2014年6月24日火曜日

第23回勉強会(2014年6月7日)報告

第23回勉強会(2014年6月7日)報告
「近世伏見学校とは」
日時:2014年6月7日(土) 14:00-17:00
会場:京都商工会議所 第一会議室
発表者:若林正博氏
参加者数:9名
当日の出席者によるtwitter上のつぶやきをまとめたものはこちら

0.はじめに

・伏見学校は、淡交社『京都大事典』によれば「徳川家康が伏見泰長老に設立した僧俗のための学校。慶長6(1601)年に、もと足利学校第9世校長閑室元佶(かんしつげんけつ)を招いて開校」等と説明されている。
・閑室元佶は家康から与えられた木活字10万本を使い、慶長11年までに8点80万冊の書物を印刷した。閑室元佶のために伏見学校と同時に開かれたとされる円光寺にちなんで円光寺版、あるいは伏見版という。
・ただし本日の話は木活字版のことではなく、伏見学校に近世の図書館としての機能があったかという点を見ていく。

1.伏見について

・伏見の郷土史を研究する立場から、このテーマに興味を持った。
・郷土史研究はどこの図書館でもされている。その場合、教科書に載るメインの日本史に対して、その頃自分たちの地元はどうだったかというスタンスになりがち。しかし伏見の場合には地元の歴史が、まさに秀吉や家康の出てくる日本史と重なっている。
・伏見の地理について。慶長当時は丘の上に城があり、南側には諏訪湖と同じくらいの大きさの巨椋池(おぐらいけ)が広がる。大阪・奈良・京都に通じ、淀川の水運がつながる交通の要衝。
・秀吉はここに城を設けた。秀吉の治世には大阪のイメージがあるが、晩年は伏見で政務を執った。言わば首都。城を中心に、周りに武家屋敷があり、さらに周りに町人が住む街づくりは、伏見が江戸のモデルとなっている。
・慶長3(1598)年の秀吉没後、家康の将軍宣下までに5年間空く。その間形式的には豊臣秀頼が天下人であり、関ヶ原の戦いも形式的には豊臣の家来同士の争い。
・家康の子ども16人のうち、4人が成人として伏見と何らかの関わりを持ち、5人は伏見で生まれている。家康が天下人になる過程でも伏見が重要な場所となっており、天下人になった後も将軍職を退くまでの7年間伏見で政務を執った。実質的には、伏見に幕府ができていたとも言える。
・ちなみに他の時代のことを言うと、室町時代には伏見宮貞成親王が住んでいた。近代の皇族の血統はすべてこの人の系譜。貞成親王の日記『看聞日記』は、当時の出来事が克明に分かる重要な史料。陵墓は伏見の町の真ん中にある。
・また幕末には、鳥羽伏見の戦いのうち、伏見の戦いは伏見市中での市街戦。
・近代に入り、水運よりも鉄道の方が盛んになったことと、遷都により京都が寂れたことで、伏見もいったん衰える。しかし明治天皇陵が桃山に造られたことにより、陵墓巡拝の人々が全国から訪れるようになる。


2.円光寺と円光寺版(伏見版)について

・伏見に政権の中心があった頃に円光寺ができた。言わば政権のお膝元に作られた学術機関。
・近藤重蔵『右文故事』によれば、近世初頭に朝鮮より伝来した銅板活字が大きく影響。銅は鋳造が難しいので木で作るようになり、木活字版がブームを迎える。円光寺で刷られた書物は、木活字という当時最新の技術を使っていた。
・ただし後の時代を見ると、木活字版は長続きしない。江戸時代には読者が爆発的に増加したが、木活字は大量反復の印刷に適さないため、板木を使った印刷が盛んになっていく。
・円光寺の跡は不明。碑なども無い。現在の桃山町立売、桃山町鍋島付近にあったと言われている。
・円光寺を作った閑室元佶は、足利学校の第9世庠主。足利学校は北条氏が庇護者となっていた学校で、蔵書を多く持っていた。1590年、小田原の北条氏滅亡により庇護者がいなくなる。足利学校の蔵書は豊臣秀次により京都へ持ち去られ、閑室元佶も一緒に京都に来た。蔵書はのちに家康の仲介で足利に戻されるが、元佶自身は家康の学術顧問となる。
・秀吉の死後、家康が元佶に10万個の活字を与え、伏見で木活字印刷を始めさせる。関ヶ原の合戦以後に、伏見に円光寺が創建される。
・伏見版については、川瀬一馬『古活字版之研究』に詳しい。木活字の起源を朝鮮と断定。
・元佶が与えられた活字のうち、912個を京都府立総合資料館で所蔵している(参考文献:「円光寺所蔵伏見版木活字関係歴史資料調査報告書」)。
・伏見版で出版された書物は兵法書や歴史関係が多い。『東鑑』はかな文字入り。
・1607年に家康が拠点を駿河に移すと、伏見版の刊行もなくなり駿河版に移行。このことからも、元佶が勝手にやっていたことではなく、家康のお膝元ならではの事業だったと言える。


