2016年2月29日月曜日

第29回勉強会(2016年2月28日)報告


「田中稲城の夢:帝国図書館構想をめぐって」
日時:2016年2月28日(日)
会場:京都商工会議所
発表者:長尾宗典
参加者数:11名
当日の出席者によるtwitter上のつぶやきをまとめたものはこちら

【発表者による要旨】

 田中稲城は、日本で自覚的に「国立図書館」の果たすべき役割について自覚的に語った最初期の人物の一人である。今回の発表では、彼の図書館構想の特徴は何であり、とくに明治期の文教政策とのような関係にあったかについて、同志社大学竹林文庫中に含まれる田中の意見書草稿類の検討を通して解明することを試みた。
 明治10年以前、田中が登場するよりはるか前からNational Libraryや国立図書館に関する調査や意見は表明されていた。しかし、そこでは一般の利用といった点はあまり考えられておらず、文部省の図書館政策にも直接的な影響は与えていなかった。文部省が所管していた東京書籍館では、“Free Public Library”として、つまり無料原則に立つ公立図書館としての自己規定を持ち業務を行っていた。文部大輔の田中不二麿は、公立図書館の重要性を訴えた一人だが、それは公立小学校等学校教育を補完する機関としての図書館が必要なのだという考え方に立つものであった。
 こうした事態が大きく変化するのは、明治15年の『文部省示諭』以降である。当時すでに田中不二麿は文部省を去っていたが、同示諭では、図書館に特殊の種類があり、それに応じた施策を講じることの必要性が説かれていた。つまりこの段階に至って、田中不二麿以来の、図書館といえばすなわち公立図書館を意味する状況に変化が生じ、「館種」を意識した図書館論が模索されるようになったのである。田中稲城を抜擢した東京図書館主幹・手島精一は、この考え方に沿って参考図書館と通俗図書館を区分して捉え、東京図書館を参考図書館としていく方向性を目指した。田中稲城はさらに、森有礼文部大臣の国家主義教育や帝国大学令以下の学校令に適合させる形で、東京図書館は参考図書館であると同時に国立図書館として独自の機能を持たせるべきだと主張し、様々な意見書を著していことになる。そのなかには、太政官文庫(内閣文庫)との合併や、上野から霞が関・日比谷近辺への図書館移転などといった主張が含まれていた。
 明治21年に留学に出発した田中は、米国の図書館で実務に従事し、国立図書館とは何かの理解を深め、更に図書館を一般人民の大学とする考え方、レファレンスサービスへの理解を身につけて帰朝した。その後東京図書館長となって様々な提案を繰り返していくなかでもこれらの視点は維持された。彼の構想はなかなか実現を見なかったが、明治29年の帝国図書館設立案などでは、あくまでも調査研究目的に限られるものの、学生が「一般人民の大学」であるところの図書館を卒業し、社会に出ていくことについて、田中は積極的に捉えていた。田中構想の特徴的な点は、このような利用者像の設定にも現れているといえるが、そのような人たちが使いやすい図書館として、求める書籍が得られるよう整備していき、東洋第一の図書館とすること――それが帝国図書館開館式式辞にも書き込まれた田中稲城の“夢”であった。

【質疑】(主なもののみ、適宜まとめている)
・田中稲城は教員時代に図書館学を教えていたのか。→日本史など。どのような講義だったかは不明。この頃に帝国大学を卒業した人は特定の専門というより、文系学問はだいたいカバーできるような人が多かった。なお当時の日本には学問分野としての図書館学自体が成立していなかったと思われる。
 ・帝国図書館は、帝国大学の卒業生をターゲットとはしていなかった。特に洋書の所蔵が大学図書館に比べて弱く、大学に属している学生はあまり帝国図書館を使わなかったと思われる。上京してきたがまだ大学に入っていない書生、在野の学者、苦学生などを想定ユーザとしていたか。
 ・帝国図書館の利用者層に、軍人が入っていた可能性。同時代の郷土関係資料で、軍人が地元の歴史等を研究していた痕跡を目にしたことがある。軍隊にそうした資料を備えた設備があったとも思えないので、帝国図書館を利用したかもしれない。
 ・田中稲城と和田万吉は、いずれも「通俗図書館」と「参考図書館」を分ける考え方を唱えているが、時代的な背景の差があるのではないか。和田の頃には地方改良運動の文脈において図書館を利用されてしまうことへの危惧があったのでは。

 終了後、懇親会が行われた。

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