物への注目
の3点が指摘され、それぞれの観点から文献が紹介されています。

また、

「米国など海外における研究手法に学び、プリント・カルチャーや読書史をはじめとする周辺領域の視座、研究成果を横断的に活用することは、今後ますます、日本図書館史の研究においても重要視されるようになると思われる」と指摘されています。

三浦先生にはすでに2008年の時点で、『カレント・アウェアネス』に「図書館史」の文献レビューを発表されていますが、今回のご論文では、その後刊行・発表された研究成果を踏まえて、現時点での図書館史の研究文献がわかります。

戦前期「外地」で活躍した図書館員の研究報告書

事務局2号です。
 京都ノートルダム女子大学の岡村敬二先生による科学研究費補助金研究成果報告書「戦前期「外地」で活動した図書館員に関する総合的研究」(研究課題番号:21500241)が刊行されました。2号宛に一冊いただきましたので、感謝を込めて目次をご紹介します。
 論文はもちろんのこと、とにもかくにも、巻末の人名リストが圧巻です。

 本研究の研究概要はこちらに掲載されています。
 またすでにこちらなどで、「快挙!」の声も聞かれています

はじめに―研究の目的と研究経費

Ⅰ.研究成果の概要

Ⅱ.研究成果

 論文
  1.  “戦前”で終わっていた父橋本八五郎の人生(橋本健午)
  2.  佐竹義継の事跡(佐竹朋子)
  3.  尾道市立図書館の高橋勝次郎(よねい・かついちろう)
  4.  満鉄図書館時代の大佐三四五(鞆谷純一)
 資料紹介・訪書記
  1.  衛藤利夫「本を盗まれた話」再録にあたって(岡村敬二)
  2.  「本を盗まれた話」再録(衛藤利夫)
  3.  秋田県立図書館訪書(岡村敬二)
  4.  内藤湖南生誕の地毛馬内を訪ねて 付載 大阪府立図書館展覧会の歴史 図書館ものがたり その1(岡村敬二)
  5.  岩手県立図書館訪書記(岡村敬二)
 人名リスト
  •   戦前期「外地」活動の図書館員リスト(岡村敬二)

2012年4月17日火曜日

第12回勉強会(2012年4月15日)報告

『図書館を育てた人々 日本編I』を読む(7)
中里龍瑛「東大図書館の復興に尽力:植松安」

日時:2012年4月15日(日) 14:00-17:00
会場:京都商工会議所第一会議室
発表者:服部智
出席者:10名

今回はテキストから、東京帝国大学附属図書館の司書官だった植松安を取り上げ、輪読を行った。当日のtwitterによるつぶやきをまとめたまとめはこちら


0.植松安の略歴

・1885(明治18)年生、1908(明治41)年に東京帝大卒。同年は東京帝大の大学官制が改正され、初めて司書官職が図書館に置かれた年でもある。
・1914(大正3)年に東京帝大文科大学で助教授兼司書官となる。1920(大正9)年に日本図書館協会副会長に就任、この時の会長は今澤慈海。
・1921(大正10)年より一年間の海外出張。各地の図書館を視察し『図書館雑誌』に寄稿。
・1923(大正12年)9月の関東大震災にて東大図書館は壊滅的な被害を受け、植松は姉崎館長の元で復興に尽力。また南葵文庫の東大図書館寄贈に関わる。
・1929(昭和4)年に台北帝大文政学部講師として赴任、翌年教授となり、国語学・国文学を担当。
・1946(昭和21)年、台北から日本へ引き揚げる船中にて死去。