3.円光寺は学校だったか

・篭谷真智子「円光寺学校の研究」によると、「鹿苑日録」などの日記に登場する「学校」という呼称は、閑室元佶本人を指すことが多い。つまり元佶個人を指す「学校」という呼称が円光寺=近世の学校と理解され、誤った解釈がされたのではないか。一方で円光寺の日記を見ると、常設の教育機関というよりは色々な知識人が出入りするサロン的空間だったと考えられる。
(以下は発表者私見)
・では円光寺は図書館だったのか。円光寺については、出版記録はあっても、どんな本を持っていたかの記録がない。足利学校から秀次が持ち去った書籍も、後に足利に返されているので円光寺に置かれていた訳ではない。
・実は図書館でも学校でもなかったのではないか。
・一般的な学校と紹介される古記録は、正徳元年の『山州名跡志』。
・「伏見学校」という名前が登場するのは大正4年の『紀伊郡誌』。しかも「足利学校の一部を転移した伏見学校の跡」とはっきり書いている。この記述の派生過程は不詳。

4.新説と通説の関係

・脇にそれるが、京都は文化財が多いため空襲のターゲットから外された、という通説がある。吉田守男『京都に原爆を投下せよ』ではその通説を否定。きちんとした論考であり、妥当だと考える。しかしこの話を知人にした時には、フィクション小説と同列の仮説として受け止められた。
・図書館資料を、NDCではなく利用者に分かりやすい配列で並べようという試みが最近ある。しかし分かりやすい配列とした時に、歴史学と歴史小説とが混配されることにならないか。
・一方でNDCが万能とは言えない。難点を挙げると、NDCは明治あたりで時が止まっている。田中角栄についての本はいつまで3門(社会科学)なのか。現在生きている多くの人にとっては2門(歴史)ではないのか。
・他にも、明らかに怪しげな本が歴史に分類されているケースも見る。本当にカタロガーは専門性を発揮しているのか。


5.結び

・通説を覆すような研究者の論文が広く認知されていくことが望ましい。
・市町村史、特に大正や昭和初期等に書かれたものの中には、記録の典拠明示をせずに伝承と混同して記述しているものがある。批判的検証が必要。
・それでは、図書館史における伏見円光寺とは何だったか。家康が築いた文教政策の産物であり、後の時代のプロトタイプとなった。いわゆる近世以降の図書館の定義にはとうてい達していないが、その前段階で基礎をなしたもの。


質疑

・当時の大名の参勤交代の京都伏見間の交通手段は?→陸路。西日本の大名が参勤交代で江戸に向かう時にも大阪から船で伏見に着き、陸路、京を通らずに醍醐山科から大津へ抜けて東へ向かう。京都に足を踏み入れると朝廷へご機嫌伺いしなくてはならないし、ご機嫌伺いの仕方がまずければ朝廷に接近しすぎているように見えて幕府から睨まれる。
・伏見の酒造業はいつから盛んになったか。→実は江戸時代にはそれほど盛んでなかった。京都に出回っていたのは伊丹の酒が中心。明治になって月桂冠などが近代的な醸造技術を取り入れたこと、深草に陸軍第十六師団部隊が置かれたことにより、伏見の酒が全国に広まった。
・家康が駿府に移ってから駿河版に移行したというが、江戸駿府にも元佶はついて行ったのか。→元佶はついていっていない。
・図書館の分類は、その本が主張することを受け入れるのが基本。歴史本として怪しいものであっても、せいぜいノンフィクションとせざるを得ない。NDCというよりは分類の根本的な問題。
・篭谷論文自体の信頼性は?→発表では紹介できなかったが、論文は当時の信頼に足る「鹿苑日録」や「言経卿記」などの内容を丹念に検証して順序だてて論述されている。近世学校としての要件を持っていたとする記述がある一次史料がみつけられていないことについても言及している。
・円光寺では日頃講義ではなく、本を作っていたのだとしたら、学術機関と言えるのか。→当時の図書出版はまだ商業活動ではなく、学術的な行為と考える。

