2011年12月4日日曜日

第10回勉強会(2011年12月3日)報告

「書物としての三国志」
日時:2011年12月3日(土) 14:00〜17:00
会場:キャンパスプラザ京都第1演習室
発表者:長坂和茂

今回の発表では、日本で広く読まれている三国志について、正史の成立、演義の成立、各版本の系統から日本における受容まで、大きな視野から紹介がなされた。
当日の参加者を中心とするtwitterでの言及のまとめはこちらを参照。
以下に概要を紹介する。

零.前提知識
三国時代は184年の黄巾の乱から280年の呉滅亡までをいう。名目上は、229年孫権が皇帝を名乗り、呉を建国してからが三国時代ともいえるが、そこから234年の諸葛亮没まではわずかしかなく、三国志関係の創作ものはそれ以降をほとんどおまけとして扱う。見方によっては三国志のハイライトは、三国時代になる前にほとんど終わっているともいえる。三国志(正史)の撰者は晋の陳寿、これに劉宋の裴松子が注をつけた。紀伝体で書かれたものである。

一.陳寿本文について
三国志撰者である陳寿(ちんじゅ、233-297)は、元々蜀の人。蜀滅亡後に魏にわたり、魏晋革命により晋に仕える。生まれた翌年に諸葛亮が没しており、ほぼ同時代の歴史として三国志を編む。そのような立場なので、漢・魏・晋を正統の国として評価するが、曹操が不徳であることを示す為に、欠点のある人物として描く。劉備はかつて仕えていた国の人なので、悪く書けないが、蜀正統を打ち出す事も出来ない。孫権については、魏から見れば賊であり、蜀漢から見てもせいぜい同盟相手なので、呼び捨てにされている。司馬炎は今現在仕えている皇帝なので命にかかわるため批判が書けない、等々のバイアスがかかっていることを踏まえないといけない。ただ、その後唐代に書かれる晋書のような国家プロジェクトでなく、陳寿個人の著作として書かれたものでもあるので、避諱など厳密でないところもある。三国志は全65巻からなり、魏志が30巻、蜀志が15巻、呉志が20巻。

二.裴松子注について
裴松子(はいしょうし、372-451)はもともと魏に仕えていた一族で、西晋・東晋を経て劉宋に仕える。陳寿本文がごく簡潔な記述に止まるため、文帝から命じられて、裴松子が注の作成を命じた。裴松子注はとにかく資料を集めて引用するもので、引用した資料は200以上と言われる。またそのうちのほとんどが散逸してしまっている。引用元の書名か著者が書かれているので、引用されている記述のバイアスがある程度推測できる。また、出典が書いてあるので、『諸葛亮集』など、散逸した資料の復元に使われている。歴史小説の素材にもなる。後漢書で三国志と重複するものの出典を確認するために使う、等々の利点がある。

三.刊本について
三国志の現存する刊本で最も古いものは紹興本、紹熙本。このほか呉書だけだが、咸平本(実際は北宋末か南宋初頃と推定される)などがある。紹熙本は宮内庁書稜部所蔵(1~3巻を欠く)。咸平本呉書は静嘉堂文庫所蔵。なお中華民国期に編まれた百衲本二十四史では、書稜部の紹熙本が使用されている。なお、清代考証学の成果として色々な学者によって唱えられた説をまとめた三国志集解(しっかい)もある。

四.歴史から小説へ
三国志は六朝時代に入ると、老荘思想などの影響もあって小説・講談で語られるようになった。そうした講談の種本をまとめたのが三国志平話。中国で散逸してしまっていて、現在は内閣文庫にあるものが「天下の孤本」。このほか、関羽の架空の息子が活躍する花関索伝があり、これの発見によって、三国志演義の版本の研究が進む。民衆に人気があった。ここから、荒唐無稽な内容や、大幅に史実に反する内容を排除し、士大夫の読み物に仕立て上げたのが、羅漢中(らかんちゅう、生没年不詳。元末明初の人)の三国志演義である。

五.三国志演義の刊本
三国志演義の版本には、嘉靖本、周曰校本、李卓吾本、毛宗崗本(毛本)がある。毛本は、現在演義の翻訳として販売されているものの底本。また李卓吾本は、日本での湖南文山の通俗三国志の元となり、これが吉川英治、横山光輝を経て現在に流布している三国志イメージを作っている。日本人が知っている三国志エピソードを中国人が知らないのはこのためでもある。

六.日本における受容
三国志が中国語以外の言語に翻訳されたのは、清初の満州語訳が最初と言われるが、日本でも元禄年間に湖南文山が李卓吾本を底本として翻案・翻訳した『通俗三国志』が出された。毛本をもとに翻訳したのは1912年の久保天随による『新訳演義三国志』が初。1930年代の流行の背景には戦争の影響がある。また、1970年代の日中国交正常化の影響も大きい。横山光輝が、国交正常化でようやく資料が入ってきたため、関羽・張飛の武器の設定変更などを行なったのはその一例。1990年代には、ちくま文庫から正史が刊行されたため、ブームは演義から正史へ。サブカルとの融合も進みながら現在に至っている。

主な質疑とその応答は以下の通り。

  • 版本で一番古いものは原文のままなのかどうか。→最近、トルファンで発見された呉書の残巻など、晋~唐代ころのものと思われる巻と紹熙本を比較すると、若干異同があり、実は文字が少し変わっているのかもしれない。だが量が少なく、これからの研究にまつところが大きい。
  • 陳寿が蜀漢を重視しているのに、蜀志の巻数が一番少ないのは何故?→劉備が史官を置かず、記録が曖昧なのが原因。劉備流浪時代の記述が少なすぎる。曹操の不徳を批判し、蜀を讃えるならば、赤壁の戦いで曹操軍を破ったことなどアピールできるのに書かれていない。
  • 最古期の版本が日本にあるというのは、国内?世界的に見て?→これは世界的に見て。戦乱が続く中国で散逸してしまったものはかなりある。
  • 花関索伝で演義の研究が進んだというのは?→関羽の三男とされている関索が実在したのかどうかという長い論争に決着がついた。このほか演義に登場し、正史に登場しない人物が実在したのかしなかったのか、創作なのかどうかについても、研究が進んでいる。

このほか、サブカルへの融合を考えると、NHKの人形劇も重要では?といった意見も出された。
終了後は忘年会が行なれ、今年の関西文脈の会はマクロに始まりマクロに終わったという意見が出された。

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