1.東京帝大時代の植松
・東京帝国大学図書館の人々が主体となった書物同好会に関わる。1925(大正14)年に『書誌』を発刊。なおこの雑誌は途中で出版社が変わっているが、編集方針等を巡りトラブルがあったため。
・上代の国文学者として、神宮文庫本古事記裏書の解説をしたりしていた。また東大図書館に寄贈された本居文庫に関心が高かった。背景として、植松の曽祖父が本居宣長の門弟であったという先祖の縁も考えられる。
・植松、山田珠樹、田中敬らが帝大の目録規則の基礎を作成。東京帝大図書館では和漢書の基本カードを事務用にしていた。これは植松の考えによるといわれる。植松が去った後、山田司書官が書名カードを著者名カードに書き換えたため、書名からの利用ができなくなり不便な状態となった。現在も東大の総合図書館参考室にあるカードは著者名カードのみ。同館には現在も、和田万吉や植松が関わった目録の名残が随所に見られる。

【質疑・コメント】
  • 植松の一年間の海外出張は、東京帝大図書館としての業務だったのか。→【発表者】不明。帰国した時の歓迎会を日本図書館協会で開催しているので、そちらの業務だったのかも知れないが、団体の仕事で一年も外遊できるものか。

2.ローマ字普及活動
・植松はローマ字普及推進者であった。全編ローマ字で書かれた著書などがNDLに所蔵されている。漢字の方が目録カード作成の際の労力が大きい、検索しにくい、意味を理解しにくいといった理由。「普通の図書館(public library)ではいかなる知識階級の人も相手にしなければならないのですから、これに対してはどうしても出来るだけ簡単な文字、紛れやすくない音順というものを用いねばならぬ」との言あり。1936(昭和11)年には賀茂真淵の墓前に『ローマ字万葉集』を供えた。


3.和田万吉との関係

・日本図書館協会の仕事を共にするなど、当時東京帝大図書館長であった和田にとって腹心の部下と言える。ただし和田の方は今澤慈海宛の書簡で植松を「狡獪」と評し、不信感を持っていた節もある。
・1923(大正12)年の関東大震災で、和田は被災の責任をとって図書館長を退職。この頃の今澤慈海宛書簡で、和田は植松が震災前後の混乱に乗じて自分を放逐したという趣旨をほのめかせ、怒りを露わにしている。

【質疑・コメント等】
  • テキストに載る植松のエピソードからは豪快な人柄が伺え、几帳面な和田万吉とは合わなかったのではないか。
  • 東京帝大図書館長交代の経緯。震災の時植松は現場におり、資料の救出などに尽力したと自ら書き記している。いっぽう和田はその場にいなかったことで責任を問われることになった。代わって館長となった姉崎正治は図書館商議会の筆頭であり、国際的知名度もあった。震災を受けての外国からの支援申し出に対応する意味でも姉崎が相応しかったと思われる。
  • 姉崎館長のもとで植松がどのような仕事をしたかは資料がなく、良く分からない。
  • 今澤と和田のやりとりした書簡は何故残ったのか?→今澤死去の後、未亡人から都立中央図書館に預けられたもの。日本図書館協会百年史を作る時に集められた資料の一部でもある。
  • このあたりの経緯は薄久代『色のない地球儀』(同時代社、1987)に詳しい。薄さんが東大の文書を整理して戦前の東大図書館について書いたもの。これらの文書は「東大図書館史資料目録」に掲載。東大百年史の図書館の項目執筆にも関わっていたはず。
  • 南葵文庫寄贈の時点では、徳川頼倫(日本図書館協会総裁)と和田と植松の関係は悪くなかったということか。→【発表者】徳川との関係については分からない。
  • 和田万吉は有力者なので、関係が悪化してから一年ぐらいの間は植松を日本図書館協会の中枢から外そうとしていた形跡がある。しかし和田以外の周囲はさほど悪感情もなく、業界全体において植松が孤立していた訳ではないかもしれない。
  • なお震災後、日本図書館協会の主導権が一時関西に移っている。大阪府立図書館長の今井貫一が理事になり、図書館雑誌の編集を間宮不二雄が行っていた。