終了後、懇親会が行われた。

2014年5月14日水曜日

第23回勉強会のお知らせ

下記の日程で、第23回の勉強会を開催いたします。
御多忙のところと存じますが、ご参加をお待ちしております。

日時:2014年6月7日(土) 14:00~17:00
会場:京都商工会議所 第一会議室

発表者:若林正博氏
タイトル:伏見学校について

また、会終了後は、懇親会を予定しております。
おおよその人数を把握したいので、参加ご希望の方は
会合の一週間前までを目安に、
事務局<toshokanshi.kansai @ gmail.com(@は半角)>までご一報ください。
twitterアカウント@k_context宛にご連絡いただいても構いません。

2014年4月5日土曜日

第22回勉強会(2014年3月29日)報告

第22回勉強会(2014年3月29日)報告
「公立図書館司書検定試験」
日時:2014年3月29日(土) 14:00-17:00
会場:京都商工会議所 第二会議室
発表者:岡田大輔氏
参加者数:11名
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0.発表のきっかけと目的
・もともとの関心の方向は歴史というより、司書養成のカリキュラムや試験制度。
・国立国会図書館デジタルコレクションで、『全国小学校教員試験問題及解答 尋常科正教員教育科』という明治時代 の資料を見つけた。興味深いのは模範解答が載っている点。解答があることにより出題の意図や、どういう答えが求められているかが分かる。しかしこの中に図書館に関する問題は出てこない。
・では図書館員の採用試験はどうだったのか?ということで、戦前に存在した「公立図書館司書検定試験」 を取り上げた。

1.公立図書館司書検定試験の概要
・採用試験ではなく資格試験。文部大臣の命ずる検定試験委員が実施し、願書は文部省に提出する。
・昭和12(1937)年2月から毎年1回、おそらく7回実施された。
・合格のメリットは試験規程や要項に明記されていないが、奏任官(管理職のようなもの)待遇の司書になる一つの方法であった 。
・1941年の公共図書館員の待遇を見ると奏任官で年俸1343円、判任官で月給72円、書記で月給48円。奏任官の待遇が特別良いわけではないが、ステータスは高いと考えられる。
・試験手数料は5円。先の待遇から見ても5円はそれほど気軽な金額ではない。
・学歴などの受験資格は定めず、誰でも受けることができた。合格者には小学校卒の人も、いわゆる外地出身者も、女性もいた。
・昭和12(1937)年に行われた第1回試験の内容。筆記試験が2月22日~2月25日、出題科目は国民道徳要領、国語・漢文、国史、外国語、図書館管理法、図書目録法、図書分類法、社会教育概説。筆記試験合格者に対して実地試験が課された。出願が32名、合格が18名。
・穴埋めや選択式はなく、ほとんどすべて論述問題。試験時間2-3 時間に対して3-4問といった分量。
・国語や漢文は現在の大学受験レベル、歴史は範囲が広くやや難しい。国民道徳要領は教育勅語等を丸暗記すれば答えられそう。実地試験では「ある地方の小図書館があり、時局柄予算も人員も減っているが、戦捷記念の館であるため閉館もできない。あなたならどう経営するか」といった口頭質問など。

2.試験問題についての考察
・戦前の図書館については、中央図書館制度導入による中央集権化、思想善導、読書会や読書指導といったイメージで従来は語られてきた。
・実際の試験問題について、「戦中」度数、「思想善導」度数を自分の感覚で採点し、グラフにしてみた。7回の試験を通じて、「戦中」度数は特に変化していない。
・しかし、この度数の定義はあいまいで、感覚の域を出ない。
・実際に試験内容を見ると、思想的に極端な偏りはあまり感じない。特に図書館の専門科目については、現代の採用試験で出てきても違和感のないようなものも多い 。


