日時:2010年7月10日(土) 14:00〜16:30
会場:大谷婦人会館 1階 会議室
発表者:米井勝一郎
出席者:9名
今回は番外編として、楠田五郎太(1908~没年不詳)について、楠田についての論考を精力的に発表されている米井氏から本格的な研究報告をいただいた。
楠田は、青年図書館員聯盟の会員であり、昭和期に岡山、兵庫、上海、満州の図書館に勤務し、『動く図書館の研究』(研文館、1935)などの著作がある。米井氏からは、青聯の結成、国民国家と図書館の機能、総力戦体制下の青聯の図書館「革新」の運動、戦後の図書館運動に遺されたもの、等々多彩な論点から楠田の活動評価がなされた。楠田は明治期の図書館界を担った人物のような華やかな学歴を持たないという意味で「周縁化」された図書館員だった。報告では、そうした彼が『動く図書館の研究』などで提言した、図書館の「大衆化」の方向性とは、楠田が満州に向かった後の総力戦体制下の内地でまず萌芽の兆しを見せ、次いで『中小レポート』の「館外奉仕」のなかで再び「帰ってきた」のではないかと、評価された。
さらに、公共圏のゆらぎを伴う現在の図書館の転機のなかで、新たな「革新」を担うのは、正規職員なのか、それとも周縁者として立ち現れた嘱託職員などなのか、そこで三度楠田は帰ってくるのか?という刺激的な問題提起もなされて締めくくられた。
主な議論の要旨は以下のとおり。
- 青聯が日図協幹部への批判を活発に行っていたとされるが、中田邦造などについてはどのように見ていたのか。
- 昭和期の青年層の運動として見れば、青聯は宗教の「革新」運動ともかなり類似した構造を持っているように思え、非常に興味深い。たとえば神社研究などでも岡山でこうした運動が知られており、運動の背景には岡山という地域のもつ特殊性があったともいえるかもしれない。
- 1990年代から唱えられるようになった国民国家論や総力戦体制論は、最近の歴史学では批判も出てきている。その批判に答える形での問題の提示の仕方が必要なのではないか。
- 楠田は、誰に向けて、誰のための図書館を提示したのか。「国民」や「大衆」、「民衆」など、さまざまな呼び方には概念の違いがある。昭和期に理想とされた「国民」像は、憲法ができる前の明治初期の「国民」像とも当然違うはずだ。彼が主体とする「周縁者」の呼び方と図書館論のプレゼンの仕方の相互連関を抑えて、細かい段階論を設定していくほうがよいのではないか。
- 楠田は、満州など外地にも渡ったが、そこで暮らす人々は、楠田の図書館論の射程に入ってきているのか。
- 戦前・戦後を断絶させずに戦後改革の主原因を戦前からの蓄積に見ようとする総力戦体制論を受けて、楠田の戦前の問題提起と戦後の図書館運動の連続性を確認しようという問題意識はわかるが、その間の教育改革(義務教育の延長)は、結果的に利用者層の拡大をもたらしたともいえるわけで、そこを論理的にどう評価していくのか。
議論の終盤に、報告者から、これまで青聯については、三大ツールの完成を称えたり、あるいはファシズムに抗した団体という側面が部分的に評価されてきたが、青聯メンバーの言説を読むと、積極的な国家への参加を説くものがかなり多いという事実がある。そのような青聯の活動を、時代状況のなかに位置づけて読み解くには、批判があるとはいえ、総力戦体制論はかなり有効なツールだと考えているとコメントがなされた。
報告終了後は、懇親会が行われた。
なお、本報告で取り上げられた楠田五郎太については、米井氏の研究のほかに、近年、書物蔵氏による「ゴロウタンは三度死ぬ」金沢文圃閣編刊『文献継承』15(2009.10)所収がある。戦後の図書館史研究のなかで、楠田がなぜ、いかに“忘れられてきたか”を検証したもので、楠田の言説が一度ならず二度までも“帰ってきた”(報告では三度めもあるかもしれない、とも言われた)ことを論証する本報告とは対照的な位置づけともいえる。両者を比較すると、いろいろな論点が浮上しそうであると思われたので、ここにとくに付記しておく。
(文責:長尾)
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