4.台湾時代の植松安

・昭和4年に台湾に渡るまでの間の植松の活動は不明。休職したりしている。
・台湾での植松は国立台湾大学中央図書館で「蜻蛉日記」の新写本を発見、蜻蛉日記の注釈を行っていたが、中断した。上代国文学者である植松がなぜ「蜻蛉日記」に興味をもったのかは不明。中断した理由は、植松と同じ手法で喜多義勇が多大な成果を上げていたことから、敵わないと思ったのかもしれない。
・上記のような国文学関係の仕事と並行して、「忠君愛国」者としての著述活動を行う。特に昭和10年代からは思想的活動の方が目立つ。
・1933(昭和8)年、台湾日日新報社長河村徹と植松とのラジオ放送を機に台湾愛書会が発足。「書誌学を中心としての諸種の研究、並に大衆教化」を目的に、展覧会や講演会などを開催していた。会誌『愛書』は国立国会図書館のデジタル化資料にも入っている。

【質疑・コメント等】
  • 参考文献に挙げられた国文学関係の植松の著作を見るとあまり統一感がなく、興味の赴くまま色々なことを研究していたのではないか。
  • 植松のローマ字推進と、忠君愛国主義には接点があったのか。→【発表者】日本語を世界に広めたいという姿勢は感じられる。1916の雑誌記事『図書館とローマ字』でもそのような記述がある。ただし森有礼の英語国語化については批判しており、言葉そのものを置き換えようという考えとは一線を画している。
  • 戦前の図書館関係者にはローマ字推進を唱えた人物が多かった。代表的なのは間宮不二雄。この人物が関西の若手図書館職員を集めて作った青年図書館員連盟は、当時、日本図書館協会への対抗意識があったといわれる。日本図書館協会に属していた植松が、ローマ字推進を通じて間宮につながっていたとすると面白い。
  • 植松が忠君愛国主義に傾いていった時期である昭和10年は、美濃部達吉の天皇機関説事件があり、岡田内閣が国会で国体明徴声明を出した。思想史上大きなターニングポイントとなった年。これ以後、特に公職にある人の言論には大きな影響が出てくるので、植松個人の問題かどうかは慎重な評価が必要。
  • 当時の台北大学図書館の蔵書構成はどのようなものだったのか。現在日本では散逸してしまい、台湾でだけ残されているといった資料はないか。また、総督府との蔵書の違いは。→【会場】日本書紀の古い本や、蜻蛉日記等が発見されている。九州大学の中野三敏と松原孝俊が科研費での調査を行っている。中野の著書『和本のすすめ』でも言及があった。
  • <参考:cinii図書 - 台湾大学所蔵日本古典籍調査
  • <参考:台湾大学所蔵和本善本目録の刊行について
  • <参考:台湾大学図書館所蔵の日本研究文献から見た日本殖民史
  • 台北大学では学位授与などはされたのか。→【発表者】不明。ただ、台湾の人が日本文化について書いたものに植松は序文を寄せたりしている。

5.植松安の最期
【質疑・コメント等】
  • 植松は米軍のLST(戦車揚陸艦)で引揚げる途中の船内で息を引きとった。LSTは構造上、衝撃が強いので、病身の植松には過酷だっただろう。
  • 植松の亡くなったのは1946年3月23日であり、終戦後半年くらいは生きていた。その間の著述で、思想の転向などは見られるか。→【発表者】探した範囲では1940年以降の著述はない。


終了後は懇親会が開かれた。

2012年3月28日水曜日

第12回勉強会のお知らせ

事務局2号です。
ご連絡が遅くなってしまい、申し訳ありません、

下記の日程で、第12回の勉強会を開催いたします。
御多忙のところと存じますが、ご参加をお待ちしております。

日時:4月15日(日) 14:00~
会場:京都商工会議所第一会議室
テキスト

図書館を育てた人々. 日本編 1 / 石井敦. -- 日本図書館協会, 1983.6
http://opac.ndl.go.jp/recordid/000001644230/jpn
http://webcat.nii.ac.jp/cgi-bin/shsproc?id=BN01584842

から、「植松安」を取り上げます。
報告者:服部 智氏

参加ご希望の方は、事務局<toshokanshi.kansai @ gmail.com(@は半角)>までご一報ください。
twitterアカウント@k_context宛にご連絡いただいても構いません。
どうぞよろしくお願いいたします。