3.受験体験記
・青年図書館員聯盟『図書館研究』に掲載された司書検定試験学習法の記事がある。タイトルは『司書検定試験受験ノ栞』。のちに単行本化された。
・著者は山下栄。1907年、愛媛県今治市の生まれ。18歳で図書館での勤務をスタート。その後文部省図書館講習所を卒業し、24歳で大阪帝国大学付属図書館に勤務。31歳で公立図書館司書検定試験に合格。34歳で阪大を退職、日本貿易振興会付設日本貿易研究所に勤務。戦後は神戸市立図書館、尼崎市立図書館などに勤務し、60歳の時に武庫川女子大学教授となる。72歳で没。
・なお山下が阪大を退職した理由は、上司であった田中敬との衝突が原因とされる。目録の取り方等で対立した結果、田中の自宅に押し掛けて、自分の書いた論文の抜き刷りに辞表を挟んで「ぶち投げた」というエピソードが残る。
・「受験ノ栞」によれば、専門科目の検定委員:図書館管理法は今澤慈海、松本喜一、中田邦造。図書館目録法は太田栄次郎、田中敬。図書館分類法は加藤宗厚、田中敬。社会教育概説は不破祐俊。
・合格者はほぼ図書館講習所の出身者。しかも現役がほとんど。講習所を卒業しただけでは法律上「奏任官待遇の司書」にはなれなかったため、講習所の卒業試験のような意味合いもあったのかもしれない。ただし検定試験自体にそれほど魅力があったかは不明。
・なお『図書館雑誌』などの2次資料では、合格者に関する記述に矛盾が多く注意が必要。

4.司書検定試験が与えた影響
・試験合格によって奏任官待遇の司書になれる可能性があるという触れ込みだったが、実際に図書館雑誌等 に合格者が奏任待遇を得た等の記事は見当たらない。
・また検定試験が行われていた時期において、講習所修了/非修了、検定合格/非合格というグループに分けて、1955年の図書館員の名簿に載っている(=15年後にも図書館で働いている)人の割合を調査した 。結果としては、外部からの合格者に比べ講習所修了者の存率は高い傾向があるが、検定の合格有無には有意差なし。
・現行の図書館法により、公立図書館司書検定試験は廃止。すべての司書資格はいったんリセット。ただし現職者には5年間の猶予期間が設けられ、この間に司書講習を受けなければ失効。山下栄は1951年に司書講習を受けて資格を維持した。なお山下は同じ年に司書講習の講師も担当している。

5.質疑
・図書館講習所のカリキュラムと、この試験内容はどの程度合っていたのか。 →調べきれていない。当時の講習所での教科書の内容との関係を調べることなどが考えられる。
・講習所修了者の就職先を見ると、いわゆる公立図書館は少ない。公立図書館司書検定と銘打っていたが、実態は異なっていたものか。→ただし当時の「公立図書館」が現在の自治体立図書館と同じ概念であるかどうかは不明。
・試験規程では、対象者をどのように想定しているのか。→規程は官報に載っているが、費用や申込み方法など手続き的なことしか書いていない。
・試験問題から「思想善導」の意図を読み解くといったことは、厳密な言説分析が必要になるため非常に難しい。制度史や教育史、あるいは合格者ひとりひとりの人生を追うといった形の方が良いのでは。 →その通りだと思う。同時代の教員採用試験などさえもまだ見ていないので、いろいろ見てきちんとした指標が作れる可能性があるかから考えたい。
・青年図書館員聯盟は、この試験制度にはどう反応したのか。→非常に多く言及し、受験を勧めている。批判的ではない。
・当時の図書館員の採用試験に、そもそもペーパーテストはあったのか?→京都府の採用では何か書かせる試験があったはず。

当日の資料は、下記URLからダウンロード可能。(クリックするとダウンロードが行われます)
http://researchmap.jp/?action=cv_download_main&upload_id=100056

終了後、懇親会が行われた。

2014年2月24日月曜日

第22回勉強会のお知らせ

下記の日程で、第22回の勉強会を開催いたします。
御多忙のところと存じますが、ご参加をお待ちしております。

日時:2014年3月29日(土) 14:00~17:00
会場:京都商工会議所

発表者:岡田大輔氏
タイトル:公立図書館司書検定試験

また、会終了後は、懇親会を予定しております。
おおよその人数を把握したいので、参加ご希望の方は
会合の一週間前までを目安に、
事務局<toshokanshi.kansai @ gmail.com(@は半角)>までご一報ください。
twitterアカウント@k_context宛にご連絡いただいても構いません。

2014年2月14日金曜日

第21回勉強会(2014年1月18日)報告



21回勉強会(2014118)報告
「先輩司書について語る!~天野敬太郎の人生~」
日時:2014118日(土) 14:00-17:00
会場:京都商工会議所 第三会議室
発表者:今野 創祐氏
参加者数:8
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0.天野敬太郎の略歴
1901年、京都市に生まれる。
19143月、京都帝国大学附属図書館に就職。(附属図書館見習)
1924年、京都帝国大学司書となる。附属図書館勤務。京都帝国大学書記を兼任し、こちらは経済学部・法学部勤務。
19483月、京都大学附属図書館を退職し、関西大学図書課長となる。
19673月、関西大学を退職。翌4月、東洋大学社会学部教授に就任。
19723月、東洋大学を退職。
19928月 死去。

1.京都帝大時代
・小学校卒業と同時に京都帝大に就職。その頃、附属図書館の館長は新村出だったが、初代館長の島文次郎はよく図書館に顔を出し、天野を可愛がっていた。島は天野に切手蒐集の楽しみを教え、これは天野の趣味となった。
1925年に天野が初めて雑誌(週刊朝日)に発表した文章は「切手に現はれた人物」。
19273月、初めての編書『法政経済社会論文総覧』を刊行。京都帝大教授の宮本英雄、本庄榮治郎が序文を寄せる。この本の内容については、竹林熊彦が批判している。
19311月、初めて図書関係の雑誌に論文(?)を発表
 「維新以来本邦書目ノ書目」→『日本書誌の書誌』の原型
 これ以降、雑誌上に目録、論文を多数発表し、単行書としても多くの目録類を出版する。
 論文の内容としては、各種目録や書誌に関するエッセイ・評論が多い。
Ex) 「改題・転載・剽窃物語」(『書物展望』511))
「剽窃される恐れあるもの特に編纂物は、読者の迷惑にならぬ程度で、わざと覚えの    誤りを作つて置くに限る。剽窃者は必ず誤りのまゝ剽窃するのであるから。」
1935年、文部省主催図書館学講習会の『図書目録法』講師を担当。以降、目録関連の講義を多数行い、論文も多く執筆。
1937年、「日本図書目録法案」についての論評を発表

2.関西大学時代
19483月、関西大学図書課長に就任。
 →戦後混乱期の関西大学図書館立て直しのために招聘された
・関西大学図書館での天野の業績:新分類法による図書整理を完成、開架閲覧室を開設
※ただし、天野の著作には直接的利用者サービスについての言及は見られない。上記の「業績」は第2代関西大学図書館長を務めた森川太郎の回想から。
19514月、日本図書館研究会理事長に就任。(19536月まで)
・この時期、天野は多くの大学で図書館学の講義を担当。著書も目録の採り方に関する教科書的な内容のものが増える。一方で河上肇の著作を編集したものや、関西大学の資料に関する目録類の出版も多い。『日本古書通信』に433回寄稿。
19597月、ロンドンで開催されたIFLA主催国際目録会議予備会議に日本図書館協会代表として出席。天野はNCR1952年版の現状について報告し、参考資料としてWorking Paperを提出。
 →実際には、この会議で取り立てて新しい進歩、新規な方法などはなかった。会議終了後、天野はヨーロッパ各国(イギリス、フランス、ドイツ、スイス、イタリア)の図書館を見学して帰国。
・国会図書館の雑誌記事索引を批判(『京都図書館協会会報』751965年)