(4/2 会場確定しました)
(4/8 申込方法追記しました)

2012年2月28日火曜日

第11回勉強会(2012年2月26日)報告

「日本近代文学館が設立された頃の話:今から半世紀くらい前に文学資料の未来を考えていた人々がその頃にいったい何をしていたのか」
日時:2012年2月26日(日) 14:00〜17:00
会場:京都市勧業館みやこめっせ第3多目的室
発表者:岡野裕行氏(皇學館大学文学部国文学科助教)


今回の発表では、岡野裕行「内なるMLA連携―日本近代文学館」NPO知的資源イニシアティブ編『デジタル文化資源の活用』(勉誠出版、2011)所収の内容を踏まえ、日本近代文学館設立に関わった様々な人々の考え方、協力の仕方が紹介された。

当日の関連するつぶやきをまとめたtogetterはこちらを参照

参考:日本近代文学館ホームページ



はじめに発表者から、どうして文学館の問題に取り組むようになったのか、自己紹介を兼ねた説明があった。図書館と文学をつなぐ視点を模索してきたという発表者は、はじめ書誌学(個人書誌)の作成を軸に研究活動を行ってきたが、より図書館に即した視点を考えているうちに、調査で利用していた文学館の機能そのものに注目するようになったという。文学館は博物館の一形態とみなされることもあるが、図書館の機能、アーカイブズの機能も備えている。発表者は2009年に文学館研究会も立ち上げ、文学資料の所在調査を行なってきたという。ここ最近は文学散歩、まちあるき、まちづくりというように、文学というテーマをもとにして、地域社会における文化情報資源の活用にも関心を拡げているとのことである。



以下、発表の内容である。発表は、日本近代文学館の歴史に沿って進められ、大きく分けて、設立の背景、初期の活動、サービスの順に展開していった。

日本近代文学館は、1962年に設立され、1967年に開館した。それまでも文学者を顕彰する形で、記念館は設立されていたが、固有名詞として「文学館」という名称を持つ施設はこれが初めてであり、以後全国に同じような施設が普及していった。なお、当初「プロレタリア文学図書館」「近代文学図書館」などの名称が考えられていたことに示されるように、そもそも文学館は図書館としての機能を期待されていた部分があった。また、プロレタリア文学の資料がもっとも散逸しやすかったということで、逆に資料保存の機運が高まっていたことも興味深い。


(文学館設立の背景)
文学館設立の背景になったのは、1961年に立教大学の小田切進研究室が学園祭で行った「大正昭和主要文芸雑誌展」である。文芸雑誌をまとまった形で見ることができなかった時期に、雑誌を集めて展示することは大きなインパクトがあった。ここから文芸雑誌など散逸しやすい資料収集保存が必要との問題意識が生まれ、文学館設立に向けた動きが進められていく。主な活動の中心となった人物は、小田切進と、川端康成そして高見順だった。


(活動初期の協力者)

文学館の設立には、多くの理解と協力・連携が必要不可欠であった。

文学館の設立にあたっては、学界・文壇・作家の遺族・出版業界・古書店業界・マスコミ・図書館業界・政財界さらに百貨店業界の協力があった。文壇関係者では、高見順・伊藤整らは、自らが文学の歴史を編んだ経験から、文学館設立の必要を認識しており、川端康成は、とくに広告塔として各方面への助力に奔走したとされる。初代理事長になった高見も、病をおして文学館設立の必要を訴え続け、その姿がマスコミに取り上げられることにより、設立の機運を醸成した。また、古書店業界からは、本郷・ペリカン書房の品川力が、文学館の意義を認めて商品を寄贈するという破格の協力を申し出た例もあった。品川力文庫目録として彼の資料は今も文学館に大切に残されている。