2.東洋大学時代~晩年
1967年、関西大学を退職後、東洋大学社会学部教授に就任。
 時期的に鈴木賢祐の後任か。 →図書目録法、分類法、参考資料論、図書館史を担当
・同年10月、日本図書館協会分類委員会委員長に就任(1971年まで)。NDC7版の見直しを主導。
1973年から1983年にかけて『日本書誌の書誌』を刊行。これは当初国立国会図書館が出版を計画し、天野に資料援助を依頼していたが、物別れに。前出の雑索批判の背景の一つか。

◆質疑
・天野自身の著作には私生活のことが全く出てこない。弟子の回想等からようやく判明する程度。
・天野の職歴は一般的なものだったのか?
 →当時尋常小学校卒で働くこと自体は、よくあること。しかしそこから27歳で編書を出すに至る過程は不明。
・天野のNDL雑索批判について。当時(1965年頃)の雑索は試行錯誤を重ねていた。その試行錯誤を「一貫性がない」とされた面もある。

終了後、懇親会が行われた。

2013年12月3日火曜日

第21回勉強会のお知らせ

下記の日程で、第21回の勉強会を開催いたします。
御多忙のところと存じますが、ご参加をお待ちしております。

日時:2014年1月18日(土) 14:00~17:00
会場:京都商工会議所 第三会議室

発表者:今野創祐氏
タイトル(仮):先輩司書について語る! ~天野敬太郎の人生~

また、会終了後は、新年会を兼ねた懇親会を予定しております。
おおよその人数を把握したいので、参加ご希望の方は
会合の一週間前までを目安に、
事務局<toshokanshi.kansai @ gmail.com(@は半角)>までご一報ください。
twitterアカウント@k_context宛にご連絡いただいても構いません。

どうぞよろしくお願いいたします。

2013年11月22日金曜日

第2回東西合同合宿(2013年11月2日~3日)報告

日時:2013年11月2日(土)~3日(日)
会場:シェアハウス鍵屋荘(京都府京都市)
出席者:22名(東京8名、関西14名、※一日のみ参加も含む)


昨年に続き、東京と関西に拠点をもちそれぞれ活動している文脈の会メンバーの親睦と研鑽を目的とし、京都を会場として第二回目の合宿を開催した。
東西文脈の会から報告者を選び、以下に掲載する報告が行われた。


●「滋賀県における文化行政と図書館整備」(中込栞氏)


 1970~80年代の滋賀県の文化行政と図書館振興政策の関わりについての報告。報告者の卒業論文を元にした内容である。

 滋賀県の図書館振興政策について論じた先行研究は、滋賀県を見習う「べき」、という振興策ありきの論調であり、そもそも振興策がなぜ作られたのか、という点への問いかけが少なかった。そこで行政全体に関わる広義の「文化行政」に焦点を当てることで、教育委員会所管の事業にとどまらず、行政全般と図書館振興策との関連を検討した。

 1974年12月から1986年にかけて、滋賀県知事を務めたのが武村正義氏である。武村知事は琵琶湖の富栄養化の防止に関する条例等に代表される「草の根県政」を標榜。文化行政の面では、「県政に文化の屋根をかける」をスローガンとして、県教育委員会に文化部を設置。その中の文化振興課が中心となって、1979年から「文化の屋根事業」が始まる。武村氏が知事に就任する以前の1970年ころから県立図書館の新館建設要望は出ていたが、1979年に新館建設起工。工事と並行して文化振興課による館長探しが行われ、日野市立図書館長などの経験を持つ前川恒雄氏に依頼し、図書館運営を任せた。(1)貸出中心(2)県立図書館による市町村立図書館のバックアップ(3)専門職重視、という理念に基づく運営で、滋賀県の図書館は大きく前進した。

 1980年に、①住民の図書館欲求の育成、②市町村立図書館整備策の二つを柱とする『図書館振興に関する提言』がまとめられた。これらのうち、①は「草の根図書館」として、②は資料費補助を伴った図書館整備補助として実現する。この『図書館振興に関する提言』は単なる図書館整のための提言ではなく、知事の目指す草の根県政の実現の手段としての図書館像を描いている。またその後整備状況によって、効果的に改訂が加えられていった。
 
 武村知事にとって、図書館振興は「草の根県政」実現のための手段であり、図書館の振興は政策的に有効と判断されるものであった。時代的背景や、行政・現場双方からの図書館に期待する役割像が一致していたなど、図書館の世界だけに留まらない行政全体としての様々な要因が加わった結果、滋賀県の振興策は成功したのだと考えられる。

◆質疑
  • 滋賀県立図書館長時代の前川氏にインタビューを行ったことがある。行政担当者としての手腕や、先進的にコンピュータを導入したことなど、図書館経営者としてマネジメント能力のある人だという印象をもった。
  • 新館建設前の県立図書館を使ったことがある。武村県政と西武グループの滋賀県への進出とが歩を合わせている様に見受けられる。  →その通り。プリンスホテルの進出、西武百貨店の誘致etc...
  • 県立図書館論について調べたことがあるが、武村知事、前川氏による滋賀県の図書館振興への意向・意志を詳しく書き残したものはほとんどない。何故か。かなり後の岸本岳文氏による記述しかまとまったものがないのが不思議。
  • 滋賀は元々、近江商人の地として、近世から書籍や情報にあふれていた印象がある。その意味で、図書館という輸入された近代的装置がそれほど求められなかったのではないか。現在の「文化行政」論の場合、方法として行政側のみの視点におうおうにしてなりがち。地域側からの視点や特性をどう入れるかが今後の議論の発展に重要になる。また、「革新官僚」としての武村知事の在り方も検討を要するのではないか。


●「竹林文庫史料から見る田中稲城」(長尾宗典氏)


 報告者による田中稲城(1856~1925)に関する研究の中間報告。初代帝国図書館長である田中については、戦前期の竹林熊彦による伝記的研究があるが、戦後はあまり研究がなされていない。同志社大学所蔵竹林文庫に含まれる田中稲城の文書は、デジタル化され提供されているが、田中の伝記的研究の欠を補うに足る一次史料であり、丁寧に見ていくことでさらなる知見が得られると期待される。
報告者は竹林文庫史料の履歴書などを使い、田中の年表作成を試みた。また、竹林が使用しているによる田中稲城文書の年代比定にも疑問点がある。この他にも田中宛の書簡から浮かび上がってくる人間関係には意外なつながりもある。

 現在までのところ、竹林の伝記も含め、田中への論級は明治の中ごろ。米国に留学してから帰朝して帝国図書館設立に至るまでの時期に集中しており、明治末期から大正にかけての田中の事績は不明な点が多い。ただし、『図書館雑誌』創刊や図書館員講習、小松原訓令の起草など図書館史上重要な事柄にも関与しており、決して重要でないわけではない。これらをどのような文脈に位置付けられるかは今後の課題である。

◆質疑
  • 竹林が「土」に連載した文章中に、田中稲城関係史料が竹林に寄託される経緯の記述がある。これ以前の竹林による田中稲城論は、竹林が個人的に収集した史料によるものか。しかし、私的な書簡がそんなに流通するものか疑問。 →竹林の田中研究はきわめて重要だが、ほとんど彼だけが研究しているので、使っている史料の面からも、批判的に吟味していく必要があると考える。
  • 田中の名の読みは「イナギ/キ」か「イネギ/キ」か。サミュエル・グリーンなど、海外の人物からの書簡が残っているようなので、手掛かりになるのでは。
  • 田中稲城を研究する意義とは。帝国図書館史研究にどうつなげるか。人物から組織を研究する際の問題点・課題を整理する必要がある。また、人物研究でもその人物の個人的資質だけでなく、組織運営能力その他の検証が必要。


●「「長田富作資料」について」(門上光夫氏)

 十五年戦争期に大阪府立図書館長だった長田富作(おさだ・とみさく)が遺した図書館活動に関する資料について紹介された。なお、この資料については第17回関西文脈の会勉強会(2012年12月)で報告いただいており、今回はそれ以降の資料整理の成果も踏まえた報告となった(長田の経歴等については、リンク先等を参照)。文書については一通り整理が完了し、前回報告時に未整理だった書簡については今年から整理が進められている。

 資料群は大阪府立図書館の庶務・展示会・貸出文庫関係、また大阪や近畿地方の連絡組織関係、日本図書館協会関係、中央図書館長協会関係のものからなり、全480点存在している。最近発行されたばかりの『大阪府立図書館紀要』第42号(2013年10月発行)に、目録を掲載してある。