また、文学館がまだ竣工していない1964年の時点で、活動の意義が認められ菊池寛賞を受賞し、マスコミに大きく取り上げられたことが、決して順調ではなかった文学館設立への追い風になったと、当時を知る人は回顧している。また、文学館の建物が駒場に経つ以前には、日本近代文学館文庫が1964年に国立国会図書館支部上野図書館の片隅に開設された。このとき、森清をはじめとする整理担当職員が協力して、「日本近代文学館分類法」を作成している。同じ時期には、文学館では百貨店と連携しての展示活動なども積極的に行っていた。


(初期の文学館職員と図書館的業務)

活動初期の図書館的業務を担う職員として、約10年の現場経験を持つ大久保乙彦という人物が、都立日比谷図書館から移籍してきた。文学館が文学研究のための専門図書館を目指そうとする際に、専門知識を持つ職員が必要とされたため、設立運動関係者の一人と学生時代のからの友人であった大久保に白羽の矢が立った。(岡野裕行「文学館業務を形作った図書館職員・大久保乙彦の活動:1960年代の都立日比谷図書館と日本近代文学館」『第57回日本図書館情報学会研究大会発表要綱』2009,p.57-60)

文学館は、そのサービスとして資料提供と展示などの活動を中心に行っているが、そのほかにも初版本の復刻事業を積極的に行っていった。これらは図書館などの施設だけでなく、高度成長期のなかで家庭向けにもかなりの数が売れ、初期の文学館の財政面を助けたと考えられる。


主な質疑とその応答は以下の通り 。

  • 【会場】「文学館」の名前が出て来た経緯は面白い。スタッフに図書館の人もいるのに、なぜ最終的に図書館にしなかったのか?→【岡野】展示機能を重視するなど、図書館機能に収まらない部分が大きかったからだと思われる。なお、初期の関係者にプロレタリア文学研究の人が多く、図書館といって直ちに連想されるような公立の施設にはしたくなったということも考えられる(事務局注:日本近代文学館は設立当初から独立財政の施設であり、現在では公益財団法人の運営である)。
  • 【会場】図書館サービスと図書館の自己認識はつながっているように思うが、同じような意味で文学館サービスというものが一般的に考えられるのか?→【岡野】文学館の存在形態が多種多様であり、ケースバイケースのところはある。
  • 【会場】50~60年代の歴史学の分野で起こっていた資料保存の運動と、一連の動きとして捉えたら色々見えてくるものがあるのではないか。国文学研究資料館の設立の動きや、憲政資料室の一般公開、常民文化研究所、さらに学術会議の答申など。上から下までといっていいかわからないが、大きなうねりの中にあった出来事だと思う。
  • 【会場】『中小レポート』と同じ時期の話なのだけれど、あの経験が生きてハコがどんどん作られていったという通説はなく、実態はハコがあり、そのなかから成功事例が出て来たのではないかと思っている。今回の事例は、『中小レポート』の読み直しにも関わってくる気がして面白い。
  • 【会場】資料収集の基準は、開館当初と今では違うかもしれないし、また文学館がケースバイケースのところがあるので一般化できないかもしれないが、資料で見たとき、雑誌を重視するのか、作家の手紙を重視するのか、当初の方針ではどちらにウェイトがあったのか。→【岡野】何でも漏れなく集める方針だったと思う。ただし、複本をはじいたりせず、誰々が持っていた蔵書ということで、ある種原秩序のまま保存しようというアーカイブズ的な発想は当初からあった。→【会場】そのなかでもこれは文学館資料、これは要らないもの、という線引きは為されたはずで、捨てられてしまったものはもう確かめようがないかもしれないが、実はその部分が文学館のアイデンティティにも関わってくるのではないか。
  • 【会場】文学館の協力者たちのなかで、とくに事務員が主体性を発揮している様子が面白かった。彼らの思想がどういうものであったか、聞き取りや館の編集物を通じて掘り下げていったら、すでに質問が出たことにさらに色々な角度から光があてられると思う。

勉強会開始以来最高人数の出席者を得て、活発な議論が行われた。
終了後は懇親会が催された。