 報告では資料群のなかから、青年層のための国民精神総動員文庫関連の史料、戦地への「貸出」記録、読書会の史料、大阪文化施設協会の史料、日本図書館協会や中央図書館長協会関係の議事次第や名簿などがあることが紹介された。
門上氏からは、戦時期の図書館活動に関する一次史料の発掘をこれから進めていく必要があること、並びに戦時期の図書館活動を日本の近代の歴史の中にどう位置づけて行くかという点について問題提起がなされた。

◆質疑
  • レジュメの内容紹介にある「注意」とはどんな史料か。 →提供時注意すべき資料(左派系と目されていた資料)。逆にいえばそういった資料も所蔵していた、ということ。
  • 書簡は大体何点くらいか? → 150~200点
  • 大阪文化施設協会の会則について、「文化施設」は文部省の課の名前でもある。戦時中、社会教育的な分野で施策を行う場合、「文化」の名の下に行っている。図書館史だけでなく、博物館史や戦時文化運動の史料ともなろう。
  • 中央図書館長協会についての研究でも文化施設協会の在り方は関連するのではないか。
  • 「文化」「科学」という語が広く喧伝され始めるのは1940年代から。敗戦後、唱えられたかのように思われがちだが、戦中期からのもの。これが戦後初期のスローガンのひとつ「文化国家」にスライドしてくる。この視点から捉え直す必要がある。

●「田中一貞と慶應義塾図書館」(田村俊作氏)

 慶應義塾図書館の初代監督を務めた田中一貞(たなか・かずさだ(「いってい」と読む史料もある)1872~1921)について、『慶應義塾図書館史』などを元に、経歴をたどりつつ、彼の人となりや図書館観などについて紹介がなされた。

 田中は山形県、鶴岡の出身。同郷の縁もあって若き高山樗牛とも親交を持った。慶應義塾を卒業後、アメリカ、フランスに留学し、社会学を修めた。明治37年(1904)帰国後は、慶應義塾において社会学と仏語を講じた。翌年、書館が「図書館」と改められると初代「監督」を兼任し、目録カード編成や図書館規則の制定に尽力した。長く塾長を務め、福沢没後の義塾の発展に尽くした鎌田栄吉の信任が厚く、半年以上に及ぶ欧米巡遊にもともに出かけている。

 田中の人となりについては、「開放主義」と呼ばれる人柄で、来客は夫人とともに迎え入れるような人が集まるタイプの人だったらしい。また、留学中、フランスで洋画家グループと交流を持ったこともあり、大の美術品収集家であった。病弱な一面もあったという。福沢諭吉のことをたいへんに尊敬し、「赤誠熱愛のハート」を持った教育者であったと回想している。

 図書館については、開架の提唱や塾外者の利用を認めるなど、利用者の便宜を重視する運営をした。図書館建築に一家言を持っていた人で、図書館は“防火性”“効率性”“拡張性”が重要だと述べているが、こうした田中の考えに基づいて作られた慶應義塾図書館旧館は、空襲に耐え、二度の拡張により70年に渡って本館として使われた(また田中は美観も重視し、例えば、慶應義塾図書館内のステンドグラスは、田中の発案によるものである)。大学図書館長として早稲田の市島春城とはかなり違った個性だが、ユニークな図書館人として評価できる。

◆質疑
  • 田中が「図書館の専門家」でなく「素人」というのは、和田万吉らがしきりに言っていた専門性論と関係がある?田中は社会学者の顔も持っており、そこに一種の誇りも持っていたのでは。
  • 田中という人の業績は、普通に評価すると図書館建築に一家言あった人という程度に見えてしまうが。 →図書館人の歴史的評価が何によってなされるべきかという重要な指摘。今までは書いたものの図書館観が立派なら、それで評価されていたかもしれないが、図書館経営の評価はそれでははかれない。言説だけでなく、運営実態や、機能する施設といった実務業績も見るべき。

このほか、柳与志夫氏から「短報」として、大阪府立中之島図書館の歴史を振り返りつつ、橋下市政下における同図書館の改革に関する検討動向について簡単な話題提供があった。


また、終了後はオプショナル・ツアーとして、同志社大学図書館および本会メンバーである春山明哲氏のご厚意により、同図書館竹林文庫の見学会を開催した。